これまで印象が強かった試合のベスト10

2020年05月13日

 暇なので、個人的にこれまでコンサで印象が強かった試合のベスト10を列挙してみた。


1位 1997年5月25日JFL川崎F戦、バルデス3連発の間で厚別のS席で自発的に出たすさまじい声援

2位 2011年12月3日J2FC東京戦 「打てば入る」内村の2ゴールで最終戦でJ1昇格を決めた。

3位 2018年11月12日J2第41節千葉戦。内村の決勝ゴールに飛び上がって喜 んだ。J1昇格に王手をかけた一戦

4位 2000年7月29日J2浦和戦、お行儀の悪い狼藉ファンをだまらせた両サイドの得点

5位 2019年10月26日ルヴァンカップ決勝川崎F戦。あと1歩で優勝を逃した。

6位  2001年9月16日J1清水戦 今まで一度も勝てなかった清水に移籍してきたばかりの堀井が延長Vゴール。

7位  1998年12月5日J1参入戦福岡戦 最後で勝てばいいと思っていたが、次々と点を取られて、室蘭が静寂に包まれた。

8位  2000年3月12日開幕戦アウェイ鳥栖戦、エメルソン3連発で鳥栖のサポータに「幼稚園児の中に大人がいるのは反則だ」と言わしめた試合。

9位 1996年9月12日のJFL本田技研戦、ペレイラの負傷退場後の厚別にこだました救急車の音

10位 1997年6月13日JFL本田技研戦。マラドーナのFK1発で勝った試合。


10位まであげたが、古い試合が多い。やはり古い試合の方が記憶に強烈に印象が残っているということか。

 1位に挙げたのはバルデス3連発。本当にこの試合は奇跡のような試合だった。試合の途中では勝てるとは思わなかった。ハーフタイムに厚別のトイレに行ったがそこでコンササポが勝てるわけがないと言っていたのが印象的で、そんなことはないと心に強く思って延長戦で逆転した溜飲が下がる試合でもあった。




                                   
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スポニチ河合竜一マイメモリーズ(2018年11月12日J2第41節千葉戦)

2020年05月09日

 この試合はコンササポの間でも語り継がれる試合だろう。この勝利によってJ1昇格を手繰り寄せた。逆転の内村のゴールをTVで見て喜んで飛び上がった記憶がある。

  抜粋


「負けが許されない状況で適地に凄い数のサポーターが集まってくれた。2つの自動昇格枠をかけた争いで、勝ち点で2位松本に追いつかれ、3位清水と3差、あの千葉戦に負けたらおそらくは昇格していなかった。あんな劇的な試合はサッカー人生そうない。
  前半に先に失点した。DFラインでは福森がレギュラー2年目で、進藤が1年目。大きな重圧のかかる試合は経験していない。だから声を張り上げて「大丈夫だ!いける!」と鼓舞した。この試合は先発を任されたが、サブが多かった年。声を出し、体を張って周りを奮い立たせる。あの試合はそれしか考えなかった。ピンチをしのぎ、後半にセットプレーから追いついた。けるぞと思う一方、最終節に向けて最悪引き分けでもいいと考えていた。決勝点の数分前、ウッチーをつかまえて言っていた。「DFは失点しないようにする。お前だけはチャンスを狙っていてくれ」と。
 アディショナルタイム5分。俺は最後方からヘイスの頭を狙って蹴った。ヘイスと相手DFが競り合って届かず、前に抜けたボール。こぼれ球を狙っていたウッチーが右足ボレーで決めた。もう頭の中は真っ白。ウッチーの元に行きたかったけど、遠すぎて(笑い)。なので相手がすぐ始められないようにセンターサークルに入っていた。俺のやることをやろうと思った。 
 ウッチーに話したのは映像に残っている。解説の水沼貴史さんがちゃんと「何か話していますね」言ってるから確認してほしい。
 翌17年からJ1を守る。18年には4位になり、昨季はルヴァン杯で決勝に進んだ。これだけのクラブになるとはサポーターも想像していなかったと思う。
 常勝軍団になるに自分たちで流れをつかむようにならなきゃいけない。もっと細部にこだわり、流れを変えるミスをしない。今の常勝・鹿島があるのは勝利への強い執念、執着の積み重ね。日々の練習からワンプレーにこだわり、チャレンジはするけど怠慢なプレーはしないように徹底してほしい。次のステップに進むコンサドーレをOBとして見守りたい。

 この試合はコンサの歴史として語り継がれる試合になるだろう。首位にいたが勝ったり負けたりで、徐々に2位3位に追い上げられていた状況。
 最終戦はドームだったが、かなり苦しい中で迎えた強敵千葉との対戦。前半失点してかなり難しい試合になったが都倉のゴールで追いついた。その後はかなり千葉に攻め込まれた。
 そして後半のロスタイム、河合のロングボールがうまくこぼれだ所で内村の狙いすましたシュートが決まった時には選手たちも大喜び、ちょうどゴールしたゴール裏にサポーター席があったので内村はもみくちゃだった。かなりの時間喜んでいた。
そんななかでも河合はやはり冷静。センターサークルで相手の攻撃を阻止していた。
 この試合に負けていたら河合の言うように昇格はなかったかもしれない。そんな分岐点になるような試合だった。


 この内村のゴールは何度も見た。本当に印象に残る試合だった。



                         
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スポニチ池内友彦マイメモリーズ(2008年12月6日鹿島戦)

2020年05月06日

抜粋


 (元札幌DF池内友彦氏が思い出の試合に選んだのは、自身の引退試合となった2008年12月6日J1最終節の鹿島戦(0-1)だ。)

「自分は札幌と鹿島にしか在籍していない。最後に在籍した両チームで試合がdけいたのは縁というか運というか巡り合わせが凄いと感じた。その1、2試合前には戦力外を宣告されていた。札幌でプレーし、鹿島と対戦するのも最後だなと思っていた。
 前半に1点を決められて敗れたが、内容はあまりよく覚えていない。自分を獲ってくれた両チームが最後に地元の札幌ドームで対戦。得点を取った以上に幸せな試合だった。
最後のホイッスルが鳴ると線審が寄ってきて「お疲れ様」と声をかけてくれた。
その後、ピッチを一周したときに鹿島や札幌のサポーターが『池内コール』をしてくれて、とても感動した。
 鹿島はその試合で優勝を決めたので、夜は鹿島の選手たちと飲みに行った。
 札幌はその年の夏に千葉と最下位争いをしていた。実はその時に千葉から1年半計契約のオファーが来ていた。31歳の年齢や地元のチームでやりたいと言う気持ちもあり、断った。
 結果的に移籍していれば引退は延びた。も1年プレーできたけど、今はあの試合で引退出来て良かったと思う。
 札幌もこの何年間で選手の質が変わった。今はまだ監督の魅力の方が強いが、札幌もこれからJ1のトップに割って入っていくと思う。ミシャになって今はそこまで選手の解雇もなく、こういうふうに何年間もかけて土台をつくるとチームは変わる。監督ではなく選手が目立つようになった時にタイトルを獲ると思うし、かつての鹿島のような常勝軍団に近づいていくと思う。
2008年は宮澤が1年目だった。おとなしくて全然離さない子だった。この前、話したら「あの時はみんなが怖かった」って言ってたけど(笑い)
でも人は責任や経験で変われる。だから今の宮澤がある。宮澤のような中堅がチームを引っ張っているのは、とても良いことだと思う。」

