オオドサ闘病記・その3(2016年)

2016年11月26日

2016年は体調も良く、開幕からしばらく連続してホームゲームは参戦していました。

4月23日にはアウェイドールズの懇親会をやりました。

懇親会は2年位前から計画していたのですが、土曜に試合がある日で、かつ、ナイターではないという条件に合う日が少なく、機会をうかがっているうちにオオドサが発病してしまい、なかなか実現しませんでした。

とても盛り上がって楽しい会でした。できたらもう1回やりたかったけど。 このときの様子はこちら。

2015年は3月にストーマをつけたため、しばらく安定するまで遠出を禁止されていたけど、それが解除になったこともあり、今年はアウェイも行くことにしました。

九州での試合は熊本も長崎も北九州も秋なので九州リベンジ(一昨年行けなかった)はできなかったものの、7月にキンチョウ行くことができて良かったです。 長年住んだ大阪には友人が多く、最後に会っておいてよかったです。

また、町田と長野(茅野)にも友人がいるので4月の町田戦と6月の松本戦に参戦でき、とても楽しかったようです。

結局、8月7日のドーム・エスパルス戦まで15試合、スタジアム観戦できました。

8月14日の山形戦は、ライジングサン帰りの家内と私がオオドサを迎いに行き、ドームへ向かいました。
しかし、ドームに着く前からオオドサは体調不良を訴えていて、ドームに着いたらさらに悪化して観戦が無理ということになって、キックオフ前にタクシーで帰宅しました。

私と家内はそのままドームで観戦しましたが、容体が心配で、試合が終わったと同時に急いでドームをあとにしてオオドサの自宅に行きましたが、少し元気になっていて、TV観戦はしたとのこと。

しかし、がんの最終段階の予感がしました。

翌日、病院へ行ったら「いい薬をもらったから」「これで今度ドームに行って具合が悪くなっても大丈夫」と本人が喜んで言うのです。なんの薬かと思ったら携帯用粉末の麻薬なのです。
麻薬ということは痛みがあるということ。
前日、「具合悪い」としか言わなかったけど、周囲に心配かけたくなく、痛いとは言わなかったのか。

痛みを抑えるために麻薬が必要という段階なら、もう先はかなり短いということを意味しますから、そんな薬をもらっても嬉しくありません。 

あと2~3か月の命だろうと思い、実際、その通りになりました。

8月17日から入院し、「検査入院だから1週間くらいで退院するよ」「25日のロアッソ戦は行くよ」などと言ったものの、退院は9月5日でした。

すでに肝臓の他、副腎と肺に転移していることはわかっていましたが、このときの入院で、すい臓と脊椎にも転移していることがわかりました。

で、脊椎の転移のため、急速に下半身のしびれや麻痺が起こり、9月24日に一緒に食事したときは階段を上がるのがやっという状態で、9月26日から入院になり、残念ながら二度と自宅に帰ることはありませんでした。(骨になって帰りました)

脊椎を圧迫しているがん組織を縮小させるために放射線療法を10日間行いましたが、全く効果はありませんでした。

放射線はあきらめ、リハビリ訓練だけで回復を期待し始めた10月22日のドーム・ヴェルディー戦の帰りに見舞に病院へ行ったら腸閉塞を起こして処置をしていて辛そうでした。

ストーマ周辺の大腸が、がんの再発で詰まってしまったようです。

オペしないとダメということで25日以降に開腹手術を予定していたのですが、検査の結果、オペは無理で、ステント挿入でしのぐことになりました。

たぶん、肝機能が落ちているのでオペは難しいことと、どうせもう先が短いから、大がかりなオペをやる甲斐がないということだったかもしれません。

実際このころ、肝臓が機能してないから1か月持たないと宣告されました。

そこで、11月2日にステントをストーマ経由で大腸に入れて開通させる処置をし、上手くいって食事できるようになりました。そのときの様子はこちら。

しかしそれも束の間で、数日後にはまた食事できなくなってしまい、ジュースかスープくらいしか口にできなくなりました。こっそりチョコレートは食べてましたが。 やはり大腸のがん再発がひどかったのでしょう。

だんだん倦怠感も強くなり、しんどいと訴えるようになり、オオドサが最後にブログにエントリーしたのは11月6日でした。

11月10日に見舞に行ったときは相当弱っていましたし、辛そうで、あと1週間か10日くらいしか持たないと感じました。実際、8日しか持ちませんでした。
12日に見舞に行った姉は、看護師から「あと1日か2日しか持たないかも」と言われました。

13日に見舞に行ったときは、さらに辛そうでかわいそうでした。
10日はまだ普通に会話できていましたが、もう会話はほとんどできなくなっていました。
「痛い」と訴えたので「看護師さん呼ぶ?」と聞いたら「呼んで」と返答はありましたが、声を出すのもやっとで、返事に時間がかかりました。

17日に行ったとき、会話できないと思ったけど、私と姉の会話(「大学の同級生?」)を聞いて、「大学」「高校じゃない」と声を出しました。
最後の言葉はこれだったと思います。

