2007年07月31日
J1が中断期に入り、札幌も前半ほどの勢いがなくなってきたこともあって補強を望む声が高まっています。そうした中、いいにつけ悪いにつけ名前のあがるのがジェフの新居。 ご承知の通り、札幌ユース出身で、将来の札幌を背負うものと期待されたものの、飲酒運転で事故を起こし、札幌を解雇されて鳥栖に拾ってもらったという経緯があります。 J2では昨年、一昨年と大活躍し、それが認められて千葉に引き上げられたものの、ベンチを温めることも多く、これまでにわずか1点。千葉はFWのレイナウドを雇い入れたことから、出番のなくなる新居を、貸し出せ、という声が上がっています。J2の実績は申し分なく、札幌というチームも誰よりも知っている。補強選手としてこれ以上のタレントはいない。 一方、強固な反対の声もあります。2004年8月に起こした酒気帯び運転の人身事故は、最下位に低迷していたチームに、途方もないマイナスイメージを与えました。札幌時代の新居はもともと素行が悪く、事件後、反省の色が見えなかったという話がネットで広まり、サポの間に、新居憎し、の声が広がりました。新居の復帰に反発する人は、まだまだ新居を許すことはできない、というものです。 そんな中で、私は「復帰賛成」です。 大原則として、札幌で生まれ、育った選手に、札幌で活躍してほしい、という気持ちが強くあります。まして新居は生まれも育ちも札幌(正確には当別ですが)で、ユースからのたたき上げ。こういう選手にこそ札幌で活躍してほしい。これが大原則です。 第2に、事件については、刑事的、社会的な制裁を受け、すでにみそぎは済んだということ。法律社会が与えた一定の刑罰を受け終わったならば、その人はその罪から自由であるべきだと思います。でなければ「社会復帰」ということに意味がなくなってしまう。 第3ですが、これは多分に自分の想像も入っていますけど、あの事件を通して新居も社会的に成長しただろうと思います。最近のインタビューやコメントを見ると、あの事件に向き合おうという成長のあとがうかがえます。 そして、何のかんの言ってもユース時代から育てられた地元チームを忘れることはできないだろう。そして、選手として活躍し札幌の昇格の助けになることが、自分が犯した過ちによってチームに与えたダメージを回復させる一番のみちだと。こう思っているに違いないと。甘いかも知れないですけど。 そんなことを思うのも、ホームの山形戦。厚別のメインスタンドで、札幌の試合を観戦する新居(離れていたので見間違いの可能性もありますけど)を見たからですね。ああ、やっぱり新居は札幌に想いがあるんだ、と思いました。経緯が経緯ですから、強い気持ちがないと「聖地厚別」の敷居は跨げないと思うんです。 まぁ、ですから、私の思い描くシナリオなんですけど、 新居には、賛否両論の渦巻く中、コンサドーレのユニフォームをもう一度着てもらって、サポの前で自分の言葉できちんと謝罪し、試合ではゴールを量産して、札幌昇格の立役者になってもらう。そして金子達二が、 『贖罪』 などというタイトルで、ベタベタのルポを書き、これが大ベストセラーになる。(別に金子達二でなくてもよくて、斉藤宏則さんが書いて一躍、売れっ子ライターになるのでもいいんですけど)。ついては、非行少年から見事に真人間に立ち直った青少年ということで、警察関係のパンフレットになったり、はては道徳の教科書の題材にもなったり、さらには感激した山林王のとてつもない金持爺さんが札幌のスポンサーになり・・・・というのが私の描いている絵なんですけど。 ただ、このストーリーのためには、新居の大活躍と札幌の昇格が必要条件で、いずれかが失敗したら、チームも本人も大きくイメージを落としそうで、普通の選手を取る以上にハイリスク・ハイリターンではありますが。
2007年07月28日
