2012年01月31日
1982年3月21日(日)。 なんでマルセイユに来たかったかというと、昔、船で日本から欧州へ行く場合、たいていマルセイユに上陸したので、身近な感じがあったし、デュマの小説「モンテクリスト伯」の舞台だったこともあります。 鴎外は1884年マルセイユに上陸し列車でベルリンへ行ったし、漱石は1900年マルセイユから列車でパリ経由でロンドンへ、島崎藤村は1913年マルセイユからパリへ行きました。 与謝野晶子は往路は1913年シベリア鉄道経由でパリへ行きましたが、復路はマルセイユから船でした。 アインシュタインは1922年、マルセイユから船に乗って日本へ向かいました。 帰りはパレスチナ(現在のイスラエル)に寄ったから、マルセイユ経由かどうかわかりません。トルコへ船で渡り、オリエントエクスプレスだったかもわかりませんし、あるいはジェノバかどこか、イタリア上陸だったかも知れませんね。日曜なので市もたっていたし賑やかでした。 ストリートパフォーマンスもやっていましたが、いかついお兄さんが針を頬に刺す芸には驚きました。(本当に刺した?) その人、オーディエンスに強引に投げ銭要求して、若い女の子はとても怖がっていました。 私は後ろの方で見ていたので、金を出さずに逃げるようにその場を離れました。 町が一望できる小高い場所へ移動。沖に見える島(手前の小さいほう)にはエドモンダンテス(モンテクリスト伯)が幽閉されていたイフ城と呼ばれる牢獄跡があります。昼食をマルセイユですませてから列車でシャモニーへ向かいます。 ニース発マルセイユ・リヨン・ディジョン経由メス行きの列車に乗ります。 リヨンまでは351kmで、3時間13分で疾走します。現在はTVG新線を走るから、もっと速いですが、当時でも日本の在来線よりも速いです。札幌・釧路間はほとんど同じ349kmですが、最速でも3時間46分です。 アヴィニョンからリヨンまでローヌ川沿いに走りますが、ここは原発銀座です。シャモニーに着くのは夜遅くになるし、乗り換えのリヨンでの乗り換え時間は短いので、晩ご飯は車内販売か、リヨン駅のキオスクでサンドイッチかと思っていたら、列車に食堂車が連結されていました。時刻表には食堂車の記載がなかったので嬉しかったです。 食堂車に行くと、壁に「本日のメニュー」の張り紙がありました。 フランス語の「メニュー」とは定食(コース)のことです。 フランス語しか書かれてなかったので、どんな料理かわからず注文しましたが、アラカルトだとフランス語を解読してたら日が暮れるし、メニュー(定食)は1種類だけだったので、それを注文しました。 注文後に仏和辞典で解読したら、メインディッシュはウサギのソテーでした。 凄く美味しかったです。 欧州で一番美味しかったものは、これかも知れません。 ちなみに、スペインの料理は全般的に美味しいものの、味付けが雑でしょっぱい傾向がありますが、さすがにフランスはエレガントです。
2012年01月30日
1982年3月20日(土)、バルセロナのホテルガウディをチェックアウト。この日はマルセイユまで移動です。 列車の時刻まで時間があるので、港へ行きました。 コロンブスが乗ったサンタマリア号の実物大レプリカです。ちなみに、大阪に2倍のレプリカがあります。大阪のは遊覧船として営業しているので実物大では小さくてキャパシティーが足りませんから。 バルセロナ10:02発のカタランタルゴに乗りました。ジュネーブ行きですが、現在はモンペリエまでしか運行してません。モンペリエ以遠はTGVが連絡します。食堂車もなくなったそうです。寂しいものです。 食堂車で記念撮影。この車両は見た目はバルセロナ・マドリード間の列車と同じですが、こちらはは車輪幅を変換できる構造になっていて、国境のポルトボウ駅で早歩きくらいのスピードで変換ポイントを通り抜けると自動的に幅が変わる仕組みになっています。 機関車は対応してないので、一旦止まって機関車を後ろに付け替え、半分くらい変換したら再度止まって後ろの機関車を外し、前方にフランスの線路幅の機関車を付けるという算段です。 15:27、アヴィニョンで下車し、パリ発ミラノ行きの列車に乗り換えます。機関車はSNCF(フランス国鉄)ですが、客車はイタリア国鉄のです。アヴィニョン停車時間は3分しかないのに頑張って写真撮りました。 以前は1等しか連結されないTEEだった名残で、車両にはTEEと書かれていますが、2等車が連結され、IC(インターシティー)となっています。 なお、わずかこの1ヶ月後に、パリ・マルセイユ間はTGVになり、この列車はマルセイユ・ミラノ間の運行になりました。 TGVはあとで何回も乗るし、むしろイタリア国鉄の車両に乗れて良かったです。 アヴィニョン駅近くでローヌ川にかかる橋を渡りますが、アヴィニョンの橋は見えなかったです。 マルセイユには夕方に着き、夕食前に散策。この港(旧港)から森鴎外や夏目漱石、島崎藤村らが欧州上陸したし、アインシュタインが日本に行ったときもここから乗船しました。 ところで、バルセロナで印象的だったことがまだあります。 駐車している車が、どれも、ハンドルに大きな大きな盗難防止のカギ爪(ハンドルを回せなくするための)が付いているのです。 車泥棒が多いということなんでしょうけど、驚きました。 それと、スペインではあちらこちら、主要な建物には軽機関銃を肩から下げた警官(軍人?)が目に付いたことが印象的というか、ちょっと怖かったです。 警官が手持ちぶさたに機関銃をかちゃかちゃ音を立てながらちょしている側を通るのは嫌でした。 今でもそうなんだろうか。
2012年01月29日