  この試合は「屈辱の試合」として良く覚えている。もっとも試合の内容はまったく覚えておらず、試合終了後だけ覚えている。なぜかと言うと、この試合で鹿島に負けて鹿島が優勝して、優勝セレモニーを行われて、最終戦の選手のサンクスウォーキングがなかなか始まらずじりじりとした印象があるからだ。
 

 この年再度降格したが、やはり内容、結果とも悪かった。池内が2度目に来てくれてCBを担ってくれて頑張ってくれたがいかんせん選手の層が薄かった。

 仕方がなかった。最終戦はなんとかして目の前で胴上げだけは阻止したいと思って必死に応援したが届かなかった。鹿島のうまい試合運びにいつものようにやられた印象がある。

 しかし、今は違う。池内の言っていたとおり、タイトルをとれるチームになってきたし、鹿島を追い越すようなチームになれると思う。



                  
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スポニチ曽田雄志のマイメモリーズ(2002年11月30日最終戦の広島戦)

2020年05月05日

 2002年は2シーズン守ったJ1から降格した年

 この試合は曽田が途中出場でコンサ日本人初ハットトリックした試合。

抜粋

「ファンの方から『ハットトリックの試合をみました』と、現役の時も引退後も声をかけられることが多い。日本人だとJ1クラブ初。ゲーム内容、ハットトリック、当時の札幌の状況もあって、自分も思い出深い。

 オーストラリアキャンプで鼻骨と頬の陥没骨折をした。鼻血は3日間止まらず、『もう1ミリ深かったら失明だった』と言われた。そこそこ使ってもらったけど、初めてDFやったり監督も代わったりで何もうまくいかない。4試合を残してJ2降格が決定。最終戦に向けては、次の年への意気込みというより、心の中では『来年クビになるのかな』と思っていた。
 相手の広島はこの試合にJ1残留がかかり、90分間での勝利が条件だった。前半終了間際から途中出場。1-1から後半に2点取られ、もう終わりだと思っていたら、自分のゴールで1点返せた。3-3の後半42分、セットプレーでマークしていた選手に決められたが、1分後、GKとの1対1を沈めて劇的に追いついた。

 迎えた延長前半。左からのクロスをヘディングシュート。Vゴールが決まった。J2に降格するチームとは思えない盛り上がりだったのを覚えている。
 クビになるかと思っていた中でも、常に練習は全力でやっていた。努力した成果は必ず出るんだなと思った試合だった。神様がいるんならプレゼントしてくれたんだと。

  シーズン中に全然タイプの違う監督にコロコロ代わり、クラブとして何がやりたいんだろうという気持ちはあった。哲さん(柱谷哲二監督)にDFをやれと言われ、イバンチェビッチ監督にはFWをやれと。練習でDFやれ、FWやれ…ではうまくなるはずがないと思った。成績も出せないから中途半端な選手だと思われる。サポーターからのブーイングも多く、苦しかった。

 札幌はまだ若いクラブで資金は潤沢ではなく、ビジョンも明確ではなかったと思う。監督交代のタイミングや人選を迷いながらやっていたのだろう。」

  この試合も覚えている。広島の残留がかかっていて、広島もいっしょに引きずりおろそうという気持ちでドームに向かった。
 最初は逆転されて突き放されて苦しい試合だったが、曽田の得点で勢いに乗った。相手GKが林に代わって相川のシュートがゴールした時に林のジャンプした足が相川ののど元に当たってドームが騒然となった試合ではなかったか。
 その時以来ドームで殺気のような雰囲気がを生じてどんどん盛り上がり曽田のハットトリックが出たような記憶がある。
 
 この年は柱谷の監督でスタートしてまったくダメで岡田監督の遺産を食いつぶしていった感じだった。この年からチームは成績も経営も迷走することになった。



               
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スポニチ大森健作のマイメモリーズ(2000年7月29日J2浦和戦)

2020年05月01日

抜粋

「99年オフ、あの岡田さんから直接電話が来たから驚いた。話はシンプルで『来季は必ずJ1に上がりたいから、力を貸してほしい。』と。それが始まりだけど、何で俺に?という感じだった
  点のとれるDFではなかったし、セットプレーでも上がらなかった。でも攻撃は好きだった。後になって俺の左足、攻撃的な能力を評価していると聞かされ、見ていてくれたんだと思ってうれしかった。
 思いでの試合で最初に浮かんでくるのは、やっぱり7月の厚別での浦和戦。決勝点を奪って勝って、見出してくれた監督に褒められて。プロでやっていけると自信がついた試合だった。
 前半に1点失ったが内容は悪くなく、ハーフタイムで後半は『もっと攻撃的に行こう』と選手も監督も言っていた。後半18分に田渕がスーパーゴール。それで押せ押せになって、後半41分。ののさんがプレスに行って、ボールが出てくる方向が限定されると俺がボールを奪って前に運んだ。1人かわしてGKと1対1。両足がつりいそうだったけどたえで、角度はなくても空いていたゴール左上に打とうと振りぬいた。
 決めた瞬間は頭が、真っ白。もちろんゴールパフォーマンスなんて全く考えていない。ののさんが最初に寄ってきて、みんなも来てもみくちゃにされて、何か頭から落ちて脳震盪になって、その後ははっきり覚えていない。(笑い)開幕戦から出て勝ってはいたけど、勝利に直結する活躍でやっと1員になれたと思った。『岡ちゃん』と言わせてもらうが、シャワーを浴びた後に『ありがとな、お前の左足は武器だから』と言われたのは今でも忘れない。岡ちゃんはストレッチしている時もみんなに声をかけたり表情をチェックしていた。そういう意味ではミシャに通じるものがある。普段からサッカー以外の話でもコミュニケーションを取り、気持ちよく練習や試合に臨んでほしいというのを踏まえていた。
 あの年のチームは個性の固まりで、練習でけんかばかり。でも岡ちゃんがうまくコントロールし、ピッチ内はののさんが声で統率して最高の結果を出せた。」

 この試合は今でもしっかり覚えている。浦和との首位争いで、この試合に勝てば勝ち点差をさらの伸ばせるといった試合だった。
 当日曇りだったと思うが、厚別は満員で相当な熱気がスタジアムを覆っていた。
前半に先制されて苦しい試合だったが、厚別の満員のサポーターの後押しでかなりチャンスがあったと記憶している。
 
 後半田渕のゴールが出てイケイケに。健作のゴールの後は厚別が壊れたかと思うほど凄まじい歓声だった。
 ピッチ上の選手達も田渕や健作のゴール後は凄い喜びようだった。特に健作のゴール後は健作の上に選手が折り重なって健作を祝福していた。脳震盪を起こしていたらしいがあれではしかたなかったかもしれない。
 

 この試合で今年は行けると改めて思った。ここから独走状態になった。



   
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スポニチ「砂川メモリーズ2006年12月23日天皇杯準々決勝甲府戦」