18日の朝、病院へ行ったら姉が「口で呼吸をしている」と言いました。

たしかに口をパクパクしています。

これは、呼吸機能が低下し、酸素がほしくて無意識に口を動かす行為で、こうなると今日・明日で逝ってしまうというサインです。

私は17日午後と18日午前の仕事を休みにして、18日午後と19日午前に仕事を入れていたので、死に目に会えないのはわかりました。
さらに仕事を先送りにすることも考えたのですが、姉がいるから死に目に会えなくても良いと思って病院をあとにしました。

やっぱりその晩、22時過ぎに電話が鳴りました。何の電話かは確信しました。

すでにお知らせした通り、コンアシ見終わったと同時に息を引き取ったとのこと。

コンアシ見終わって緊張の糸が切れたのか。

20日の試合まで切れずに頑張ってもらいたかったけど、昇格は確信したと思います。

あと8日で61歳の誕生日でした。

少し短い人生でしたが、安らかに眠ってください。

いや、天国でマシンガントークしてうるさくやっていることでしょう。

皆さん、兄がお世話になりました。ありがとうございました。


この記事に対するコメント一覧

○た

Re:オオドサ闘病記・その3(2016年)

2016-11-26 16:11

闘病記というか看病記かもしれませんが書いてくださりありがとうございます。あらためて,オオドサさんは壮絶な戦いをしていったのだなあ,との思いを強くしました。 オオドサさんが,痛い,とか,苦しい,とか言うのを私は一切聞かなかったです。ご家族にもそれを貫いていたのですね。 >「これで今度ドームに行って具合が悪くなっても大丈夫」 ああ,これはせつない。 実は,15シーズンのときだったでしょうか,ドームの大階段でビール片手に「J1で優勝するまで死なないから(飲んでも)大丈夫」と笑って言った時は,冗談と解っていてもつい本気で腹を立てて「そういうことじゃないから!」と怒鳴ってしまったことがありました。本人にしてみれば,痛くないふりも強がり言うのも,それは周りを心配させたくないからなんですよね。 徳島戦前日の11月5日にF吉さんとお見舞いに行った時も「最終戦はストレッチャーに乗って介護タクシーでドームに行けるように頑張るよ」と言っていました。それは果たせませんでした(もし実現していたらかもめさんは大変だったろうと(^^;)が,「もう一度ドームの大階段でバカ話したかったなあ」と笑っていた顔はとても穏やかな良い顔でした。結局私がオオドサさんと直接会話したのはこの時が最後になりました。 フクアリの逆転勝利の直後「勝利をかみしめ記念タオマフを広げる○た」の写真と共に「勝ったよ!(^^)」とだけ書いて送ったメールに対して,「\(^o^)/」とだけ返してきて,粋だなあ,と思っていたら,次の日夕方羽田空港にいる時にかもめさんから「あと2~3日かも」というメールをもらったのでした。きっとメール打つのも大変だっんだよね。最後の数日は本当によく頑張ったと思います。

かもめ

Re:オオドサ闘病記・その3(2016年)

2016-11-26 17:19

〇たさん、ありがとうございます。 フクアリの試合の日から急激に悪化し、看護師さんに「あと1~2日かも」と言われました。実際は6日ありましたが。 だからそのときのメールは打つのが辛かったのではないかと思います。 腸閉塞を起こした10月22日からは辛い状態の日ばかりでかわいそうでした。 もうすこし楽に最期をを迎えることができたらよかったです。

ゆき

Re:オオドサ闘病記・その3(2016年)

2016-11-26 21:27

一度もお会いしたことはないのですが、ブログはいつも拝見していました。昔、大型掲示板にはよく出ましたが、ゆきと申します。最後まで、辛いとか痛いとか暗くなるようなことは一言も書かれず、コンサドーレのことだけ。感銘を通り過ぎて不可思議にすら思って拝見しておりました。壮絶な闘いだったのですね。何度も読み返しました。多くのサポに愛されておられたので、絶対に弱音は吐かないようにしておられたのでしょう。人はここまでできるものですか。 いつまでもコンササポの心に残り、これからのコンサドーレの強力な守護神になっていただけると思います。ご心痛を押しての丁寧なご報告、忘れられないものとなりました。

かもめ

Re:オオドサ闘病記・その3(2016年)

2016-11-26 22:08

ゆきさん、いつもブログをお読みいただきありがとうございました。 兄はいつもプラス思考で前向きでした。 長く生きられないのはわかっていたはずですが、「行きているうちにJ1優勝するぞ」などと言っていました。 さすがに亡くなる8日前には「20日までは持たないかも」と弱気な、いや、正直な発言がありました。 兄にはコンサドーレという大きな楽しみ、大きな目標があったのはとてもありがたかったと思います。 コンサドーレのおかげで仲間がたくさんできたのも、本当に素晴らしいことでした。 もしもコンサドーレがなかったら、とてもさみしくこの世を去ったことでしょう。 だからコンサドーレとコンサのサポーターには大いに感謝しています。 兄が熱烈コンササポになったのは、かつてお盆に札幌に帰省したときに私が厚別に連れて行ってからです。 こんな素晴らしいものに出会えて兄は私に感謝しました。 兄に良いことをしたと、嬉しく思っています。

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