1982年3月19日(金)、欧州6日目、安宿をチェックアウトして午前中はマドリード市内観光をしました。 最初に向かったのは世界的に有名なプラド美術館。 荷物を預かってもらいましたが、館員さんの対応はとてもきびきびしていて、さすがスペインを代表する一流の施設だと感服しました。 30年前のスペインの美術館等は昼休み(シエスタタイム)は閉鎖するところが多く、ピカソ美術館などもそうでしたが(現在は通しでやっているようですが)、さすがにここは通しでやっていました。 ちなみに、スペインでは6年前に公官庁の昼の休業時間は廃止されたそうです。 南欧の慣習も、世界標準に押されるのは時代の流れですね。 プラドに限らず、スペインでは宗教画などが多く、あまり楽しいという気はしなかったけど(印象派とかの方が親しみ持てるのだけど)、勉強だと思ってしっかり見ました。 次にろう人形館へ行きました。ここも人気のスポットです。 札幌オリンピックのアルペン・回転で金メダルをとったスペインのオチョアの人形だけは覚えています。 冬季オリンピックでスペイン人が金メダルをとったのはオチョアが初めてですから。 その後40年たってもそれが唯一の金メダルのようです。銅メダルは彼の妹がとったことがあるようですが。 でも、彼は6年前に56歳の若さでなくなっているのですね。 お昼ご飯は比較的庶民的なレストランで食べました。美味しかったです。ワインが美味しいのに驚くほど安かったのが嬉しかったです。そのワイン、素焼きの壺で出てきたのが印象的でした。 マドリードを14:35発のタルゴでバルセロナへ向かいます。バルセロナ着は約8時間後の22:30。2等車はそこそこの乗車率のようですが、1等車は往路と同じくがらがらでした。往路と違い、1980年にデビューしたTalgo-PENDULARというタルゴ4代目の振り子式車両で、3代目は約9時間かかるところを、これは約8時間です。 この車両、スペインから国外にも輸出され、バンクーバー・シアトル間などでも使用されています。 ドイツでも夜行列車で使用されていたけど現在は使ってないようです。 もちろん晩ご飯はタルゴの食堂車で楽しくとりました。 バルセロナに夜遅く着きましたが、さすがにこの時間はジプシーもいなく、むしろ夜の方が安全だったのは嬉しいといえば嬉しいけど、ちょっと複雑な心境。 一度泊まったホテルガウディが空いていれば良いと思い、ホテルに行ったら空いててホッとしました。 ジプシーはいないとはいえ、夜遅くに荷物を抱えたままホテルを探しに町を歩きたくないし、疲れてもいるし、このホテルに泊まれてよかったです。
2012年01月28日
マドリードの安宿には連泊しました。 (トイレットペーパーが堅いのは我慢) それまでは機内泊・ホテル泊・車中泊・ホテル泊という具合でしたから、これで少し落ち着いて過ごせます。 1982年3月18日(木)、マドリード郊外の観光名所に行きました。 まずはマドリードのアトーチャ駅へ。この駅は8年前にアルカイダの爆弾テロで191人が犠牲になっています。 この駅から50分ほどでアランフェスに着きます。ギターの名曲、アランフェス協奏曲で、この地名は有名ですよね。 アランフェス協奏曲を知らないならこちらを。 聞いたことのない人はいないはずです。 平原綾香も歌ってます。 アランフェスには王宮があるのです。世界遺産です。駅は王宮を模した建物です。アランフェスから30分くらいで古都トレドに着きます。もちろん町全体が世界遺産。かつての宮殿、アルカサル。 スペイン内戦のときの銃弾のあとなどがそのまま保存されていますこれほど中世の姿を残した町は、なかなかないと思います。
2012年01月27日
1982年3月17日(水)、バルセロナからマドリードまで列車で移動します。 バルセロナ中央駅からタルゴに乗ります。このタルゴは1964年にデビューした3代目で、バルセロナ・マドリード間は約9時間かかります。 (復路は最新鋭4代目振り子式タルゴで8時間でしたが、後日紹介します) 現在は新幹線で2時間40分なので、全然違いますね。 列車は10:25に出発し、カンプノウにほど近いサンツ駅など、市内駅2つに寄ってから延々とスペインの荒涼とした赤茶けた大地を走ります。ドンキホーテが出てきそうな風景。食堂車では何を食べたか忘れましたが(定食なのは間違いないのですが)楽しく食事できました。 車窓風景を眺めながら食事するのは良いものです。 ちなみに、食事時間の1時間くらいまえにボーイさんが予約をとりに車内を回ります。 手を挙げて予約カードをもらうだけですから、言葉が通じなくても食事にありつけます。 平均すると1時間に1回くらいのペースで途中駅に停車しますが、そのたびに車内放送が4カ国語であります。 最初はスペイン語で、全然わかりません。2番目はスペイン語に似ているからポルトガル語かも知れません。もしかしてカタラン語? どのみちわかりません。 3番目はフランス語。これも全然わかりません。 最後は英語。これならある程度わかるので感激!! これほど英語が嬉しいなんて、笑ってしまいました。 19:17、マドリードに着き、駅で翌々日のバルセロナ行きの指定券を発行してもらい、駅を出てホテルを探しました。 どこのどんなホテルだったか、あまり覚えてないのですが、安宿で、部屋の鍵をかけるのにコツが必要だったり、トイレの水タンクが高い位置にあって、下から鎖をひっぱるタイプ(昔、漫画などでよく描かれていた伝説のタイプ)だったのだけは覚えています。 あっ、あと、トイレットペーパーが堅かった (笑
2012年01月26日
