布施と利益

2006年12月07日

いろいろとレトリックをひねろうと思ったが、
少々脳の働きが減退しているので簡単に書く。

選手は、試合という祝祭を言祝ぐ神官である、とは
何度もここで触れてきた。まだ総論はまとめていないが、
オイラはそう考えている。

神意を問い、その祝福を求めるがために、人は神に奉納し、
神と交感できる神職を崇め、その能力に最大限の報酬を寄せる。


「ハーメルンの笛吹男」の話は誰しもがご存じだろう。
笛吹男はその人知を越えた能力を用いて、ベストをもたらす
ネズミを笛の音で駆除し、町を救った。
だが町の人々は、町を救った男に正当な報酬を渡すことを拒んだ。
男は町の子どもたちを「駆除」することで報復した。


神職には、その能力にふさわしい「布施」を施さなくてはならない。
恐るべき祟りが起こるからである。
豊饒をもたらすものと、災厄をもたらすものは紙一重。
昔の人々はよくわかっていた。


サッカー選手は上記の通り、神職である。
布施をけちってはいけない。
ましてや、「札幌の選手としてチームを愛するのは当たり前だ」
というのは完全に間違い。
これは別に論述せねばならないが、神職はあの笛吹男同様に
「流離する人」であり、定住者ではないのだ。
その能力を求められる場所を求めて流浪する「能力者」に
地縁による愛情を強要するのは間違いなのだ。
彼らをつなぎ止めるのは、その能力に見合った報酬のみ。

選手の能力不足をあげつらうのは簡単だが、
その選手の能力を必要とするならば、それに見合った
布施を納めるべし。
その意味で、選手は自分の能力をどう評価されているのか確認
するのは当然である(昔の寺や神社のように阿吽の呼吸とはいかない)

そして、そういう選手の姿勢を、あたかもチームやサポへの背信の
ごとくに言いつのるのは、笛吹男に報酬を払うのを渋ったハーメルン
の人々と同じ。
その報いは、必ず来る。

(考えてみれば、新居との不幸な関係も一脈あるのかもしれない。
 道理としては彼を馘首したのはやむを得ない仕儀だったのだが、
 結果として我々は彼に強烈な敵愾心を植え付け、その結果、
 一度ならず彼に報復されたのだった。子どもをさらった笛吹男
 のように、虎の子の勝利を彼は何度も札幌から奪い去ったのだ。
 閑話休題)


施主としてのHFCが、神職である選手の貢献にどれほどの
布施を納めるか、氏子であるサポとしては無関心ではいられない
が、さりとて自分にふさわしい布施を求めたい選手を非難は
しない方が吉であろう、と思うがどうか。
どちらにせよ、施主は困窮しており、無い袖は振れない。
交渉の結果、互いに納得で留まるか残るか、ハッキリさせた方が
笛吹男のような遺恨は残さないのである。


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