2020年04月30日

抜粋

 砂川が思い出の試合として3つめに挙げたのはクラブ初の天皇杯4強を決めた甲府戦だ。その年はJ2ながら千葉、新潟に続いてJ1を 3連破。新潟戦と甲府戦はフッキを欠く中での快進撃だった。

「自分のベストゲームとかではないけど強く心に残っている。柳下監督の3年目。アクションサッカーに取り組み、J2リーグでは昇格争いに絡もうかというぐらい内容もよかった。
  そんな中で天皇杯は、J1の千葉、新潟、甲府に勝利。準々決勝の甲府戦の前には監督が最後の年なんだとうすうすわかっていた。
だからみんな「柳下さんを勝たせたい。」「少しでもこのチームで長く」という思いだった。

 甲府はJ1で攻撃的ないいサッカーをしていたが、その相手にただ守るのではなく、守備も攻撃も主導権を握ろうと試合に入った。守備ではしっかりプレスに行き、攻撃では真ん中から両ワイドに展開するサッカーで対抗した。俺は3-5-2のトップ下。このシーズンはほぼ先発だった。
 先制点をとり、最後に加賀健一がCKから凄いボレーシュートを決めて勝った。
  今でも目に浮かぶのはサポーターの歓喜。いつも勝利の後にサポーターと選手で一緒に歌う「すすきのにいこう」を、「国立に行こう」に替えて歌ってくれた。
準決勝で敗れたがあと一歩まで迫った年。
  ちなみに、リーグ戦で活躍したフッキは、新潟戦、甲府戦の時既にブラジルに帰国していなかった。(笑) 


 この年の天皇杯の躍進はいまでも強烈に覚えている。フクアリで千葉に勝って。勢いに乗った。しかし、あまり覚えていないのがこの甲府戦。テレビで見ていたとは思うが、次のG大阪戦の方が強烈なインパクトだったのでそちらのほうの思いでしか出てこない。
 この年は川崎健太郎が契約満了になっていたが、天皇杯の活躍で再契約を結んだということが思い出される。
 甲府戦を勝って一気に天皇杯の決勝に行くぞとサポーターも一丸となっていた。リーグ戦があまりかんばしくなかったので余計に天皇杯にかける思いが強かったという思いでも残っている。




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スポニチ「砂川メモリーズ2010年12月4日熊本戦」

2020年04月27日

抜粋

 「2010年シーズンで契約が切れる自分に、9月くらいに来季もコンサでやってほしいという話があった。でも11月末、三上GMに呼ばれ「契約が難しい。お金がない。」と言われ、「分かりました」と答えた。
 自分の口で発表したくて最終戦の何試合か前にマスコミの控室に行き「契約満了になります。」と伝えた。
 例えばその年に10得点10アシストの選手だったら、クラブはどんなにお金がなくても優先的に契約する。そうではないというのは、プロとして自分に責任があるから受け入れなきゃいけない。
 そういう状況もあり、最終戦の熊本戦ではゴール裏のサポーターがでっかく背番号「8」の文字を作ってくれた。
 1人1人のボードに「俺たちの砂川」と書かれていた。

 本当に感動的で、今でも鮮明に覚えている。

  先制点のアシストとFKも決めて最高の形でお別れ。ヒーローインタビューにも立たせてもらった。

 三上さんからは「お金を作るから待っていてくれ」と言われた。その後、三上さんから「今これくらういのお金ができた。」と提示されたが、その金額では厳しく一度断った。

 最終的に12月24日くらいまでずれこみ2010年と同じ給料を用意してくれた。

 正直、移籍先に目を向けてマンションも探していたが、残留を決めた。

 翌2011年にJ1昇格を札幌で味わうことができた。

 後から知ってうれしかった。ゴンさんが石水勲さんに「何とかならないんですか?」と、俺を絶対残した方が良いと言ってくれたみたい。あと石崎監督も。感謝です。
 
  砂川が契約満了になったときには「どうして?」という思いが強かった。その年の最終戦も砂川が初めてFKで点を決めて、砂川のキックの向上も見せてくれた。
 サポーターは「俺たちの砂川」のチャントを繰り返し歌っていた。
 その後急転直下、残留になったのは本当にうれしかった。


 同時にサポーターの1人として砂川に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 砂川は本当に長くコンサにいてくれて、強い印象を残してくれた選手。サポーターみんなから好かれていた選手だった。

 改めてそういういきさつがあったということを知ったのはうれしいことだ。




    
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スポニチ「砂川のメモリーズ」2011年12月3日FC東京戦

2020年04月26日

 スポニチで「コンサOBメモリーズ」という連載が始まった。

 初回は砂川で2011年の12月3日最終戦の昇格がかかったFC東京戦

抜粋

 「スタンドは超満員で立ち見の人がいる状況。昇格ラインが接戦で、札幌は勝負所で勝てたり勝てなかったりで最終戦に入った。まず思ったのはドームの雰囲気がえげつなかった。ウォーミングアップの時に『やべーな』と。試合前の雰囲気で変な自信が生まれて、勝つべくして勝つと思っていた。
 後半で2-1になって『守り切ろう』ではなく『もう1点取ろう』という感じだった。相手は強いから引いたらやられるし、何より会場の雰囲気を味方につけたままでいたい。その中でも、むやみに行って失点するのは避けようと、俺はうまく時間を使いながら中盤でゲームをコントロールし、後ろでは竜二がしっかり声を出していた。
 後半38分にベンチに下がった。スタッフが徳島(徳島との昇格争いだった。)が0-1とリードされていると教えてくれた。そのまま2-1でいけば昇格できる。というのはピッチの選手に伝わっていたと思う。
 ホイッスルが鳴るとうれしさのあまり、全員ピッチになだれ込んだ。個人的には全ての試合に絡めた充実感、結果も内容も残した達成感が凄かった。加入1年目で主将をやった竜二らが号泣していて、それを見てやっぱりうれしい気持ちになった。
 俺は選手会長だったから、社長に勝利給をベンチ外の選手も含む全員に出すように直談判した。『全員でつかんだものだから』と、オーケーをもらった。
 本当にサッカー人生の中で味わったことのない一番の雰囲気だった。『サポーターの声で最後の一歩が出た。』とかよく言うけど、それを最も体感した試合だった。」


 この試合は個人的にもはっきり印象が残っている試合だった。数日前からかなりチケットが売れていて満員になりそうということが言われていて、「満員の中で昇格を決めたら最高だろうな」と思ってドームに行った。

 内村が期待にたがわぬ2ゴール。「打てば入る」と内村が豪語したのもこの試合だった。会場の雰囲気は凄くて、きっとピッチ内の選手の互いの声は聞こえなかったのではないだろうか。対戦相手のFC東京はもう昇格を決めていて、モチベーション的にも差があったのも幸いした。

  この試合こそサポーターの応援とピッチの選手の動きが一体になった試合だったと思う。1点取られてもなぜか引き分けや負ける気はしなかった。それだけサポーターも選手たちも集中していたんだと思う。

 この試合はこれまで現地で観戦して、かなり印象に残っている試合だ。



   
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私的コンサドーレ史13(幼稚園児の中に大人がいると言わしめたエメルソンの凄さ。)