前回書き忘れましたが、ミュルーズはベンゲルさんが最初にプロで所属した町です。 ベンゲルさんは同じアルザスのストラスブール出身ですからね。 今度ベンゲルさんに会ったら、ミュルーズに行ったことあると言います。(←会わないって) さて、バーゼルから夜行列車でバルセロナへ向かいますが、スイスやフランスのレール幅は標準軌の1435mm、スペインは広軌の1668mmなので国境で列車を乗り換えます。 タルゴは車輪幅を変換できるので直通できますが、バーゼルからのは乗り換えが必要です。日本で言えば急行はまなすクラスの列車なので、タルゴみたいな豪華列車ではありません。 早朝の5:56にフランスとの国境の町でスペイン(カタルーニャ)にあるポルトボウ駅へ着き、入国審査を行ったのち、7:10発バルセロナ行きに乗ります。 入国審査があるから接続に時間がかかるのはわかりますが、でも1時間14分は長いと思いましたが、観光シーズンはお客が多くて審査に時間がかかるのでしょうか。 でも、今は同じEU圏だからフリーパスなんでしょうか。 急行はまなすクラスの列車に接続する列車だけに、少々老朽化が見える車両です。 写真は2等車のデッキで撮影しましたが、1等に乗りました。(ユーレールパスは1等に乗れます)ホームとデッキにこんなに段差があるのはヨーロッパらしいですが、お年寄りは大変でしょうね。 バルセロナまでは車窓から、ときどき地中海が見える2時間ちょっとの旅で、9:39にバルセロナ中央駅に着きます。現在はこの老朽化した駅は使用していません。 さて、ここで問題です。 バルセロナ中央駅にある、この大砲みたいな物体は何でしょうか?バルセロナ駅に着いたとたん、さっそく大歓待を受けました。 子連れのジプシーの女性が金をめぐんでもらいに来たのです。 それも強引というか、窃盗のレベルです。だって、私のポケットに手を突っ込んできたんですから。 (そのポケットには財布等は入れてなかったけど) 女性の腕を強くつかんで「このやろー!」と言ったら、相手は観念して退散するかと思ったら、なおもしつこく手を出してくる始末には参りました。 バルセロナで最初の予定は、翌日のマドリード行きのタルゴの指定券を発行してもらうこと。紙に日にちと列車名、乗降の駅等を書いて出したから簡単に発券してもらえました。 次に、荷物をコインロッカーに入れようと思ったら、全て使用禁止に。 どうもバスク地方の分離独立運動やっているテロ集団が爆弾を仕掛けるからみたいですね。 仕方なく荷物を持ったまま市内観光に出かけました。 ホテルを予約して荷物を預けようかと思ったりもしましたが、アーリーチェックインと誤解され、追加料金をとられないか不安だけど安宿で英語は通じないだろうし(フランス語なら結構通じるけど、私はわからないし)、諦めました。 朝食を済ませてから、ピカソ美術館等に行きました。カンプノウへは行きませんでした。 写真はバルセロナ凱旋門。ピカソ美術館近くでは、またも歓待を受けました。 旅行鞄を持ったままなので目を付けられました。 ある男性が近づき、ティッシュを差し出したのです。私も友人も、背中にソフトクリームが付いているのです。 私は即座に、拭き取っているすきに荷物を盗む手口だとわかりましたが、友人は、「親切な人」としか思ってないようだったので「泥棒だから荷物から手を離さないように!!」と伝えました。 男性から距離を置き、絶えず男性から視線を離さないようにしながら拭き取りました。 男性には嫌悪の視線を浴びせたし、彼は諦めて退散していきました。 連続して危ない目に遭ったのはがっかりだし、不用心な日本人が多くて、日本人がカモにされるのだと思うと、腹が立つやら悲しいやら。 でも、被害がなくて幸いでした。 泊まったホテルは、ホテルガウディーという、安宿ではありませんでしたが、スペインは物価が安いので(当時は日本の半分弱くらいの物価)、良いホテルでも気軽に泊まることができました。 英語も通じるし、グエル邸というガウディーが設計した建物のそばです。 やっぱり朝のうちに予約して荷物を預けたらよかった。 このホテルのエレベーターは、フロント階と客室階のドアは反対側でしたが、こういうのは初めてで面食らいました。 (「なんでドアが開かないのか」と思いましたよ」) 今では日本でも多くなりましたね。
2012年01月23日
まず、チューリヒの写真を追加します。駅前です。露天のエスカレーターに驚きました。日本では必ず屋根が付いていますが、日本は雨が多いからでしょうか。 フランスやスペインも露天のエスカレーターを多く見かけました。 さて、1982年3月15日。欧州旅行第2日目です。 インターラーケンのホテルに泊まったとなると、スイスをある程度知っている人は「ユングフラウへ行くのだな」と思うことでしょう。 でも、当時はユングフラウという、牛乳を混ぜて冷凍庫へ入れるとアイスクリームになる製品のCMがあり、「ホイップして♪ホイップして♪ユウグフラ~ウ~♪」が有名だったので、なんだかミーハーな気がしたし、きっと日本人が大勢いるだろうし、ユーレールパス(欧州鉄道乗り放題パス)は使えなくて運賃がかなり高いこともあるし、モンブランは行く予定ということもあって、ここは諦めて世界遺産のベルンや鉄道博物館などを見ることにしました。 インターラーケン南駅です。ここからベルンまで1時間です。 ベルンの町全体が世界遺産です。ベルン大聖堂。ベルンでは怪しいおっさんがいました。 スリか、目を離した空きに鞄を盗むとかではないかと用心して、視線を離さないようにしたら、消えて行きました。 スイスはヨーロッパで最も治安の良い国のはずなのに、これではあとで行くフランスやスペインはどうなのか、ちょっと先が思いやられます。 実際、パリとバルセロナではスリや置き引き等になんども狙われました。