2017年01月26日
映画を観た後で、40年ぶりに原作を読みました。 「神の存在」 「神の愛」 「神の沈黙」 をモチーフに、「信仰とはなにか」 「生きるとはなにか」 を問うています。 とても重く深い小説です。 映画を先に観ている事もあって、拷問や水磔のシーンがリアルに目に浮かび、読み進めるのが辛い場面もありました。 この小説で遠藤は イエスを 「弱者のための神」 「同伴者」 と規定しますが、「弱き者に寄り添うイエス」 というのは 「同行二人」 (人は常に弘法大師空海と共にある、一人で巡礼していても実はいつも二人なのだというような意味) をイメージさせます。浄土真宗にも 「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」 という言葉がありますが、如何でしょう。 また、井上筑後守や フェレイラが ロドリゴに棄教を勧める中で、日本人が信仰した神は キリスト教が教える神、デウスではなく、日本の古くからの神、大日 (太陽、大日如来、天照大神も太陽) と混同し、日本流に屈折させ 変化させた神であり キリスト教なのだ という趣旨の部分がありましたが、これは いかにもアレンジの得意な日本らしい、さもありなんという感じで、思わず納得してしまいました。 一方で、一度は切支丹となりながら棄教した 井上筑後守や通辞、彼らの心中はいかばかりか。 彼らは 拷問や厳しい刑の非情な執行者として描かれますが、彼らには彼らなりの悩みや葛藤があり、行間から その苦悩が伝わってくるようです。 遠藤自身も カトリックのクリスチャンなのですが、彼の信仰には 神道や仏教がクロスオーバーしているように 改めて感じました。
ところで、 イエスズ会のポルトガル人宣教師、クリストヴァン・フェレイラ (1580-1650) は 実在の人物で、棄教して 沢野忠庵を名乗った というのも 史実だそうです。 セバスチャン・ロドリゴにもモデルがいますが、イタリア出身の神父、ジュゼッペ・キアラ (1602-1685) で、彼に関しては かなり脚色されています。 彼は棄教後、ヨーロッパ諸国によるキリスト教布教の真意は 国土征服の準備工作であることや、キリスト教の教義の欺瞞性などを白状したそうで、その為に 幕府は切支丹をより警戒するようになったという説があります。(小説では キリスト教の誤りと不正を暴く 「顕偽録」 を著したのはフェレイラ。) 実際、キリスト教宣教師の陰には 常に商人がおり、布教を名目に 暴利をむさぼる商売をしていました。その次に来るのは 軍隊で、やがて植民地にするというのがパターンでした。 ポルトガル人は日本人を奴隷として売買していた為に、秀吉はバテレン追放令を出したという説もあります。 新教国 (イギリス・オランダ) と 旧教国 (スペイン・ポルトガル) の宗派対立、利害闘争などにも触れられていますが、宗教を隠れ蓑にした蛮行は恐ろしいですね。