2019年12月30日

 岡田監督の2年目。1年目でJ2の怖さを思い知らされたチームは攻撃的な選手として快速FWエメルソンを獲得、ほかにも播戸、アウミールなどを獲得、万全の体制で臨んだ2000年
 開幕戦は鳥栖スタジアムで迎えた。

 私と妻も初のアウェイ開幕戦を現地で見るために鳥栖へと向かった。

  実は鳥栖スタジアムは2度目の参戦。前の年の1999年。訪れて雨の中、関のゴールで勝った相性の良いスタジアムだった。

 鳥栖スタジアムはアクセスが非常にいいスタジアム。駅から徒歩でそんなにかからない。スタジアムのコンサ側ゴール裏にはたくさんのサポーターが集まっていた。

 はたして噂のエメルソンはどんな選手かという興味と今年のチーム力はどのくらいかという思いで応援していた。

  開始早々コンサのスピード感の溢れる攻撃。開始13分にサイド攻撃からのシュートのこぼれ球を播戸が押し込んで先制、前半終了間際にはエメルソンがゴールで前半を2-0で折り返した。やはりエメルソンは速かった。

  とんでもない素早い動きからパス、シュートを繰り出して、「これは只者ではない。」と唸らせた。


 後半もエメルソンの2ゴールで4-0と圧勝。エメルソンはハットトリックを記録した。
 妻ともとんでもない選手が来たなと話していた。

  鳥栖スタジアムから駅に行く道、意気揚々と帰る途中

 鳥栖サポーターの話が聞こえてきた。「まるで幼稚園児の中に大人が混じっているようだった。」まさにエメルソンについて話していたのだ。

 それだけ鳥栖サポーターにとっても驚愕の試合だった。

 この試合はその年の躍進を思わせる試合だった。

  そしてその年、2000年7月29日厚別でライバル浦和との対戦で両サイドバックの得点を見ることになる。



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私的コンサドーレ史12(宏太のゴールパフォーマンスがサポーターを熱くさせた。)

2018年12月31日

 前年、不条理なルールのせいもあってJ2に降格したチームで気を吐いたのが吉原宏太だった。

 岡田新監督の下、1年でJ1に返り咲く強い意志をもって臨んだJ2リーグだったが、岡田監督も慣れないJ2リーグで苦戦し、なかなか勝ち点が伸びない状態。J1昇格はかなり難しくなった1999年10月17日アウェイFC東京戦。場所は江戸川区陸上競技場だった。

 その競技場は1997年にも行っており2回目とあって、行きも帰りもスムーズだった。当時宏太はU-22代表に選ばれ、アジア予選を戦い得点を量産して、ゴンの離脱によりコパアメリカの日本代表に選ばれ、パラグアイ戦に出場、キャップ1を記録していた。

 押しも押されぬチームのエースになった宏太。日本代表にもなったことで世間から注目され、サポーターの期待も大きかった。

 当日は雨は降っておらず、曇りだったような記憶がある。

  妻と私はバックスタンドに陣取った。コンサのサポーターはバックスタンドに約半分くらい集合していてかなりの人数がいた記憶がある。

 当時のFC東京はワントップのアマラオを中心に守備が堅く攻撃力もあって、この年J1に昇格するのだが、かなり強かった。確かその時には首位か2位だったと思う。
当時からFC東京サポは相手を挑発するのが好きで岡田監督のあだ名ののび太をモチーフにしただんまくを張り出していた。

 しかし、この試合はアマラオが負傷欠場していなかったことが幸いした。

 前半は押されながらも0-0で折り返し、後半、どんなゴールかは今となっては思い出せないが、とにかく宏太のゴールが66分に出た。その時のゴールパフォーマンスがサポーター、
 特に女性サポを熱くさせた。そのパフォーマンスは機関銃を打つポーズ。それもたくさんのコンササポーターがいるバックスタンドをめがけて機関銃を左右にふる動作をしたのだ。

 当然コンササポは大盛り上がり。そこまでのリーグ戦の苦戦を忘れさせるかのような盛り上がりだった。

 試合はその1点を守って勝利した。帰路は意気揚々と帰った記憶がある。

 その年はJ1昇格がかなわなかったが、再び立ち上がる気配を見せた年でもあった。

  翌年は爆発的な攻撃力と堅い守備力で勝ち点を積み重ねてJ1昇格することになるのだが、その開幕戦、2000年3月12日鳥栖スタジアム。
 鳥栖サポーターが「幼稚園児の中に大人がいるのは反則だ」と言わしめたエメルソンのハットトリックを見ることになる。


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私的コンサドーレ史11(室蘭入江のスタジアムが静寂で覆われる。)

2017年12月30日

 1998年12月5日。いよいよ最後のJ1参入戦が室蘭で行われることになった。

 神戸とホーム&アウェイで連敗し、神戸にJ1参入を譲った。しかし福岡との参入戦が残っており、まだまだ大丈夫と思っていたら、12月2日福岡での対戦で0-1で敗れて土俵際に押し込まれた。

 しかし、まだサポーターにはまだ余裕があった。ただ、「まだホームでやるから有利だろう。1点さえとればいいんだ。」と言い聞かせ札幌から室蘭へ車を走らせた。

  参入戦は今考えるとなぜあんなに余裕があったんだろうと思う。その年のJでの終盤戦の戦いは決して悲観する物ではなかった。神戸戦、福岡戦とトータル同点で終われば順位が上のコンサはJ1残留できるシチュエーション。これにみんながごまかされていたようにも思う。

 室蘭入り江競技場は降雪があって、雪がちらちら降っていた。かなり気温も下がっていたのだろう。しかし以外にも寒かったという印象はなかった。それだけ試合に集中していた。

 試合に向けて一つ心配があるとすればマラドーナが怪我で出場できないこと。しかし、代わりのバウテルがきっとやってくれる。バルデスがゴールを決めてくれると思っていた。試合は前半から攻撃を仕掛けるコンサと守備からカウンターを仕掛ける福岡。
しかし、攻め込むも点がとれないコンサ

 惜しいシーンはあった。パウテルのFKはポストを叩く。クロスから棚田のどんぴしゃヘッド。これはわずかにバーを超えてしまった。そしてバルデスが得意の個人技でシュートまで持っていくもGKに防がれる。

前半は0-0
前半、チャンスが多くあったのでさすがに後半には点をとってくれるだろうと思った。
しかし、点が入らないと焦ってくる。後半8分、福岡のカウンターから勢いよく後ろから上がってきた西田。ボランチのフェルナンドにミドルをボレーを打たれ、こぼれ球に西田が詰めてそのこぼれ球に上野が詰めて福岡に1点をとられてしまった。

 福岡に思ってもみない1点を入れられ点を2点とるしかなくなったチームは。パルデスにいかにボールを回すかばかり考えてくる。バルデスにロングボールばかりが増える。

 しかし焦りからか攻撃は単調で決定的なシーンは生まれない。前掛かりになったところを、福岡に39分、44分と追加点を許し0-3。

 もう絶望的な状況。しかし、スタジアムでは応援する声は途切れない。そして終了のホイッスル。スタジアムが静寂でおおわれる。そして選手が泣きくずれ、ばたばたと倒れる。「そんな」としばし呆然。