(全て被害はありませんでしたが) ベルンの次はミュルーズへ行きました。 ミュルーズはバーゼル(中田浩二がプレーした町)の隣町で、フランスになります。 ベルンからバーゼルまでは1時間ちょっと。バーゼルで乗り換え、20分くらいでミュルーズに着きます。 ミュルーズはアルザス地方なので、ドイツ領になったりフランス領になったりした土地(小説「最後の授業」の舞台)ですが、アルザスでも最もスイスよりのミュルーズは、かつては神聖ローマ帝国だったし、その後はジュネーブとともにスイスと同盟関係を結ぶ小国だったり、なにかと複雑なのはヨーロッパらしいですね。 で、ミュルーズでは鉄道博物館へ行きましたが、写真がないので絵はがきです。 1927年製、直流1500ボルトの電気機関車です。 ミュルーズにはバーゼル空港があります。 旭川空港が旭川になくて東神楽町にあるし、大阪空港の敷地の多くは兵庫県にあるし、新東京国際空港は千葉県にありますが、国境を越えて空港があるのは凄いですよね。 バーゼルに戻ったのは夕刻で、その晩はホテル代を浮かすためにバルセロナまで夜行列車に乗ります。 バーゼル17:59発で、ジュネーブ、リヨン、アヴィニョンを経由してバルセロナへ行く列車に乗りました。 875km、15時間40分の長丁場です。
2012年01月22日
1982年3月14日の正午頃、飛行機がチューリヒに着き、ここから欧州鉄道の旅が始まります。 チューリヒ空港からスイス国鉄でチューリヒ中央駅へ行きました。(現在は路面電車も空港まで乗り入れしているようです)チューリヒ中央駅はヨーロッパに多い、行き止まりの駅です。ドーム屋根もそれらしい雰囲気ですね。この日は宿泊地のインターラーケンまでの移動だけなんですが、チューリヒで乗り換えに時間があったので、駅前を散策してみました。 路面電車がとまっていたので乗ってみようと思ったら、ポイントのところで脱線して立ち往生していました。この写真ではわからないと思いますが、一番前の車輪が左折のレールに乗り、二番目の車輪が直進のレールに乗ってしまって動けないのです。 仕方なく駅近くをぶらぶらすることにしましたが、とても驚きました。 いくら日曜とはいえ、町が静かなんです。 金融の中心地で、とても賑わっていると思っていたのに、都会の喧噪は全くありません。 日本だとチリ紙交換や街頭放送など、何かとやかましいものですが、本当に静かで感心しました。 日本が異常なんだと思います。選挙の街宣もやめてほしいものです。 チューリヒから40分ほどのルツェルンでインターラーケン行きに乗り換えました。 とてもマイナーな路線で、以前紹介したことのある写真ですが、こんなスイスらしいところを2時間走ります。ベルン経由の幹線ルートもあるのですが、あえてスイスを満喫するためにこのルートにしたのです。 途中、ブリエンツにも停車します。 ブリエンツからは大井川鉄道と姉妹提携しているブリエンツ・ロートホルン鉄道がありますが、残念ながら冬場は営業していません。 アブト式のSL保存運転をやっているので、いつか乗ってみたいです。 シーズンオフ(スキーシーズンではあるけど)なので列車はがらがらだし、本当にこの列車がインターラーケンに着くのか不安になりましたが、無事目的地に着き、ホテルもとれ、めでたくヨーロッパ初日は終わりました。
2012年01月21日
私が海外旅行したのは1981年のサイパン、1982年と1985年のヨーロッパの3回です。 今日から10回くらいに渡って1982年の旅行記を書こうと思います。 1982年3月13日に伊丹発成田・アンカレッジ経由ヒースロウ行きのブリティッシュ・エアウェイズのジャンボ機に友人と2人で乗りました。 なぜか成田からではなく伊丹から乗りました。 当時、欧州路線の多くは北回り、つまりアンカレッジ経由でソ連を避ける北極ルートでした。 今は全てロシア上空を通るから、成田からロンドンまでは12時間くらいで着きますが、北回りだと16時間半、伊丹からだと18時間50分もかかります。 伊丹を晩に出て、成田に寄ってから、日本時間で翌早朝にアンカレッジに寄港しました。アンカレッジ時間は前日の午後の早い時間帯で、なんだか変な気分。 アンカレッジ空港ターミナルを散策して気分転換しました。 ターミナル内だけで入国手続きとかはしなかったものの、私の唯一のアメリカ体験でした。(1981年のサイパンは、まだアメリカの準州になる前なので) アンカレッジを出ると、大雪原に蛇行した大河が流れるだけで、他に何もない(人工物は皆無)の景色がずっと続きます。 同じ所をぐるぐる飛んでいるのかと思うくらい、1時間以上飛んでも全く景色が変わらず、スケールの大きさに驚愕しました。 やがて日没しました。 外が真っ暗になったと思ったら、なにやら不思議なものが見えてきました。 オーロラです。 オーロラが見えるなんて思ってもなかったのでびっくりしました。 本当に素晴らしいものでした。私が50年以上の人生で、最も素晴らしい景色でした。 こんな素晴らしいものが見れるのに、ほとんど全ての乗客は眠っていました。 機内アナウンスで叩き起こしても良いのではと思いました。 ヒースロウに着いたのは現地時間で早朝。時差ボケというよりは機内泊でちょっと疲れました。 珍しい飛行機が沢山駐機していました。(写真はぶれてます)727に似ていますが、これはトライデントです。 これに乗れたらいいと期待したのですが、乗り換えのチューリヒ行きの便は737でした。 乗り換えたチューリヒ行きの飛行機がヒースロウを飛び立つと、まもなくドーバー海峡を渡り、しばらくフランス上空を飛ぶと、大きな町が見えてきました。 もしかして、そうだ!! 翼よ! あれが巴里の灯だ。右の長方形の緑はブローニュの森でしょうか。 その下の放射状になっている道路の中心が凱旋門に違いありません。 凱旋門から左下への道がシャンゼリゼ通りで、その突き当たりの緑はコンコルド広場と宮殿。 その左に弧を描いているのがセーヌ川。 こんなにはっきりパリの町が見える遊覧飛行のサービスに感激でした。 (写真は少し霞がかって見えますが、肉眼では良く見えました) 次回はスイスです。
