2005年12月30日
沢木耕太郎『凍』(新潮社 ISBN:410327512X)
『新潮』2005年8月号に「百の谷、雪の嶺」というタイトルで全文掲載された作品。登山家の山野井泰史・妙子夫妻がヒマラヤの高峰・ギャチュンカンに挑み、壮絶な体験の末に生還するまでを描いたノンフィクション。
この本が「2005年で二番目に感銘を受けた本」となったのは、「誰か・何かと共に歩むこと」の一つの理想型というものを教えてくれたからです(以下、ネタバレあり)。
…まぁ、ノンフィクションにネタバレも何もあったものではないのですが、山野井夫妻、ギャチュンカン登頂のエピソードをあらかじめ知っている人とそうでない人とでは読み方が違うと思うので。ちなみに私は知らないで読みました。
本書は、ギャチュンカン北壁への挑戦を語りつつ、登山家としての山野井泰史・妙子の半生を描くという構成になっています。二人とも日本を代表するクライマーでした。「でした」というのは、ギャチュンカンからの生還の際に二人とも凍傷で指を何本も失っているからです(妙子はギャチュンカン登頂以前にすでに両手両足20本のうち18本の指を第二関節から失っていましたが)。ただ、それでも彼らは、かつてのように登ることはできなくなったものの登山は続けており、その意味では今もなお現役のクライマーではあるのですが。
当初はギャチュンカンの北東壁を目指していたものの、現地で困難さを認識した山野井は、北東壁をあきらめ北壁を選択、ソロ(単独登頂)ではなく妙子と共に登ることになります。卓越したクライミング技術と状況判断能力を持つ山野井、屈強な肉体と精神力を兼ね備えた妙子。二人はお互いを理解し合い、助け合い、山に挑んでいきます。不調のため頂上を目前にアタックを断念する妙子と、彼女に「いい頂」を登らせてやりたかったという想いを抱えつつ登る山野井…。
こう書くと「夫婦愛」を描いた作品のように思われるかも知れません。しかし、そのような生やさしい感情が通用しない世界であることは、下山時に雪崩に襲われ滑落した妙子がロープで宙づりになった際のくだりが表してくれます。
お互いの体をロープでつないだ状態で雪崩の直撃を受け、妙子は50m下に滑落。山野井はロープを引き続けながらも妙子が死んでいる場合を想定し、ロープを少しでも長く残すため妙子の体のところまで降りていき、彼女の体に近いところでロープを切(り、妙子の死体を1000m下に落下させ)るシミュレーションを頭の中でやってのける。一方妙子は、宙づりの状態から何とか岩場にとりつき、声の届かないところにいる山野井に生きていることを伝えるために、冷静に体からロープを外す…。
そこにあるのは「麗しい夫婦愛」などではない。彼らは山に登り始めると基本的に「自分を守る」ことを最優先に考え、行動している。自分が動けなくなればパートナーをも死に追いやることになる、そのことを常に念頭に置いた上でお互いを信頼し、サポートし合っている。相手を想う気持ちと、まず自分が生き残ることを考える冷徹な判断と…。登山の世界では常識なのでしょうが、我々の生活にも通ずるものがあると思います。
「美しい、でもこれは難しいな」というのが、彼らの関係に対する率直な感想です。まぁ、彼ら自身がとんでもない精神力の持ち主ですから。指無くしても結構平然としていますからね。誰もが山野井夫妻のようにストイックにとはいきませんが、チームをサポートすること、誰かと共にありたいと願うこと…。その前に、まず、自分が自分の足で立つ、歩む。当たり前のように思えるけれど、忘れがちなことですね。あらためて気付かされました。
登山は登頂よりも下山にこそ危険が伴う、というのは知識としては持っていましたが、それを圧倒的な迫力で、しかし仰々しい表現は控えた筆致で伝えてくれる後半部分はかなり読み応えがありました。「登ることと降りることは表裏を為している」という登山の構図や「頂から降りることの難しさ」に対する描写が、かつて筆者が『敗れざるものたち』や『王の闇』で描いた世界を象徴している、というのは深読みしすぎでしょうか。前半の、登山のスタイルや用具などに関する細かい叙述が煩わしいと感じる人もいるかとは思いますが、このような細かい描写は彼の文章のスタイルなので我慢して読むしかありませんね。筆者久々の「人物に焦点を当てた」ノンフィクション長編、ごちそうさまでした。来年は「一瞬の夏の続き」に期待。(文中、敬称略)
山野井泰史さんのプロフィール・登頂歴などについてはこちら
http://www.evernew.co.jp/outdoor/yasushi/yasushi1.htm
山野井さんには『垂直の記憶』という著作があり、読み比べてみようと思って先日入手しました。さらに本レビュー作成中に偶然付けたテレビで、山野井さんが、1/14(土)からNHKで放送される「氷壁」(全6回/原作:井上靖)というドラマの技術指導をされていることを知りました。私はこういう「サイン」を大事にする質なので、これからも山野井さんについて色々調べてみたいと思っています。
プロフィール
性別:男 年齢:30歳代半ば 出身:兵庫県西宮市甲子園 現住地:北海道札幌市 サッカー歴:素人。たまにフットサルをやる程度 ポジション:アウェイ側B自由席 2007/12:加齢に伴い年齢を実態に即した形に書き換えました
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