2012年01月09日
被災地見学は田老が最後です。 今回、知人を訪ねたのは石巻ですが、それ以外の被災地訪問は単なる見学なので、道路の渋滞等で迷惑かけるのも考えものだし、自粛するべきか悩みましたが、正月で復旧工事等は休みだろうし、むしろ飲食や土産物の購入とかで支援になると思いました。 宮古市の旧田老町は、1984年に行った想い出の地で、そのときお世話になった旅館がどうなっているか、とても気になっていて、被災地で最も行きたかった場所です。 田老は明治三陸津波や昭和三陸津波で甚大な被害が起こった地です。 どんだけひどい被害があったのかはこちらをご覧下さい。 そんな地区なので、標高10メートルの防潮堤を建設しました。 ご自慢の防潮堤は2重に設置し、チリ津波のときは町に全く被害を出さず、海外でも有名になったそうです。 しかし、昭和三陸津波程度を想定したのか、今回の津波は防潮堤を大きく越え、しかも防潮堤自体が倒壊してしまいました。二重にある防潮堤の山側の(奥の方)は壊れなかったものの、手前は流されているのがわかりますね。 水門部分を残して流されて消えた防潮堤。ちなみに、水門を閉じに来て犠牲になった消防団員もいるそうです。 水門は遠隔操作できないといけませんよね。 それ以外にも、避難を呼びかけて犠牲になった関係者も少なくないそうです。 避難は自主的にするのが鉄則で、見回りに来た人に呼びかけられてからでは遅かったり、見回りに来た人が危険になったりしますから、呼びかけは防災無線等にすべきだし、住民も、きちんと情報収集して自ら行動をしないといけませんね。 今回の反省で、今後は警察・消防等も一旦は避難しようということが各地で話し合われているようです。 防潮堤はあと6~7メートル高かったらよかったのでしょうか。この防潮堤があるからと安心して避難せず犠牲になった人もいるそうです。 かえって人的被害を大きくしたのかも知れません。 さて、それで以前泊まった旅館はどうなったか、町の中心部に行ってみたのですが、志津川や陸前高田の中心部と同様、ほとんど更地になっていて、残った建物は小学校と中学校だけで、旅館はあとかたもなくなっていました。 呆然として写真を撮ることも忘れた、というか撮る気にならなかったです。 その旅館の老夫婦や若旦那は無事だったのか心配です。 旅館の食事は、とてもホヤが美味しかったのが印象に強く残っています。 町が復興したら美味しいホヤを食べに行きたいです。
2012年01月08日
岩手県大槌町役場です。 町長以下数十人の町職員が、ここで犠牲になりました。地震直後、対策本部を庁舎内に設置したけど余震がひどく、駐車場に移したら大津波警報が出て、2階に避難したけど津波にのまれたそうです。 海の直ぐそばで、標高が数メートルくらいしかない場所なんですから、迅速に高台に避難してほしかったですね。 そもそも役場がここにあるは危険なんですから、せめて5階建て以上にしてほしかったですね。 この町は住民の1割以上が犠牲になったそうで、他の市町村よりも犠牲者の割合が高いようです。 いつかまた来る大津波では犠牲者を出さないよう、しっかり対策をとってほしいです。 釜石湾です。木がじゃまで見えにくいですが、湾をまたぐ大規模な防波堤がありますが、半分は倒壊してしまいました。この防波堤のおかげで、被害をある程度少なくできたそうですが、1200億もかかったので、費用対効果はどうなのか気になるところです。 数百億円かけて修復するそうですが、弱かった構造の原因がわかったそうですから、次に来る大津波では、今回よりも威力を発揮してくれるといいですね。 釜石は津波に対する防災意識が高いそうで、「津波てんでんこ」という言い伝えが浸透しているそうです。 家族が合流してから一緒に避難すると時間がかかって間に合わなくなるから、それぞれがまっしぐらに逃げろということで「てんでんばらばらに避難」という意味だそうです。 市民への教育での3原則は、<1、想定を信じるな>< 2、状況下で最善をつくせ>< 3、率先避難者になれ>だそうです。 今回は「釜石の奇跡」と言われましたが、学校管理下にある児童生徒約3000人は全員無事だったそうです。 最も注目されたのは鵜住居小学校で、児童は一旦学校3階に集まったものの、隣の釜石東中学校の生徒が校庭に駆けだしたのを見て、教師の指示を待たずに自ら校庭へ出て、普段から一緒に避難訓練している中学校の生徒と合流して高台へ避難し、間一髪で難を逃れたのです。