2012年01月20日
先週、浜頓別へ行ってきました。 この子は人見知りするので、ここでは暗くてストロボを焚いたので目が光ってしまいました。クッチャロ湖には現在400羽のコハクチョウがいます。30年前の欧州旅行の写真を整理しています。 明日から公開できると思います。
2012年01月18日
こんびにさんが凱旋門から見たシャンゼリゼ通りの写真を紹介してくれましたが、私が行った30年前と全然変わってないので驚きました。建物は全然変わってません。もう30年たっても同じなんでしょう。100年後はどうなんでしょうか。高層ビルが建つでしょうか。 さて、フランス語の問題です。 「オー・シャンゼリゼ」の「オー」の意味、知っていますか? (英語じゃありませんから) 30年前のパリ・リヨン駅です。中身が丸見えのエレベーターに驚きました。2階にはレストランがあります。こんびにさんの写真を見ると、改装して少し変わりましたが、全体の雰囲気は同じだと思いました。 ジュネーブからこの列車に乗って、着いたのがリヨン駅だったのです。ところで、3月17日はアウェイだろうと思い、J1は関東のクラブが多いから、この日のJAL旭川・羽田便を予約していたのですが、キャンセルしました。(神戸には行きません) せっかくクラスJがとれたのに。(週末の旭川便は売り出しと同時にクラJが売り切れになるので、なかなか取れないのです)
2012年01月13日
私はクリスチャンではないから嫌ってはいませんが、今日は13日の金曜日。 以前、オオドサが「13日の金曜日が必ず年1回以上出現する事を証明せよ」の問題を出したことがありました。 平均すると1年に1.71回あるわけで、1年に1回か2回あるのが普通です。 で、3回以上ある年があるのかと思いましたが、上記の問題で私が出した回答を12月まで延長すればわかります。 まず、うるう年でない年から。 xを金曜、x+1を土曜、x+2を日曜(以下省略)とすると、 1月13日がxなら 2月13日はx+3 3月13日はx+3 4月13日はx+6 5月13日はx+1 6月13日はx+4 7月13日はx+6 8月13日はx+2 9月13日はx+5 10月13日はx 11月13日はx+3 12月13日はx+5 従って、2月13日が金曜日なら年に3回あります。(4回以上はなし) 次にうるう年です。 1月13日がxなら 2月13日はx+3 3月13日はx+4 4月13日はx 5月13日はx+2 6月13日はx+5 7月13日はx 8月13日はx+3 9月13日はx+6 10月13日はx+1 11月13日はx+4 12月13日はx+6 従って、1月13日が金曜なら、年に3回あります。(4回以上はなし) つまり、今年は平均7年に1回しかない13日金曜日が3回ある年です。
2012年01月12日
飛行機がぜいたくなものだった時代、道外へ出るときや北海道へ戻るときは青函連絡船だったから、私の世代以上の道産子にとって津軽海峡はノスタルジーを感じるものです。 初めて青函連絡船に乗ったのは高校の修学旅行。大学生のときもよく乗りました。(新潟の大学だったので) 連絡船は海峡を横断しますが、今回乗ったフェリーは秋田発苫小牧行きなので縦断です。 強風で舷側のデッキは立入禁止でしたが、後ろの甲板には出れました。意外といい天気でした。 オオドサが親子の写真を撮ってあげてました。このフェリーで思い出すのは5年前の5月の連休に富山に行った際、行きの苫小牧から新潟まで乗った船内でザスパ戦の速報を見て(ダヴィが先制したけど逆転負け)がっかりしたけど、帰りはベガルタ戦の結果(ソダンのゴールで1-0)を船内で見て喜んだことです。 大間岬建設中の大間原発みたいです。建設中止してほしいものです。
2012年01月11日
旅行は、その土地の美味しいものを食べるのが楽しみです。 でも今回の三陸めぐりは正月だからやってない店も多いだろうし、被災地でもあるし、さらに過密日程ということもあって期待はしていませんでした。 どうせ大晦日に札幌でご馳走を食べるのだし、コンビニで何か買って食べるのでも良いと思ってました。 それでも、1月2日の晩は宮古の国民休暇村に泊まり、ちょっとだけご馳走が食べれるかと思っていたのですが、3日の八戸発のフェリーがとれなく(2等しかなく)、秋田発のフェリーに予定を変えたため、休暇村はキャンセルし、晩遅くに秋田のホテルに着く行程のため、完全にご馳走が食べれない旅だと思っていました。 で、1月2日の昼ご飯ですが、コンビニのサンドイッチを想像していたのですが、大船渡の道の駅のレストランが営業していました。(先日紹介した猫のいる道の駅) 3が日だけ1日20食限定の寿司セットがありました。アワビ付きは三陸らしいけど、エビは生でないのか。 新潟も茹でエビが普通だったけど、鳥取の回転寿司は生エビあったなぁ。 そのレストランのTVはアナログでした。どうってことない? (笑 3月31日までアナログ放送やるのですね。晩ご飯は、できたら盛岡で、わんこ蕎麦を食べたいと思ったのですが、翌朝は早く起きないといけないし、コンビニでも良いと思ったものの、東北道のサービスエリアなら、少しまともなものが食べれるかと思い、花巻近くの紫波サービスエリアに行ったら、レストランが営業していました。 