祝祭としての試合(1)

2006年04月07日

今日は単なるアナロジーである。
考えをまとめるための前提を、自分の中で明確にするための
ものであります。
 
あの青々ときれいに手入れの行き届いたピッチは、
春なお遠き札幌において奇跡のように自然の息吹を保つ。
そしてそれを保っているのはグラウンドキーパーの献身的な
手入れの賜物。
いわばあのピッチは、自然と人工が共同で作り上げた聖域だ。
 
神社に敷かれた玉砂利や、寺院の奥深くの枯山水も、神聖な
空間を作り出すために整然と手を加えられている。あの美しい
芝のピッチは、それにも増して緑の生命力と、聖域を維持する
人の努力が結晶している。
 
その聖域に足を踏み入れられるのは、選ばれた選手のみ。
選手は、聖別された神官であり、シャーマンだ。
スポーツの「プレイ」も、舞い踊り舞台で演じるのも「プレイ」。
彼等、祝福された選手という名の踊り手たちには、
神が降りる。それはサッカーの神なのかも知れないし、
もっと何か別のものかもしれない。
 
選手は、その聖なる能力の限りに、舞を奉納する。
もう一つの聖なる依り代「ボール」を中心に、
赤黒の聖衣をまとった舞い手たちは、聖舞台としてのピッチで
自ら神の化身となって踊り、同時に混沌たる神への奉納とする。
 
もちろん、シャーマンとしての能力には個々に差異があり、
聖別された選手とはいえ完璧ではない。と言うか、神とて
完璧ではないのだ。
逆にシャーマンの能力の高い舞い手は、すさまじい影響力と
結果を生じさせることができるわけだ。
 
さらには、ピッチに降りてくるのはサッカーの神だけではない。
目に見えない邪霊もまたイタズラをしに降りてきている。
彼等は舞い手の足をこっそり引っ張ったり、意図せざる悪意を
発揮するのだが、それは選手達にあえて困難を与え、聖なる舞いの
練度をさらに高めるためなのだ。
選手はその困難を乗り越えることによって、ゴールという
さらに高みを、舞いのクライマックスを目指す。
 
高ぶる鼓動、焼けつく呼吸、噴き出す汗、駆けめぐる血潮が
さらに選手の狂躁を煽り、テンションを高め、常人にはマネの出来ない
個々の能力を超えたプレイが生まれる。
…文字通り「神が憑く」のだ。
 
かつて神社の神楽は、誰も見る者のない奥の院で演じられた。
それを見る者は、その聖域に入ることができる神だけだからだ。
しかし時代は移り、そのような秘儀を氏子としての観客も目に
することが出来るようになった。
しかし、氏子がいかに世俗の権力があろうと、この神楽の舞台に
足を踏み入れることは、決して許されない。
我々サポが、決してピッチには入れぬように。
 
氏子にできることは、せめてその舞い手たちの踊りが神に嘉せられる
ことを願い、舞い手を鼓舞することだけだ。
 
やがてそれは、御輿をかつぐという行為になる。
神の分身である御輿を激しく担ぎ揺らすのは、文字通り「魂を
揺さぶること」、壊れかけた機械を我々は思わず振ってしまうように
「揺れる」ことは生命力を復活させることに通じる。
だから、ゴル裏のサポがサルトするのはその意味でも正しい。
魂を揺らすことによって生命力をほとばしらせ、それを選手の
「舞い」に力を付与することになるわけだから。
 
もちろん、「フラッグ」もまた古来から生命力を鼓舞するために
用いられてきた「聖具」である。振れば振るほど力をみなぎらせる。
 
「歌」は、神に力を求める儀礼だ。
この漢字の右側「欠」は、左側に大きく口を開けて神に叫ぶ人の姿だ。
左側の「哥」は、二つの太鼓(正確には神への祝詞を封じた容器)を
バチで叩いてリズムをとっている字形なのである。
歌声が大きいほど、その生命力の大きさに神が祝福を与えてくれるのだ。
 
サッカーはこうして祝祭の場(こういうのを専門用語では「トポス」とか
言うらしいが)になる。
舞い手である選手が神聖な舞台であるピッチで神の舞いを踊り、
氏子であるサポがビッグフラッグという御輿を担ぎ、頌歌を唄って
ヴァイタルなパワーを付与し、そして神の祝福を求めるのだ。
その祝福はかつては五穀豊穣だったわけだが、今の祝祭では何が
もたらされるのか。
 
それが札幌、ひいては北海道という「大地」に生命力を与え、蘇らせる
神事になる…。
 
 
誇大妄想的だが、オイラの脳裏にある「コンサドーレ札幌」は
そういう存在なのだ。
 
さて、この構図からさらに見えてくるものはなにか。
もうちょい考えるよ。
明日はどんな舞いを見せてくれるのか、札幌のイレブン達は。


この記事に対するコメント一覧

コンサ大好き

Re:祝祭としての試合(1)

2006-04-08 00:01

 格調高くてオイラ好きな話です。  日本には古来、お相撲さんと土俵や神の話ってまあありますね。天岩戸のころから。そういえばあのカクテル光線に彩どられたイレブンの姿も神がかっています。その神たちを鼓舞する、神々たちの舞いに活性化される、そして舞いをさらに神化させる、それがサポーターかも。

こんびに

Re:祝祭としての試合(1)

2006-04-08 00:25

はじめましてこんびにと申します。 そういえば、甲子園のことを現代の祝祭空間と称した学者がいましたね。 >トポス そういえばトポフィリア(場所愛)という言葉がありましたね。ファンでなければ何の意味を持たない建物でも、ファンであれば凄く聖なる意味を持つ重要な場所となる。札幌ドームや厚別はまさにそんな場所ですね。

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