2012年01月07日
陸前高田市は千昌夫の出身地なので、町の規模(2万3千人)の割には少し知名度があるような気もしてましたが(最近の若い人は千昌夫を知らない人が多いでしょうけど)、震災で大きく報道されて有名になりましたね。 ここが陸前高田市の中心部とは信じられません。志津川も衝撃的でしたが、もっとひどいありさまに絶句しました。 中心部から南東方向です。北東方向。西方向。500メートル先に駅があったはずですが見えません。奥の白い建物は県立高田病院だと思います。 最上階の4階まで浸水しましたが、大半の人は屋上に避難して救助されましたが、入院患者51人中12人とスタッフ82人中8人が犠牲になったそうです。 病院は別の場所の仮設で診療しているそうです。 南方向。 唯一の高層建築物と言われる(正しくは中層かな)、千昌夫が建てたキャピトルホテルです。 休業中です。3階の天井まで水に浸かったそうです。 陸前高田市役所。3階まで浸水し、屋上にいた約100人はヘリで救助されました。 市役所は現在1km内陸の仮庁舎を使っています。オオドサも紹介してますが、市役所向かいにある市民会館です。正面玄関から。ここは避難所になっているのに3階の天井近くまで浸水し、多くの犠牲者がでました。 陸前高田市の中心部には13カ所の避難所があり、そのうち8カ所が浸水したそうです。 4月14日の道新ですが、標高の低い場所にある建物を避難所にして犠牲者がでたことに触れています。高田高校には約250人の生徒が残っていたけど、すぐに裏の高台にあるグラウンドに避難して無事だったが、水泳部の9人は市民プールにいて、職員に車で避難所の市民会館まで送ってくれたとのこと。しかし津波がきて7名が犠牲になったそうです。遺族の親は「市民会館よりも近い高校に送ってくれれば」。 同様に、ある中学校の野球部員8人はプール近くの商業施設の係員に誘導されて市民会館から400メートル離れた体育館に向かったものの、全員が犠牲になったそうです。 その商業施設にいた地元の76歳の男性は自分で決めていた高台に避難して無事で、「あんな低い場所は危ないと思っていた」と、市民会館や体育館が避難所になっていることに普段から疑問だったとか。 このたびの震災で、しばしば「想定外」との言葉が使われましたが、想定が甘かったということです。 指定された場所に避難して津波の犠牲になるなんて、1000年に1回クラスのなら仕方ないかも知れませんが、100年に1回クラスでは残念でなりません。 明治三陸津波や昭和三陸津波を基準に想定すべきなのに、チリ地震の津波を想定することが多かったようです。福島第一は完全にそうですよね。
2012年01月06日
オオドサと重複する写真もありますが(普段は重複しないよう気を付けていますが)、記録として残しておきたいのでご容赦願います。 南三陸町の戸倉という集落(旧戸倉村)ですが、志津川と同じ湾に面しているため、ここも壊滅的被害を受け、地盤沈下して、まだ水が引いてません。野鳥の楽園になっているのは皮肉な感じもして、余計悲しいですね。このあたりにあったはずの戸倉小学校は全壊し、廃校になった登米市の校舎を借りて授業をやっているそうですが、一番遠い児童はスクールバスで1時間もかかるそうです。 戸倉小学校の体育館は震災10日前に完成したばかりでした。 戸倉駅付近の線路(JR気仙沼線)はこんな様子。トンネルの先は線路の路盤のほとんどが流されています。志津川の松原公園で保存していたSL。この公園で遊んだ子どもの想い出のSLだと思いますが、スクラップにされるのでしょうか。 公立志津川病院の仮設診療所です。イスラエル軍が医療活動をやっていたプレハブです。入院患者は登米市の病院施設を借りて収容しています。 南三陸町は志津川町と歌津町が合併した町ですが、歌津の中心部も壊滅的被害で、国道45号の橋桁はほとんとが流されています。ここが歌津で一番の繁華街だった場所で、橋は45号バイパス。手前の道路は旧45号だと思います。 9月に見学した臨床心理士がやっているカフェ(集会所としても機能)は、冬は寒くないようにしてオープンしていました。