ラー油とブラックペッパーの辛いタレに付けて食べる蕎麦がありました。普通の蕎麦が食べたかったのですが、これしかないようでした。 太くて黒い蕎麦にひかれてオーダーしたのですが、茹ですぎだし、辛いタレはやっぱり好きになれません。 でも、レストランで落ち着いて食事できるだけでもありがたいと思いました。 おかげで疲れもとれ、秋田まで1時間半、快適に運転できました。 秋田からの新日本海フェリーのランチバイキング、1200円。ラーメンは茹で置き、スパゲティーはアルデンテではないし、食器は樹脂製だし、これで1200円は割高感ありますが、仕方ないですね。カレーは美味しかったけど。 お客は子ども連ればかり。幼児無料だから子ども連れなら割高感ないかも。 でも、大海原を見ながらクラシックで乾杯できるのも良いものです。 船はほとんど揺れず、15分くらい遅れただけで無事苫小牧東港に着きました。 ところで、おみやげにホヤの薫製を買おうと思ったけど、どこにも売ってなくて残念。 大宮駅のキオスクで売っているのですけどね。
2012年01月10日
オオドサも紹介してますが、日本三大鍾乳洞の龍泉洞に28年ぶりに行きました。前回行ったのは三陸鉄道が開業した年でした。この鍾乳洞の見所は、鍾乳石ではなく地底湖なんです。 潜水調査をやっていて、ちょうど潜行開始するところでした。写真ではよくわかりませんが、綺麗で神秘的な湖です。 洞内の気温はいつも10度くらいだそうで、夏は涼しく、冬は暖かいのですが、たしかに寒くなかったです。お土産に龍泉洞ビール、龍泉洞サイダー、龍泉洞の水、龍泉洞の純米酒を買いました。ビールと酒は、かなり辛口でした。 龍泉洞近くの岩泉駅はJR岩泉線の終点ですが、一昨年の水害で運休したままです。このまま廃止になるかも知れません。
2012年01月09日
被災地見学は田老が最後です。 今回、知人を訪ねたのは石巻ですが、それ以外の被災地訪問は単なる見学なので、道路の渋滞等で迷惑かけるのも考えものだし、自粛するべきか悩みましたが、正月で復旧工事等は休みだろうし、むしろ飲食や土産物の購入とかで支援になると思いました。 宮古市の旧田老町は、1984年に行った想い出の地で、そのときお世話になった旅館がどうなっているか、とても気になっていて、被災地で最も行きたかった場所です。 田老は明治三陸津波や昭和三陸津波で甚大な被害が起こった地です。 どんだけひどい被害があったのかはこちらをご覧下さい。 そんな地区なので、標高10メートルの防潮堤を建設しました。 ご自慢の防潮堤は2重に設置し、チリ津波のときは町に全く被害を出さず、海外でも有名になったそうです。 しかし、昭和三陸津波程度を想定したのか、今回の津波は防潮堤を大きく越え、しかも防潮堤自体が倒壊してしまいました。二重にある防潮堤の山側の(奥の方)は壊れなかったものの、手前は流されているのがわかりますね。 水門部分を残して流されて消えた防潮堤。ちなみに、水門を閉じに来て犠牲になった消防団員もいるそうです。 水門は遠隔操作できないといけませんよね。 それ以外にも、避難を呼びかけて犠牲になった関係者も少なくないそうです。 避難は自主的にするのが鉄則で、見回りに来た人に呼びかけられてからでは遅かったり、見回りに来た人が危険になったりしますから、呼びかけは防災無線等にすべきだし、住民も、きちんと情報収集して自ら行動をしないといけませんね。 今回の反省で、今後は警察・消防等も一旦は避難しようということが各地で話し合われているようです。 防潮堤はあと6~7メートル高かったらよかったのでしょうか。この防潮堤があるからと安心して避難せず犠牲になった人もいるそうです。 かえって人的被害を大きくしたのかも知れません。 さて、それで以前泊まった旅館はどうなったか、町の中心部に行ってみたのですが、志津川や陸前高田の中心部と同様、ほとんど更地になっていて、残った建物は小学校と中学校だけで、旅館はあとかたもなくなっていました。 呆然として写真を撮ることも忘れた、というか撮る気にならなかったです。 その旅館の老夫婦や若旦那は無事だったのか心配です。 旅館の食事は、とてもホヤが美味しかったのが印象に強く残っています。 町が復興したら美味しいホヤを食べに行きたいです。
2012年01月08日
岩手県大槌町役場です。 町長以下数十人の町職員が、ここで犠牲になりました。地震直後、対策本部を庁舎内に設置したけど余震がひどく、駐車場に移したら大津波警報が出て、2階に避難したけど津波にのまれたそうです。 海の直ぐそばで、標高が数メートルくらいしかない場所なんですから、迅速に高台に避難してほしかったですね。 そもそも役場がここにあるは危険なんですから、せめて5階建て以上にしてほしかったですね。 この町は住民の1割以上が犠牲になったそうで、他の市町村よりも犠牲者の割合が高いようです。 いつかまた来る大津波では犠牲者を出さないよう、しっかり対策をとってほしいです。 釜石湾です。木がじゃまで見えにくいですが、湾をまたぐ大規模な防波堤がありますが、半分は倒壊してしまいました。この防波堤のおかげで、被害をある程度少なくできたそうですが、1200億もかかったので、費用対効果はどうなのか気になるところです。 数百億円かけて修復するそうですが、弱かった構造の原因がわかったそうですから、次に来る大津波では、今回よりも威力を発揮してくれるといいですね。 釜石は津波に対する防災意識が高いそうで、「津波てんでんこ」という言い伝えが浸透しているそうです。 家族が合流してから一緒に避難すると時間がかかって間に合わなくなるから、それぞれがまっしぐらに逃げろということで「てんでんばらばらに避難」という意味だそうです。 市民への教育での3原則は、<1、想定を信じるな>< 2、状況下で最善をつくせ>< 3、率先避難者になれ>だそうです。 今回は「釜石の奇跡」と言われましたが、学校管理下にある児童生徒約3000人は全員無事だったそうです。 最も注目されたのは鵜住居小学校で、児童は一旦学校3階に集まったものの、隣の釜石東中学校の生徒が校庭に駆けだしたのを見て、教師の指示を待たずに自ら校庭へ出て、普段から一緒に避難訓練している中学校の生徒と合流して高台へ避難し、間一髪で難を逃れたのです。