 いったいどうなるんだこのチームは。と頭をよぎる。まだ現実を受け止められない自分がいた。

  そうするとゴール裏から「コンサドーレ」「コンサドーレ」の声。そこで初めて我に返った。来年からJ2か。
 帰りの車の中。「必ず来年優勝してJ1に戻る。」という何の根拠もない空元気で自分を奮い立てるしかなかった。

 翌年1999年は岡田監督の下、心機一転。必ずJ1に上がるという目標でJ2を戦った。 しかし、なかなか攻守がかみ合わず思ったような成績を上げられない。上位との差がついた10月17日江戸川区陸上競技場でのFC東京戦。押しも押されぬエースに育った吉原宏太のゴール後のパフォーマンスが飛び出す。


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私的コンサドーレ史10(寒かった神戸ユニバー)

2016年12月25日

 J1参入戦。J1参入戦は最長で4試合あって、その4試合に1つでも勝てばいいという優位な中か、初戦は1998年11月22日神戸ユニバーで迎えた。

 そのときにはなんとか力になろうと神戸に遠征して現地で応援していた。

 一番の思いでは底冷えがするほど神戸が寒かったこと。

 ナイターだったから弁当を買ってスタジアムで食べたのだが、その冷たたかったこと。とにかく印象に残っているのはその弁当の冷たさだった。昼は神戸観光で長い時間歩いていたから疲れもあったのか一緒にいっていた妻の機嫌が悪くなるほどの寒さだった。
試合はペナ内で誰だったか忘れたが反則を犯してPKをとられる。そのPKを永島に決められ失点。

 そのときゴール裏で応援していたが、必死に立って永島の気をそらそうと手を振ったり動き回ったが功は奏せず、きっちりと決められてしまった。
そして前半また失点。後半は攻撃を仕掛けるもなかなか点がとれなかったが、ようやく棚田のゴールで1点を返した。そして追撃と思ったが同点にできずに敗戦。
アウェイで1敗してしまった。

 しかし、そのアウェイはまだ余裕があった。ホームで帰って勝てばいいさと高をくくっていた。その後3連敗するとは思っても見なかった。

その時にはまあアウェイだから仕方がないと思って終わった神戸遠征だった。

しかし、その後室蘭で0-2で敗戦。
苦しくなった。

そして参入戦3戦目。アウェイの福岡戦で敗戦。いよいよ土俵際に追い積まれた12月5日室蘭での戦い。小雪がふり本当に凍えるなかでの試合だったが。意外と寒かったという印象はない。それほど、試合にのめり込んでいたのだろう。その福岡戦をいよいよ迎える。



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楽しかったOB対リラコンサドーレ

2016年04月24日

 昨日のOB戦。こと前座試合になると本番の試合は勝ったことがなかったと記憶しているが、OB対リラコンサドーレの試合も楽しかった。

 さすがに元プロ。試合が開始してからOBチームがボールを所有していきなり、ゴール。バルデスのヘッドでのゴールや相川のゴール、宏太のゴールなどが決まって5-2で勝った。
リラコンサドーレも奮闘した。
1点こそ洋平がアシストして得点を入れものだったが、1点は見事なシュートで得点した。
  仕込みもあった。洋平がペナの外で手を使ってレッドカード。曽田がゴールを守った。
 

 昨日は昔懐かしい選手がたくさんいて興奮した。
ノノ社長。ペレイラ、バルデス、曽田、深川、大森、洋平、相川、宏太、砂川、後藤、西谷、田渕、智樹の面々が勇姿を見せた。

 後半は宏太とバルデスのコンビも見せてくれた。
 
ペレイラとバルデスは本当にスリムな体型を維持している。ペレイラは今でもサッカーwやっているらし、バルデスは監督として体型管理をしているのだろう。
 JAに勤めていると思っていた相川が自動車工場で働いていたり、後藤が大学でサッカーを教えていたり、近況がわかって良かった。

 今日の日刊スポーツにはバルデスのインタビューが載っている。
「札幌ドームは初めてだったけど再び札幌のサポーターの前で試合ができて感激した。」
パルデスももうすぐ50歳らしいがそんな年をみせない動きだった。

 本当に懐かしい面々。30周年はどんなメンバーがきてくれるのか、10年後だが楽しみ。
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OB戦はすごく楽しみ

2016年04月20日

 C大阪戦に前座で行われるOB戦は楽しみだ。過去に何度もやっているので多少食傷ぎみではあるが、今回は20周年にふさわしいゲストがたくさん。

なかでもペレイラやバルデスがきてくれるのはうれしい。

 考えてみればあっという間の20年。

 最初にコンサを厚別で見たのが20年前。感動してやみつきになってしまったことを思い出す。
 こうして過去のメンバーが集まってくれるのは嬉しい限り。

 ペレイラは相変わらずスリムなのだろうとか、バルデスは相変わらずトリッキーなのだろうかとか考えるだけ楽しくなる。

  後藤とか田渕とか西谷とか職人技の選手達もきてくれる。JAに勤めている相川とか

  洋平は世代別のGKコーチだったか。

 そういえば厚別で「た~ぶ~ち」とよく叫んでいたおじさん?のサポーターはくるのだろうか。また「た~ぶ~ち」と叫んでくれるだろうか。

 USにお願いしたのだがそれぞれのチャントをコールしてほしい。
 昔の選手のチャントを聞きたい。

 バルデスのチャントは今も耳に残っている。

 相川のチャントは今は上原のチャントになっている。

  選手の声も聞きたいものだ。

 それから対戦するリラコンサドーレの選手達をみるのも楽しみ。
 初めて生で見るのだが、どんな選手がいるのかもすごく楽しみ。

 リラコンサドーレの選手達にも頑張ってほしい。



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私的コンサドーレ史9(鈴なりの室蘭)

2015年12月30日

 1998年4月25日対平塚戦。その日はJリーグに上がって2試合目の室蘭開催、また中田英が海外に移籍するということで中田英見たさに1万人以上のサポーターが集まって室蘭の入江競技場はごった返していた。

 まざに鈴なり。

 個人的にはチケットを買い忘れ、指定席は売り切れ。自由席をやむなく買って、試合開始ギリギリに到着。さすがに自由席もよい場所がなく、メインスタンド側の端の芝生席で見ていた。

 試合はスリリングだった。オウンゴールで先制され、中田英に追加点をとられて0-2だったが、バルデスと宏太のコンビネーションで追いついた。その日の宏太は切れていた。

  バルデスのラズトパスをゴールで2ゴール。

  初めは中田英のプレーに歓声を送っていたサポーターの声もコンサの応援が徐々に大きくなってきた。
 しかし、相手の途中出場のリカルジーニョで決められ2-3

 これで終わりかと思ったロスタイム。

 なんとマラドーナの相手GKをあざ笑うかのようなループシュートが決まり3-3

  ぎりぎりで追いついた展開にスタジアムは完全にコンサを応援する声であふれた。
当時は90分で決着がつかないと延長があり、それでも決着がつかないとPKで勝負を決めるという試合方式だった。

 そして延長でも決着がつかずにPK戦に。

 PKのメンバーは覚えていないが、4ー5で負けた。覚えているのは黄川田がポストに当てて失敗したという記憶。

 たくさん集まったサポーターは盛り上がったが最後は残念というため息がスタジアムを覆った。しかし、それでもよい試合をしたと言うような充実感があった試合だった。

  そしてこの年、不条理なルールによりJ1参入戦を戦うことになってしまい。アウェイのJ1参入戦の神戸戦を向かえる。1勝すれば残留ほぼ決定だったが。その試合、なんとか力になろうと神戸遠征をした。