2012年01月05日
昨年9月に仙台在住で石巻出身の知人に石巻を案内していただいたんですが、今度はオオドサの友人が石巻にいるということで、また石巻に行きました。 石巻は人口16万人で、三陸沿岸で最も大きな町です。 石ノ森章太郎は石巻近郊出身で、記念館などが石巻市内にあります。石ノ森萬画館は今年の夏には復旧するそうです。港に近い萬画館付近は、まだ壊れたままの建物が目に付きます。猫の島として有名な田代島へ行くフェリーは、岸壁が破壊されて、しばらく別な港から出ていましたが、元の場所に戻りました。もっと海岸近くに行くと被害はひどくなります。コンビニだった建物です。後方は住宅密集地だった場所です。 志津川や陸前高田の中心部では木造の家は全部破壊されてしまったものの、ここはリアス式でないせいか、少しは木造住宅が残っています。 今後、ここはどうなるのでしょうか。 反対側は9月にも紹介した、火災にあった門脇小学校です。日和幼稚園のバスが津波にあって5名の園児が犠牲になったのは、この学校のすぐそばだったそうです。後ろの高台に幼稚園があり、幼稚園は無事だったのです。 5名の園児は津波で溺れて亡くなったのかと思ったら、10時間後の火災で亡くなったようです。 助かったバスの運転手は幼稚園にバスの位置を知らせたのに、どうして園は助けに行かなかったのかなど批判されているので気になっています。詳しい真相を知りたいです。 泊まった石巻グランドホテルは駅の近くの少し内陸なので津波の被害はメインストリート(オオドサが紹介した友人宅のあたり)よりも少なく、1Fフロアが40cm浸水したそうです。 それでも営業再開まで5ヶ月近くかかったそうです。 現在でも一部のレストランは閉鎖したままです。 営業再開記念価格のツイン2食付き11,600円でした。 最初は一人の価格かと思ったら、2名分の価格で驚きましたが、食事は質素なので赤字ということはなさそうでホッとしました。 夕食はキンキの煮付け。朝食も東横インに負けず劣らずの質素なものでしたが、それでよかったと思いました。
2011年10月04日
児童108人のうち、74人が犠牲になった石巻の大川小学校は、北海道でも大きく報道されていたので皆さんご存じでしょう。 二度とこういう悲劇を起こさないで欲しいと切望しているので、実際に現地を見てみました。 北上川の河口から5kmくらいのところにあるこの橋のたもとに大川小学校があります。海岸から6kmくらい入ったこの場所でも、津波の被害があります。これが大川小学校です。左端に川が見えると思いますが、水面とあまり変わらない標高の低い場所に小学校が建ってます。ここまで低地に建っていたとは驚きました。河口に近いから、海水面からもそれほどないことになります。屋根まで津波がくるわけですね。明治三陸津波のときに津波が来た場所なのに、避難が迅速に行われなかったとは信じられません。 そもそも、こんな低地に学校を建てるのが間違っていると思います。どうしてもここに建てるのなら、嵩上げするか、3階建て+屋上か4階建てにしなければなりません。少なくても、すぐに裏山に避難できるように避難路の整備をすべきです。 ところがここは浸水想定地域ではなかったのです。 チリ地震のときの津波の規模しか想定してなかったそうです。 よく「想定外」との言葉が聞かれましたが、それには憤りを感じます。 「想定が甘かった」というだけのことです。 1万年に1度の超大津波が来たのなら「想定外」で済ますこともできるでしょうけど、明治に来たのと同じくらいの規模なのに想定外はないでしょう。 石巻市の想定に対して、それまで教職員は誰も疑問を感じていなかったのでしょうか。一人くらい「その想定は甘いから、対策を考えましょう」と言わなかったのか・・ 残念に思います。 かけがえのないお子さんを失った親にしてみれば、とうてい納得いきませんよね。 