2012年01月08日
岩手県大船渡市の道の駅さんりくにいました。 大船渡市と合併する前は三陸町だった場所です。猫にえさをやらないで下さいと書いてありました。オオドサも紹介してますが、義妹が預かっている猫。外の空気を吸わせてみました。大阪生まれは寒さに弱い?風呂の残り湯が美味い (笑
2012年01月07日
陸前高田市は千昌夫の出身地なので、町の規模(2万3千人)の割には少し知名度があるような気もしてましたが(最近の若い人は千昌夫を知らない人が多いでしょうけど)、震災で大きく報道されて有名になりましたね。 ここが陸前高田市の中心部とは信じられません。志津川も衝撃的でしたが、もっとひどいありさまに絶句しました。 中心部から南東方向です。北東方向。西方向。500メートル先に駅があったはずですが見えません。奥の白い建物は県立高田病院だと思います。 最上階の4階まで浸水しましたが、大半の人は屋上に避難して救助されましたが、入院患者51人中12人とスタッフ82人中8人が犠牲になったそうです。 病院は別の場所の仮設で診療しているそうです。 南方向。 唯一の高層建築物と言われる(正しくは中層かな)、千昌夫が建てたキャピトルホテルです。 休業中です。3階の天井まで水に浸かったそうです。 陸前高田市役所。3階まで浸水し、屋上にいた約100人はヘリで救助されました。 市役所は現在1km内陸の仮庁舎を使っています。オオドサも紹介してますが、市役所向かいにある市民会館です。正面玄関から。ここは避難所になっているのに3階の天井近くまで浸水し、多くの犠牲者がでました。 陸前高田市の中心部には13カ所の避難所があり、そのうち8カ所が浸水したそうです。 4月14日の道新ですが、標高の低い場所にある建物を避難所にして犠牲者がでたことに触れています。高田高校には約250人の生徒が残っていたけど、すぐに裏の高台にあるグラウンドに避難して無事だったが、水泳部の9人は市民プールにいて、職員に車で避難所の市民会館まで送ってくれたとのこと。しかし津波がきて7名が犠牲になったそうです。遺族の親は「市民会館よりも近い高校に送ってくれれば」。 同様に、ある中学校の野球部員8人はプール近くの商業施設の係員に誘導されて市民会館から400メートル離れた体育館に向かったものの、全員が犠牲になったそうです。 その商業施設にいた地元の76歳の男性は自分で決めていた高台に避難して無事で、「あんな低い場所は危ないと思っていた」と、市民会館や体育館が避難所になっていることに普段から疑問だったとか。 このたびの震災で、しばしば「想定外」との言葉が使われましたが、想定が甘かったということです。 指定された場所に避難して津波の犠牲になるなんて、1000年に1回クラスのなら仕方ないかも知れませんが、100年に1回クラスでは残念でなりません。 明治三陸津波や昭和三陸津波を基準に想定すべきなのに、チリ地震の津波を想定することが多かったようです。福島第一は完全にそうですよね。
2012年01月06日
オオドサと重複する写真もありますが(普段は重複しないよう気を付けていますが)、記録として残しておきたいのでご容赦願います。 南三陸町の戸倉という集落(旧戸倉村)ですが、志津川と同じ湾に面しているため、ここも壊滅的被害を受け、地盤沈下して、まだ水が引いてません。野鳥の楽園になっているのは皮肉な感じもして、余計悲しいですね。このあたりにあったはずの戸倉小学校は全壊し、廃校になった登米市の校舎を借りて授業をやっているそうですが、一番遠い児童はスクールバスで1時間もかかるそうです。 戸倉小学校の体育館は震災10日前に完成したばかりでした。 戸倉駅付近の線路(JR気仙沼線)はこんな様子。トンネルの先は線路の路盤のほとんどが流されています。志津川の松原公園で保存していたSL。この公園で遊んだ子どもの想い出のSLだと思いますが、スクラップにされるのでしょうか。 公立志津川病院の仮設診療所です。イスラエル軍が医療活動をやっていたプレハブです。入院患者は登米市の病院施設を借りて収容しています。 南三陸町は志津川町と歌津町が合併した町ですが、歌津の中心部も壊滅的被害で、国道45号の橋桁はほとんとが流されています。ここが歌津で一番の繁華街だった場所で、橋は45号バイパス。手前の道路は旧45号だと思います。 9月に見学した臨床心理士がやっているカフェ(集会所としても機能)は、冬は寒くないようにしてオープンしていました。
2012年01月05日