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私的コンサドーレ史8(みんなで行こうJリーグ)

2014年12月28日

 1997年10月22日厚別のナイター。これも忘れることができない試合だ。

 初めてのJリーグ昇格を決めた試合。

 今でも思い出すのは当日、厚別へ行くバスでのスポーツ新聞。一面は安室奈美恵の結婚をすっぱ抜いた記事だった。センセーショナルな話題が日本中を賑わしていた日だ。

 その日は寒かった。10月のナイターだから当然なのだが、しかし、寒さよりも大観衆が押し寄せる熱気が厚別を覆っていた。

 昇格が決まるかもしれない試合。なにもかも初めての経験。試合がはじまるまで、祭りを迎えじっと固唾を飲んでいる雰囲気があった。

 相手は大分。大分には木島、川合、加藤、後藤静臣と前年、コンサにいたメンバーが揃って出場していた。最後にピッチにいたのはこの全員というのもなにか因縁めいていた。

 試合は決めなければいけない試合と言うことで動きがぎこちなく、なかなか決定的なシュートが打てなかった。前半を終わって0-0。重苦しい感じだったがやはりバルデスがそんな雰囲気をぬぐってくれた。後半豪快なキックで均衡を破り、追加点もバルデス。その後1点を返されたが2-1で勝利した。もう厚別はお祭り状態。 

 たくさんのサポーターの歓声が鳴り響いた。これで初めてのJリーグ昇格。
このときのことを思い出すたびHTBアナウンサーの佐藤さんの言葉を思い出すのだが翌日のTVで「みんなで行こう!Jリーグ」という言葉はとてもインパクトがあり、印象に残っている。本当に一つの目標をクリアした感じ。

  とにかく北海道中がJリーグという熱にうなされていた感じだった。

  そして初めてのJリーグ。鈴なりの室蘭での平塚戦を迎える。


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最終戦のOBマッチは今から楽しみ

2013年10月16日

 最終戦の北九州戦のスペシャルイベントとしてコンサドーレ札幌OBマッチが行われることになった。

 これは嬉しい話題。

  前回は7年前神戸戦での事だったと思うが、野々村社長や外国人もペレイラなど出場して盛り上げてくれた。川合も解説をして盛り上げてくれた気がする。

 今回は日刊スポーツによれば野々村社長はもとより吉原宏太や西谷にも声をかけているとのこと。ゴンの出場が目玉らしい。またあのエメルソンにも声を掛けているとのことだがどうなることか。

  7年前OB戦に出場したペレイラはまったく変わらないスリムな体型。驚いたものである。

 長年経って選手が今どんな様子なのかも興味深い。

 まさかエメルソンはこないと思うが、来たら相当な話題になるだろう。

 他の外国人も呼ぶのだろう。

 個人的にはバルデスやウーゴ・マラドーナを見たい。マラドーナがどんな体型になっているのか心配ではあるが。

 外国人ではウィルも見てみたい。ウィルは今現役なんだろうか?

 現在のコーチ陣はでるだろう。名塚コーチや赤池コーチ、村田コーチ、関コーチなど
 日本人では和波も見たい選手だ。いまだ現役でやっている。和波と田渕のサイドバックなどやってくれたらたまらない。

 そして日本人では農協に勤めている相川にも声をかけてほしい。

 元気がでるならゴンと合わせて中山2トップもおもしろそう。

 なにやら想像すると非常に楽しみ。

 どんな選手が出てくれるのか。今からワクワクしている。


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私的コンサドーレ史7(バルデスのゴールは鳥肌が立った)

2012年01月03日

 コンサドーレ史上、一番印象深い試合といえばやはりこの試合をおいて他にはないだろう。

 1997年の5月25日の厚別での川崎F戦。

 もはやサポーターの間では伝説になった試合となったが、今思うと本当に鳥肌が立った試合だった。

 そのときのサポーターの声援、拍手は凄かった。足を踏みならす音もすさまじく厚別競技場から出た音はもの凄かったのではないだろうか。

 そのときも厚別のS席で見ていたが、2点リードされて、1点を返した当たりから周りのボルテージは一気に上がった。

 そしてロスタイムの左サイドのコーナー

 ディドが上がってきて本当に最後のプレ-だと感じた。
  しかし、その時の会場はやはり何かが起こる雰囲気で満ちていた。

  ウーゴのセットプレーから渡辺卓がなんとかすらしてバルデスのヘッドでゴール。

 会場の雰囲気は最高潮に達していた。

  そして延長戦。延長戦は完全にこちらのペース。会場の声援もVゴールがいつ決まるかと行った雰囲気を後押ししていたように思う。

  バルデスはVゴールの後、ゴール裏に一直線。

  会場全体が歓喜に包まれた。

  おそらくこの試合はコンサの試合のなかで一番忘れない試合になるような気がする。それだけ試合自体がミラクルもの。

 伝説になった試合と言われるのも十分にわかるような気がする。

 
  そして1997年10月22日厚別のナイターで初めての昇格を決定づける夜を迎える。


私的コンサドーレ史6(ウーゴ・マラドーナのFKは芸術的だった。)

2011年01月03日

 やはり、ウーゴマラドーナのフリーキックは凄かった。  

 本田技研戦は厚別での対戦。

 ナイターでの首位攻防戦だった。試合前にはよさこいのチームの演舞があった記憶がある。

  ナイターなのに相手が強敵と言うことでかなりの観客がきていた。

 試合は膠着状態だったような記憶がある。相手もなかなか強く攻め手がなかった。それが鳥居塚を中吉に変えてDFを1枚減らしそれまでの3バックから4バックに変えて活性化した。

 次々と攻撃を仕掛け、バーやポストにあたる惜しいシーンも演出して得点は後一歩のところまできていた。そしてゴール前のよいところで、ファイルをもらいウーゴのFKの場面となる。その年のウーゴのFKは冴えていた。ゴール前でファウルをもらえば後はウーゴに任せておけば得点になりそうな安心感がいつもあった。

 そのときも試合の緊張感はあったが、なぜかしらウーゴのキックが決まるという確信があった。

 FKは左45度の位置 当時の新聞にウーゴは「壁が動いたのが見えた」と書いてあったが壁のいなくなった位置を狙ってニアに蹴ったボールは見事にゴール左隅に突き刺さった。先制点。ウーゴが手を水平に上げて喜びを表す。厚別はお祭り騒ぎ。座っていた席ではウエーブが起こる。見事な得点だった。その後相手の攻撃を抑えて見事に勝利。前節東京ガスに敗れたので連敗を免れた大事な一戦となった。