児童は1時間近く校庭で待機させられ、最終的に校庭より数メートル標高の高いこの橋のたもとに移動しようとして流されました。でも、ここにも津波が押し寄せました。ここに来てもダメだったのです。 ここによじ登れば良かったのですが。防災無線で10メートルの津波が来ると聞いた父母で「裏山に登って!!」と訴えた人もいたのに標高10メートル足らずの場所に避難するとは残念です。 釜石市は津波対策が進んでいて、3000人以上の小学生・中学生・幼稚園児・保育所幼児で、学校管理下にあった子どもは全員無事だったそうです。 今後は避難に失敗することが絶対に起こらないよう、しっかり対策をとっていただきたいです。
2011年09月28日
仙台の知人の生家が石巻にあり、流されてしまったので見に行こうということで石巻へ行きました。 石巻の人口は16万人で、宮城県第二の都市です。 海のそばに市街地があるので、甚大な被害を受け、死者行方不明者は約4000人にもなります。 JR石巻駅近くのメインストリートですが、まだ壊れたままの家もちらほらありました。もともとシャッター通りだったそうですけれど、半分以上、シャッターが降りていました。石ノ森萬画館は、まだ再開していませんでした。ここは中心部よりも海に近い場所です。 海に近づくと、被害が大きくなっていくのがわかります。まだ完全にがれきを撤去していません。火災に遭った門脇小学校ほとんどの児童は高台に避難して無事だったそうですが、現在は門脇中学校を借りて授業をしているそうです。 もうこの建物は壊すしかないのですが、いまだ解体に着手していません。 こちらに詳しく紹介されています。 石巻で痛ましいのは日和幼稚園ですね。門脇小学校の近くにありますが、あまりに悲しい出来事で、幼稚園を見に行こうという気になれませんでした。 この写真は名取市で、仙台空港の近くですが、地盤沈下して水がたまったままです。石巻や東松島市でも、こういう場所がたくさんありました。 結局時間がなくなって、流された知人の生家は見れなくなったのですが、来年、仙台でのコンサの試合のときにでも寄ろうと思います。
2011年09月27日
JR気仙沼線は甚大な被害を受けました。 南三陸町のあたりは比較的開通が遅く、1977年の開通なので、高架や高く盛り土した部分が多いのですが、あちらこちらで橋や築堤が消えています。 志津川駅の階段をあがると、ホームとは思えない姿。レールと枕木は撤去されていました。ちょっと内陸に入った場所でも、路盤がなくなっています。トンネルを出たところの路盤もずたずたです。たぶん歌津駅ですが(清水浜駅かもしれませんが)、大まかながれきはすでに撤去されていますが、こまかいのをボランティアが片づけていました。仙石線等、JR線だけで復旧には最低でも4,500億円かかるそうですが、市街地を高台等、違う場所に移す可能性もあり、まだ復旧作業ができないのですが、移転するとなると、さらに費用がかさむでしょうし、あと何年かかるかな。 復旧のめどが立ってなかった3セクの三陸鉄道ですが、国の補助率を85.5%以上にし、残りを県と市町村が負担する新制度を創設し、2014年春までに復旧させると国土交通大臣が言ったので、一安心です。
2011年09月25日
南三陸町の志津川に行きました。消防署ですが、3階まで水没しました。津波で浸水しないよう海からかなり奥に建てたそうですけど、想定が甘かったようです。 アパートの屋上に車が乗ったままです。志津川中心部でやっていたお店はコンビニ2軒とガソリンスタンド1軒だけでした。このファミリーマート、手前のコンクリートが残っているところに建っていたのでしょうけど、プレハブで営業していました。震災翌日、白衣着たドクターが病院屋上で旗振ってヘリに救助を求めていた映像をTVで見た人は多いと思いますが、この志津川病院です。1階の屋根に船が乗ったままです。病院からさきほどのコンビニや消防署方面ですが、市街地は壊滅状態です。ここは住宅密集地だったのです。一時は町民の半数の安否が不明だったのですが、実際は町民の9割以上は避難して無事だったそうです。 それでも死者行方不明者は1000人を越えています。