昨年9月に仙台在住で石巻出身の知人に石巻を案内していただいたんですが、今度はオオドサの友人が石巻にいるということで、また石巻に行きました。 石巻は人口16万人で、三陸沿岸で最も大きな町です。 石ノ森章太郎は石巻近郊出身で、記念館などが石巻市内にあります。石ノ森萬画館は今年の夏には復旧するそうです。港に近い萬画館付近は、まだ壊れたままの建物が目に付きます。猫の島として有名な田代島へ行くフェリーは、岸壁が破壊されて、しばらく別な港から出ていましたが、元の場所に戻りました。もっと海岸近くに行くと被害はひどくなります。コンビニだった建物です。後方は住宅密集地だった場所です。 志津川や陸前高田の中心部では木造の家は全部破壊されてしまったものの、ここはリアス式でないせいか、少しは木造住宅が残っています。 今後、ここはどうなるのでしょうか。 反対側は9月にも紹介した、火災にあった門脇小学校です。日和幼稚園のバスが津波にあって5名の園児が犠牲になったのは、この学校のすぐそばだったそうです。後ろの高台に幼稚園があり、幼稚園は無事だったのです。 5名の園児は津波で溺れて亡くなったのかと思ったら、10時間後の火災で亡くなったようです。 助かったバスの運転手は幼稚園にバスの位置を知らせたのに、どうして園は助けに行かなかったのかなど批判されているので気になっています。詳しい真相を知りたいです。 泊まった石巻グランドホテルは駅の近くの少し内陸なので津波の被害はメインストリート(オオドサが紹介した友人宅のあたり)よりも少なく、1Fフロアが40cm浸水したそうです。 それでも営業再開まで5ヶ月近くかかったそうです。 現在でも一部のレストランは閉鎖したままです。 営業再開記念価格のツイン2食付き11,600円でした。 最初は一人の価格かと思ったら、2名分の価格で驚きましたが、食事は質素なので赤字ということはなさそうでホッとしました。 夕食はキンキの煮付け。朝食も東横インに負けず劣らずの質素なものでしたが、それでよかったと思いました。
2012年01月04日
譲り受けた車の名義変更をしないといけませんが、自分でやるのは面倒かなと思ったのですが、ネットで検索すると、直ぐに方法を解説しているサイトがヒットするし、自分でやることも考えました。 まずは車庫証明を取ります。 普通、車を購入すると、ディーラーには1万円以上の車庫証明費用を払うので、車庫証明は何千円(1万円近く?)するのかと思ったら、2750円だということがわかりました。 ディーラーの代行手数料が高いのですね。ぼったくりかという気もするくらい、ばかばかしいので、自分で手続きすることに決定しました。 解説サイトを見ると、一度警察署に行って車庫証明申請用紙をもらい、自宅で記入してもう一度警察署に行くとなっていました。 今日、警察署に行くのに、念のため警察署の住所を確認しようと思って旭川中央警察署のサイトを見たら、各種申請書ダウンロードのページがあり、これをプリントしたら1回の訪庁で済むかと思い、プリントして記入して持って行きました。 添付する地図も、今はグーグルマップをプリントすれば良いから楽です。(見取り図だけは作図しました) おかげで1発で終わりました。 ただ、当初のホームページアクセスの目的である警察署の住所確認を忘れて、勘違いして中央警察署ではなく東警察署へ行ってしまいました (笑 両警察署は2kmしか離れてないからたいした間違いではありませんが。 ところで、岩手県の龍泉洞で売っていました。デザインが千葉の恋人とそっくりなので、同じ会社が作っているのでしょう。 千葉・岩手以外にもありそうだと思って調べたら、かなりありますね。 追記です。 オオドサが紹介したSLの震災前の様子はこちらで良く見れます。
2012年01月04日
義妹の車を譲り受けるために東京へ行きました。 JALで行きたかったけど年末年始は普通運賃(35,770円)しかなくて他社便にしました。(それだけが理由ではないのですが、詳しくは後述しましす) 一番安いのはスカイマークですが、それよりちょっと高いだけで道民航空会社があるのでそちらにしました。後方はめったに見れらないベガルタ色の全日空機。 ADOにしたのは、こんな良い席があることも理由です。緊急時は真っ先に脱出できるからではありません。席が広いからです。。席が広いからというのは、乗り心地が良いというメリットもありますけど、私は化学物質過敏症で、前の座席に整髪料等のきつい人がいると具合悪くなってしまうからです。従って、こういう席がとれないときは前方がギャレー(スクリーン)等で、すぐ前に座席のない席にします。 同様に、隣の席に香水がきつい人やタバコの臭いのする人が座られても困るので、2人で乗るときは、この飛行機のような2人掛けの座席のある機種にします。それでADOに乗ることも少なくないのです。 1人のときは苦労しますが、この機種だと1人掛けのがあるし、あるいはJALのクラスJにしたりします。 羽田から京急。一番後方に座りました。蒲田駅付近の改良(複線化と高架化)は、かなり進捗しましたが、品川駅付近の急カーブは改善されないのでしょうか。ここで一時停止したので沢山のJR車両が見れました。成田エクスプレスです。品川から新宿まで山手線に乗り換えたらFC東京のマフラーをした人が乗ってました。 一瞬、「試合のない日もグッズを身に付ける感心なサポ」と思ったのですが、天皇杯があったことを思い出しました。当然、その人は代々木で降り(乗り換え)ました。 新宿から中央線で荻窪まで乗りました。荻窪で車をひきとり、一路北海道へ目指します。那須は平地林が多くて好きです。このころ、揺れは感じなかったけど地震があり、東北道は50km/h制限になってました。常磐道の一部は通行止めでした。高速料金を節約するために常磐道経由も選択肢にあったのですが、東北道にしてよかったです。 このあと、被災地を訪ねるのですが、次回に紹介します。
プロフィール
1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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