うーん、今日は観戦記というあらたまったカタチで感想を残す気になれませんでしたな。一言で言えば、 負けるべくして引き分けた試合でした。 厚別としては珍しく、ホームからアウェイにかけて風が吹き、それがボールを前に飛ばすのも困難なほど、強く吹くかと思えば、ぴったりと止んだり。この気まぐれな風が、リズムを狂わせたと言うこともあったと思います。風の影響というのは、テレビを見ているとほとんど実感できませんが、現場にいると、大きな影響を与えていることを感じます。天候も日が差したかと思うと、小雨が降る、変な天候でした。 また審判。今日の審判は典型的な「お役人」でしたね。1点目の札幌のPKもどうかなな?、と言うものでしたが相手のPKも? でした。 それ以上に目を覆いたかったのが、札幌のパフォーマンス。走れない、競れない、つなげないで、元気いっぱいの鳥栖(中山がたくさんいる分けじゃありませんが)に始終ゲームを支配されました。第1クール、第2クールと、昇格を争う上位と死闘を繰り広げた後に、順位が落ちるチームと、楽勝かなと思わせておいて、苦戦するケースが目立ちます。今回もその典型でした。 まぁ、疲れていたんでしょう。そういうことなんでしょうね。監督もそう言っていましたし。 西嶋の欠場も疲れによるものでしょう。そのアナをカウェが埋めていましたけど。 ところで三浦監督が率い、4バックのラインデフェンスを取って成功したチームに、2004年の大宮アルディージャがありますが、この時はシーズンの前半にもたついたものの、後半には破竹の快進撃を見せました。躍進の原動力は途中からの補強と、長丁場のJ2を戦い抜くための「ターンオーバー制」にあったといいます。 現在、札幌は補強もままならず、「ターンオーバー制」も行われていないように思います。 補強は相手次第ですが、「ターンオーバー制」はチーム内のやりくりですから、やろうと思えばできるはず。「ターンオーバー制」とはどういものであったか、機会を見て検証してみたいと思います。
2007年07月27日
不注意で、カメラを落として、入院させてしまいました。 明日は、鳥栖戦に参戦予定なものの、カメラ無しで行きます。 フィルム一眼はあるんですけど、シャッターを押す指がデジイチに慣れてしまって、 スタジアムだと、何回シャッターを押すか解らなくて怖い。 ということで、肉眼でじっくり観察することに徹します。 写真は、今の気持ちを象徴した一枚です。
2007年07月26日
テレビ観戦で、実際にゲームを見た分けじゃないんですが・・・ 仙台のゲームとなると、どうしてもロペスを見てしまいます。 テクニシャンでありながら、186センチと大柄。ダヴィのボディに西谷のテクニックを与えたような選手で、昨年来、何度も札幌をパニックに落とし入れました。 風貌といい、二列目からゲームを作るポジションといい、コロンビアの英雄バルデラマを思い起こすのは私だけでしょうか。(ロペスはバルデラマより走りますが) 今年の仙台は、J1にあがっても通用するサッカーということで、攻撃的なアクションサッカーを標榜しています。実際に見ると、仙台のサッカーは、フィールドを大きく使った、早くて大胆なパス回しが特長のように思います。 このパス回しの起点になっているのが、言うまでもなくロペス。ロペスのキープ力と展開力は抜群で、彼にボールを預ければボールを失うことなく、次の展開が始まることを仙台の選手は知っているため、ロペスにボールが渡るやいなや、迷うことなく次の動きが始まります。その果断さがまた仙台の攻撃のスピードを作っている。 さて、このロペスに対して札幌はマンマークを付けて自由に仕事をさせない、という守備ではなく、むしろ、ロペスを遠巻きにして、ボールの出した先をつぶすという守りをしているようです。 ロペスにプレスをかけにいって交わされると、デフェンスの人数が減ってしまう。それぐらいならばじっと待って、ロペスはいやらしいスペースをついてくるだろうから、そのことを予想して網を張る、という守りが今節では効果を上げたようでした。 仙台が標榜する攻撃サッカー。それにボールを自由に回され、一見、ゲームを支配されているように見えても、実際は、ロペス頼みのサッカーであって、肝心なところではロペスにボールが回ってくることを知っていれば、対処のしようがある、というゆとりを札幌から感じました。 