 この年のウーゴのFKの得点は何点か忘れたが、かなり得点をとったような強いインパクトを与えてくれていた。まさに彼のFKは芸術だった。

  そして今では伝説になった厚別での川崎フロンターレとの対戦でバルデスのヘッドを見ることになる。


私的コンサドーレ史5

2009年12月26日

 その日は晴れていたような気がする。

 私たちにとって初めてのリーグ戦でのアウェイ東京ガス戦。

1997年6月7日のことだった。

  リーグ戦のアウェイがどんなものか分からずに会場に着き、それでも落ちついて見るためにバックスタンドに着席した。会場の江戸川区陸上競技場はさすがに東京ガスのサポーターが多かったが、こちらも負けておらず、人数では逆に多いくらい。その応援合戦を興味深く見ていたものだった。

 記憶に残ることと言えば競技場の芝がはげた部分が多く、土埃が舞っていたこと。特にゴールマウス付近は酷かった。

 試合は一進一退だったが、後半退場者が出てコンサが数的不利になる。しかしそこから選手達がさらに頑張った。数的不利を感じさせない。怒濤の攻撃が続く。バルデスのヘッドがバーをたたくシーンや途中出場の吉成の果敢なドリブルがアウェイスタンドを湧かせる。得点をとるのも時間の問題と思いきや結局延長でも得点を取れずにPK戦に。

  5人連続してPKを決めた後、6人目の山橋のPKは残念にもキーパーの真正面でキーパーに弾かれてしまった。そして逆に相手にきっちりとPKを決められて終了。山橋ががっくりとうなだれてチームメイトに慰められていた状況が思い浮かぶ。

   妻と私にとって初めての敗戦を目にすることに。さすがに敗戦でがっくりときたが、選手達の頑張りがわかったので不思議とあまり落ち込むことはなかった記憶がある。

   当時のフェルナンデス監督もそんな選手達の頑張りに胸をはってインタビューに答えていた。


 そして6日後ウーゴ・マラドーナの芸術的なFKを目の当たりにする。


私的コンサドーレ史4

2008年11月13日

その時、私たちは和歌山にいた。コンサドーレ史上初めての天皇杯。

  主に観光が目的だったのだが、始めてのアウェイ。どんなものかと思ったが相手は学生ということもあり、観客も少なかった。しかし結構な数のコンサドーレサポーターがいたような記憶がある。

  試合は負けるはずもなく圧倒的なボールキープを見せ、また圧倒的な攻めでゴールの嵐とまではいかないまでも、なんとか3点を入れて完勝。

 しかし、私たちが印象に特に残ったのは試合後の出来事。知り合いと思われる人に社員選手の木島が手を横にして首を切るポーズをしたのだ。

 当時は新聞で社員選手が全員辞めさせれるらしいということで話題になったが(結局浅沼だけが残った。)木島は1年で辞めさせるは本当に惜しい選手だった。その時の彼の行為で改めて辞めるんだ。と思ったのだ。

何ともため息が出るような切ない光景だった。

 結局コンサはJリーグには昇格できなかった。

 そして翌年、私たちは目の前で始めてコンサドーレが負ける試合を見ることになる。


私的コンサドーレ史3

2008年09月10日

  前日の雪が残り当日も雪が降るかもしれないといった心配もあった当日。空は青々とした晴天。すがすがしい厚別最終戦となるはずだった。 しかし、尋常でなかったのは寒さだった。
  
  相手は富士通川崎。来年度からチーム名を改め、強化に力を入れるというようなニュースが流れていたような気がする。ムタイル、ウィルソン、エンリケという外国人はいたが普通にやれば勝てる相手だと思っていた。もはやJリーグへの昇格もかなわず、ただその日は最終戦ということや東芝の選手が今後どうなるかということでこのメンバーでのリーグ戦は最後になる、目に焼き付けておきたい。そんな雰囲気があった。

  SS席は日陰。用意していた携帯用カイロがなければどうなったことか。試合内容よりも寒さで体が震えて寒くて寒くてどうしようもない思い出が残っている。そして隣に座った若い女性。薄手のコートに手袋もしていなかった。寒さに震え、顔の色も白くなっているようで、見かねた妻が携帯用カイロを渡したが、その女性はあれからもコンサドーレを応援してくれているだろうか。

 試合はなかなか得点できなかったが、私自身、負け試合を厚別でそれまで見ていなかったので負ける気はさらさらなかった。案の定、川合のゴールで勝利。「終わりよければすべてよし。」ではなかったが、いろいろなことがあった1年目だったが最後の勝利で安堵したことを思い出す。そして試合終了後に一斉にピッチに投げ入れられた赤のテープが印象的であった。 

 結局、厚別ではそのシーズンは1度も負けなかった。 そして我々は初めてのアウェイ、天皇杯の1回戦、和歌山へ遠征をすることになった。
 
 そしてそこで木島のある行為を目にすることとなる。


私的コンサドーレ史2

2008年09月07日

  1996年6月23日私と妻の(おおげさに言えば)運命を変えた思い出の日本電装戦。おそらくサッカーの試合内容からすればたいした試合ではなかったのかもしれないが、我々のメモリアルな試合。テレビで見るサッカーと実際にスタジアムで見るサッカーとはまったく違ったことを痛感させられたものだった。

 実は1度だけその前に(1994年のプレシーズンマッチ)清水と市原の試合を厚別で見たのだが、なにせ知人から招待券をいただき、右も左もわからない厚別。今で言う(そう当時も言ったかもしれないが)B自由席。清水のコアなサポーターの間近に迷い込んでしまったのだ。

  太鼓はうるさいし、声援も騒音にしか聞こえない。当時は当然芝生だったので傾斜はあるとはいえ、前はよく見えないしなにせ罵声も多く近くでけんかも起きる。小学生の「リティー」、「リティー」とリトバルスキーを応援する声がほほえましかったが、何もわからない初心者が近寄る場所ではなかった。二度と来るものかと思った苦いJリーグデビューがあったのだった。

 話がそれたが日本電装戦のその当時の記録を見てみる。入場者数6,774人。厚別のコンサドーレの試合としては開幕戦の鳥栖戦に続き2戦目であった。うる覚えで記憶をたどると、前回の苦い思い出があったのでゆっくり見られるであろうSS席券を購入。
  
  不安と期待でゲームを見たのだが、試合内容はとにかくゲームを支配していたのはコンサドーレだったような記憶がある。オテーロのゴールで先制するやすぐにペレイラのゴールで追加点。簡単に先制するも前半のうちに1点を返されたが、後半も押し気味に試合を進めていて、このまま終わりかと思ったとき(記録では74分となっているので終了間際ではないのだが)相手のシュートがなぜか決まり、同点。ため息がもれたが、当時は延長Vゴール方式。最後には川合がVゴールして、コンサドーレの勝利。

  Vゴールの瞬間には立つこともわからず、わけもなく拍手していた。初観戦で初勝利そして初Vゴールとすっかり初物ずくしでコンサドーレの生観戦の味を知ってしまったのだ。初心者にはたまらなかった。この試合が我々には実に大きかったのだ。

  次の試合観戦は仙台戦。その試合はすっきりと完勝してそれからますますコンサドーレにのめり込んでしまい、あの極寒の1996年最終戦。富士通川崎戦を迎える。


23番は誰?ごめん木島

2006年10月22日

  OB戦。
 さすがに動きは衰えていたけれど、テクニックのある選手は目立っていた。
 その中では伊藤優津樹、石塚がさすがと思わせるプレー(無駄なテクニックの披露)をしていた。