またいつか大津波が来るでしょうけど、次からは犠牲者がでないよう、しっかり対策を立ててほしいです。 防災センターです。24歳の女性職員が最後まで防災放送で避難を呼びかけて津波に飲み込まれてしまったのですが、逃げてほしかったですね。 そもそも、危険なところにセンターがあるのがおかしいですね。 地元のドクターに志津川病院内部を案内していただきました。がれきは片づけられていました。病院ロビーに車が飛び込んでいました。1階のエレベーターです。ここはそのままですね。4階の病室です。私の首くらいの高さになりますが、ここまで浸水した跡が見えますね。2階・3階の入院患者さんを4階に移したものの、ここまで浸水してしまって半数くらいが亡くなられたそうです。 助かった人はエアマットで寝ていたので、浮き袋になって溺れなかったとか。 救助を求めて旗を振った屋上です。病院4階の、最大水が来た高さから撮影しました。こんな高さまで水が来たなんて、想像を絶します。
2011年09月20日
仙台空港に飛行機が着く直前に名取市の海岸は松林が倒れ、枯れて茶色くなっているのがわかりました。 空港そばの飲食店など、壊れたままの建物も残っているし、流された車が沢山積まれたままでした。がれきも少しだけ残ってました。でも、仙台中心部は、ほとんど爪痕がありませんでした。ユアテック本社ビルです。仙台駅東口近くにある14階建ての立派なビルです。 爪痕があったのはこの建物くらいしか見かけませんでした。ユアスタのそばにある図書館です。 仙台博物館を見学したついでに、向かいにある仙台国際センターを覗いてみました。ここで某学会の学術大会が10月初旬に予定されていたのですが、来年4月に延期になってしまったので、よほど被害があったのかと思ったのですが、センターは震災後1ヶ月で再開したそうです。レセプションホールのみ、復旧に時間がかかり、8月から使えるようになったそうです。延期する必要はなかったようです。レセプションホールの半分です。 私は某学会役員として関わっていたので、必要のない延期をしてセンターに迷惑かけてしまって謝っておきました。 カニトップは健在のようですね。地元の人から聞いたのですが、商売上、批判が多いとかで驚きました。
2011年09月20日
南三陸町に臨床心理士がやっているカフェがあります。あづましいは「うるかす」みたいに北海道と宮城の共通方言なのかと思ったら、「あづまーれ」は集まれという意味でした。 老人福祉センターを拠点にしています。すぐ近くに大規模な仮設住宅があります。しかし、集会所等がなく、住民同士の交流の場がなかったのです。 臨床心理士による心のケアだけでなく、交流の場として大いに役立っているとのことです。 仮設住宅は狭いため、訪問者と面会の場としても重宝されていて、いつもは満員だそうですが、このときは33度の猛暑のせいか、子どもだけが利用してました。 飲み物を無料で提供しています。子どもの遊び場としても役だっています。臨床心理士さんの他、東北福祉大や自治医科大の学生さんもボランティアとして活動されていました。 とても勉強になりました。 物見遊山ではないものの、見学のためだけに被災地を訪れるのは迷惑にならないか気にかけていましたが、特に心配するようなことはありませんでした。
プロフィール
1959年北海道生まれで新潟の大学を出て、横浜勤務ののち、1986年から道北に住んでいます。最初は旭川で、次に1991年から2008年まで浜頓別町に住み、2年ほど旭川へ戻ったのち、士別経由で現在は和寒に住んでいます。 コンサ観戦に行ったことがあるスタジアムは、ドーム・厚別・室蘭・函館・アウスタ・ホムスタ・鴨池・味スタ・とりスタ・平塚・カシマ・うまスタ・富山・レベスタ・ヤマスタ・キンチョウ・フクアリ・埼スタ・べアスタ・Eスタ・昭和電ド・瑞穂・トヨスタ。(サテライトでは宮の沢・士別天塩川) コンサ以外では長居(セレッソ対ロアッソ)、ユアスタ(ベガルタ対アルビレックス)、ミクスタ(北九州対ザスパ)で観戦したことがあります。
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