仙台のロペスばかりではなく、パウリーニョとアンドレが中心の京都、ヴェルディのフッキ、福岡のアレックス、湘南のアジェル。J2の上位チームは、おしなべて外国人選手がチームの中核になっています。 そうした中、首位をいく我が札幌は、上位の中で唯一日本人選手が中核となっているチームではないでしょうか。攻撃の起点はダヴィよりも西谷ですし、カウェは仙台戦ではベンチに下げられてしまいました。またブルーノはデフェンスの要ではありますが、曽田の陰に隠れてしまいます。 よく札幌のサッカーはJ1で通用しない、と言われますけど、外国人選手に頼らず、チームの骨格を日本人選手によって作ってることは将来に向けてプラス材料だと思いますし、このことはもっと注目されても良いと思います。
2007年07月24日
6月7日にブログを始めて1ヶ月と約半月。 先ほど11,111アクセスを達成しました。 (本当は1万アクセスで投稿すべきなんですが、逃してしまったので・・・) お祝いにイングランドとアルゼンチンからサポが祝福に駆けつけてくれました。 始めたからには一度は入ってみたいと、 先週は、週間ランキング入賞を狙って一生懸命に書き込み、 これはいったかなと思ったんですけど、なぜランキングが発表されない。 そんなんで気落ちしていたら、ここにきて連日、数百アクセス。 あっという間に1万を超えました。 これも、オオドサさんの洒落のファンが増えてきたためでしょう。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
2007年07月22日
一晩をおいても冷静になれない。すごい試合でした。 私が、コンサドーレサポになったのは、1997年、JFL第7節対川崎フロンターレ戦に逆転劇を目撃してからですが、あの興奮に限りなく近いものが昨日の厚別にはありました。(あの試合も90分だけを見ると、昨日と同じ引き分けです) 第1クールの7連敗を払拭し、フッキを中心に手堅いゲーム運びで順位を上げてきた東京ヴェルディは、間違いなく最強の敵でした。今シーズン開幕前、ヴェルディの補強を見て、どのメディアも断トツの評価を与えたものです。昨日、ヴェルディはまさに断トツの評価にふさわしいメンバーであり、プレイでした。 前半、相対的にヴェルディがボールを持つ時間が多いものの、札幌は高いラインを保ち、しっかりとスペースをつぶしてヴェルディに対して効果的な攻めを許しません。札幌ドームでの対戦の時には制空権を握られた船越が先発で入ってきましが、札幌は事前に十分対策していたためか、孤立する状況が目につきました。 前半15分(この試合に限らず札幌は開始15分間は守りに徹している)をすぎると、札幌は効果的なカウンターを繰り出せるようになってきました。ここから試合は、試合は真剣と真剣で相対峙するような緊迫した展開に。スコアこそ0ー0で終わったものの、一時の脇目も許されない、スリリングな展開でした。 前半のシュート数はヴェルディ3本に対して札幌1本。一見、札幌が攻められているように見えるものの、間違いなくゲームの主導権は札幌にありました。後半に入ると、札幌は一転して攻勢に出ます。後半の15分過ぎまでヴェルディのゴールを脅かすシーンが続きました。 札幌のゲームプランは前半は0ー0、後半の始まり15分までに1点を取るというものだったと思います。しかし、後半の1点目が遠かった。守備を立て直したヴェルディのデフェンスも堅い。時折、ヴェルディの厳しい反撃を受けるものの、札幌は砂川や石井を投入するなど、アグレッシブに攻撃を続け、後半84分、曽田のヘッドで、ゴールを奪いました。 ここでスタジアムは興奮のるつぼ。おそらく、ここから選手に厚別の興奮が乗り移ってしまったんだと思います。気持ちではしっかりと守りたいところなのに、スタンドの興奮が乗り移って体が前にのめってしまう、そんな感じでフィールドの中がバタバタし始めると、ヴェルディの選手がゴール前に大挙してなだれ込み、フッキのