野次を考える。 -野次に一工夫を-

2009年07月12日

前回の私の野次に関する記事に対して、
様々なコメントを頂きありがとうございます。

チームが勝つことを期待して、このタイミングで議論を始めたわけですが、
いきなり目論見がはずれました(苦笑)。


しかし、過大な期待を寄せられても困るので、予め申し上げておきますが、
野次について何か画期的な解決法があるとは思っていません。

なぜなら、どうやったところで野次はなくならないと思うからです。
私が考えるのは、“野次の根絶”ではなく、“野次との共存”です。


また、野次を全否定するつもりもありません。

ですから、前回、野球の野次の例を挙げた意図は、
まず、野次といっても全てが即“悪い”という訳ではないのではないか?
という問題提起のつもりでした。
これについては、ある程度、共感を得られたものと考えています。

すぐるさんが表現した“聴かせる野次”というのが存在する。

また、Ryosukeさんが、前回の記事に対して、
>適切であれば多少の言葉の悪さは我慢します。
というコメントを寄せてくれています。

そこに、野次との共存のヒントがあるのかなと。

そのポイントは、おそらく“的確な野次”と“ユーモアのある野次”は、
意外と周囲の人に受け入れられる可能性があるということです。


したがって、野次に関する最初のアプローチは、
野次そのものをちょっと変えてみようという話です。






まず、“的確な野次”を叫ぶには、サッカーについてある程度知識が必要です。
しかし、これはある程度、時間が解決してくれる可能性がある。

私も少佐さんのように、札幌の試合で面白い野次を聞いたことはありますが、
オオドサさんも挙げていますが、野球の野次の方が概して深みもあるし、面白い(笑)。

そういう“野次の文化”というか、“野次の流儀”が、野球と比べて歴史の浅いサッカーには、
まだ醸成されていないのかなと思っています。(野次との相性もあるかもしれません。)
だから、時間がある程度、解決する可能性はあると思っています。

(※だからといって、別に、野球を美化する気もないです。
実際、かもめさんがおっしゃるように野球にも罵倒しかしていない人はいます。
そういう人とは、棲み分けるしかないと思っています。これはまた別の機会に。)


また、“ユーモアのある野次”を叫ぶには、精神的な余裕が必要です。

多くの人にとって、サッカーは娯楽の一つなので、日々の憂さを晴らしに来ているのに、
更にストレスを溜めるようなサッカーを見せられちゃ、
罵声の一つも浴びせたくなります。

今でこそ違いますが、昔の阪神は弱いのが普通でした。
しかし、チームが最下位になっても降格するわけでも、
営業収入が大きく減ってチームが消滅するわけでもない。
負け続けても、そこは余裕があった。

だから、サッカーの方が、弱肉強食の過酷な状況に置かれているため、
観客の野次も尖鋭になりやすいのかもしれません。

そして、チーム状況が悪くなると、
多くの人は野次を言うことなく、チームの応援から去っていきます。
その点では、野次を言う人は、声をあげることで何とか応援はし続けようと
精神的なバランスを取っているともいえるわけです。


しかし、スタジアムは、実社会のように様々な人が集まる場所なので、
お互いがある程度歩み寄らないと共存できない。

共存できないと、野次を飛ばす人も、周囲と揉めて嫌な気分になり、
野次を聞かされている人も嫌な気分になって、
結局、お互いが、スタジアムから居なくなってしまう。

それは、共通の目的であるはずのコンサドーレ札幌を応援するという
共通の利益から考えれば、一番まずい結果といえるのではないかと思うわけです。

ここは、かなり難しい要望ではあると思いますが、
私が、昔スペインのセビージャで感じたどこか冷静なチームに対する状況分析、
ちょっとだけ精神的な余裕が、試合を観る側にも必要なのかもしれません。






また、アルコールの販売が、野次をエスカレートさせている可能性はあります。

しかし、それでは、アルコールの販売もやめて、一切、野次も禁止にする。

何でも禁止にすれば、問題は解決するのかといえば、
私は、そんな窮屈なスタジアムには、誰も行きたくないとも思っています。






要は、ただの罵倒、「馬鹿」とか、「アホ」とか、「死ね」とか、
そういうのは、ほぼ周囲の誰にも受け入れられないと思うんです。


私は、ブログと野次って、結構、似ている側面があると思っていて、
どっちも誰か特定の人に向かって言っているわけではないけれど、
結局、自分の主張を誰かに聞いて欲しいんです。
だから、大体、静かな時を狙って野次りますよね(苦笑)。

でも、私もたまにやるので、偉そうなことは言えませんが(苦笑)、
単なる個人的なストレス発散に近い場合、
それはブログでも野次でもあまり周囲から受け入れられない。
そして、それがあまりに多いと周囲の人は嫌になってしまう。


だから、思わず叫んでしまう前に、何回かに一回でもいいので、
野次を言いたい人は、一工夫して欲しいと思うんです。


「どこ向かって蹴ってんだ、下手糞!」ではなく、
「そっちの方向にゴールはねぇぞー!」とか。

「もっと練習しろ!」ではなく、
「そのクロスじゃ、身長2mあっても当たらないぞー」とか。


まあ、しかし、↑の例も、どこからが迷惑な野次で、
どこからがそれほど迷惑に感じられない野次なのか、
そこに線を引くのは、非常に難しいと思います。
まあ、whiteowlは野次のセンスがないという声も聞こえてきそうです(笑)。

それは、選手をネタにしたオオドサ劇場に対する賛否両論のコメントを見ても明らかです。


ただ、一つの判断基準として、周囲をわらかしたら、
野次将軍も周囲に共感されていると感じていいと思うのです。
そして、野次将軍のストレスもある程度緩和され、周囲の人間のストレスも緩和されるので、
お互いにとって、こっちの方が建設的だと思うのですが、いかがでしょうか。


あの人の野次は、気に障るけど、面白いとか、
まっとうなことは言っている、という逃げ道が周囲の人にあれば、
野次をそこまで許せなくなることもないと思うのです。



post by whiteowl

09:11

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