 黄川田は前半、ポストにあたったボールを蹴ろうとしてこけてしまい、笑わせてくれたが、得意の頭でゴールを決めた。

 私が一番おやっと思ったのは木島だった。「あの23番」は誰だ?
 とふと妻に聞いてしまった。頭と体型が木島と思わなかったのだ。
 申し訳ない。

 しかし、木島は前半、後半とも試合に出続け、すごく活躍していた。
 そのスタミナはやはりただ者ではない。

 他には雄弁になった田渕や全然かわらない、ペレイラや古川。
 
 そしてコンサ在籍2点目となった山橋のゴールは嬉しかった。

 ちょっと残念だったのは、後半が始まる前に試合と被った場内のCM
 そして、終了後の歴代選手のインタビューがやはり被ったこと。

 時間は十分にあっただけにもっと考慮してほしかった。 





コンサ10周年記念イベントOB戦

2006年10月19日

  いよいよ10周年記念イベントのOB戦が迫ってきた。
 楽しみにしている方も多いと思う。
 
 私も楽しみにしているのだが、チームはユース・スタッフ対OBという図式になるようだ。

 チーム分けだが、なるべく当時在職していたメンバー同士いっしょになるようなメンバー分けを出来ないだろうか。

 ユース・スタッフメンバーだと、DFは名塚がいるが、名塚と言えばと相棒は森である。名塚と森を組ませてもらえないか。

 一方OBチームのDFはペレイラの相棒は古川か

 MFは浅沼と木島は組ませてほしい。そして平川、三浦雅之がDF、
 FWは川合
 このラインは是非見て見たい。

 そして野々村と伊藤優津樹の仲良しコンビ

 見てみたいコンビはたくさんある。

 今からわくわくしている。


















青い?サポーターの三浦雅之(コンサ10年の思い出)

2006年10月17日

  三浦雅之といえば、私が彼の現役の姿を競技場で見たのは、1試合だけだ。彼は前年は甲府に所属していて、甲府では中心メンバーだったようなことを聞いていた。

 道産子だし、コンサには期待されて移籍してきたはずだが試合に出てきたのは遅かった。

 私が唯一彼を見た試合の1996年9月29日帯広での東京ガス戦。ポジションは右サイドバックだったと思うが、私の記憶違いでなければ彼は大きな青の?サポーターをふとももにつけていた。痛々しいといった印象があったが、プレーは果敢で激しかった。その他の試合でもテレビで見たのだが、サポーターをつけて出場をしていた記憶がある。

 なぜか三浦雅之というと私は彼がつけていた青?のサポーターを思い出してしまう。
 


もう少しコンサでプレーを見たかった木島

2006年10月13日

 1996年11月3日天皇杯和歌山大学戦。紀三井寺公園陸上競技場において試合後、試合にはでなかった彼がピッチからスタンドにいた知り合いと思われる人と言葉を交わしていた。
 そして次に手を横にして首を切る動作をした。私は彼のその行為を今でも鮮明に覚えている。
 「俺は首になった。」ということを動作で示していたのだ。

 彼は、切れ味するどいプレーが持ち味でたびたびコンサの勝利に貢献した。そしてその瞬発的なスピードは目を見張るものがあった。

 彼は社員選手であったが、シーズン後半からレギュラーに定着し、チームにはなくてはならないメンバーになっていた。

 翌年の1997年10月22日コンサがJリーグ昇格を決めた厚別のピッチに相手方の選手として立っていたのもなにかの因縁だろう。(ちなみにこの試合では川合、加藤、後藤静臣といった前コンサの選手もピッチにいた。)

 彼もまた川合などと同じく札幌に戻ってきてくれて、解説者やらサッカーの仕事にも携わっている。
 
 彼はたった1年しかコンサにいなかったがもう少しコンサにいてほしい選手だった。


労を惜しまず、がんばる山橋(コンサ10年の思い出)

2006年10月11日

  1997年6月7日江戸川区陸上競技場東京ガス戦
 何度もチャンスがありながらなかなか1点がとれないコンサ。
 1人退場しながらも圧倒的に攻めるコンサ。
 しかし、どうしてもゴールが決められず、PK戦になった。
 
 5人連続してお互いにPKを成功させた後、
 山橋の番になった。
 心なしか緊張しているように見えた。悪い予感があった。
 案の定、キーパーにボールをはじかれてしまった。

 チームメイトに慰められる山橋。
 私は「泣くな山橋。」「おまえの責任じゃない。」と言いながら
 会場を後にした思い出がある。
 山橋の私の中での印象はこの試合が非常に強い。
 
 山橋のコンサ在籍中の唯一の1点はその前節の6月1日の西濃運輸戦で、前半途中、動きが悪かった吉原に代わって山橋が入り、見事先制点を決めた。

 山橋はゴールこそ1ゴールだったが、
 バルデスと組む機会が多く、バルデスのまわりを労を惜しまずに動き回り、
バルデスのゴールをたびたび演出した。

 すごくがんばる選手との印象が強い。
 現役を引退した後もコンサの解説者として活躍している。
 今はあまり見かけないが、サッカーの指導もしているのだろうか。
 彼のことだから、何をしても労を惜しまず、がんばっているのだろう。
 
 















 





Uターンしてくれてありがとう。川合孝治(コンサ10年の思い出。)

2006年10月02日

 1996年6月23日厚別の日本電装戦。私が初めてコンサを生で見た試合。そこで、Vゴールを決めてくれた選手が川合だった。

 川合は勝負強い選手だという印象が強い。年間8ゴールのうち、3度Vゴールを決めている。

 他に1対0で勝った試合の2試合とも川合のゴールであった。

 グランドではロン毛を振り乱し、ひょうひょうとした感じでゴールを決めていた。

 1年で大分に移籍したが、木島もそうなのだが、札幌に帰ってきてくれた。
 Uターン組の一人だ。 

 今はコンサの熱血サポーター解説者?として活躍しているが、実はレッズも好きらしい。

 でもこれからもあのおもしろい?解説をずっと聞かせて欲しい。


コンサのことを一番長く見てくれている人 浅沼達也

2006年09月29日

 1996年コンサドレマガジンVOL.6の表紙に浅沼の晴れやかな笑顔がアップで載っている。

 10月27日(日)対富士通川崎戦(現在のフロンターレ)。最終戦のサンクスウォークだ。

 浅沼は攻撃的MFで主に右サイドをドリブルで駆け上がり、センタリングを上げ、また、チャンスと見るや自らシュートを打っていくという小気味良いスタイルでピッチを縦横無尽に駆けめぐっていた。
 
 彼は東芝の社員選手にもかかわらずコンスタントに試合に出続けた。
 その一生懸命なプレースタイルは、多くのサポを魅了した。
 当時はコンサで1,2を争う人気選手だったのではないか。
 私も好きな選手の一人だった。 

 一時は社員選手の大量解雇の中に入ったが、翌年プロ契約をして、札幌に残った。
 その後は目立った活躍はしていないが、やめてからもコンサのコーチになり
これまでコンサを支えてくれている。

 選手やコーチの立場から彼が一番長くコンサのことを見てくれている。
 
 私は彼に何れコンサの監督をやってもらいたいと思っている。

 なんたって一番コンサのことを知り、理解してくれている人だと思うから。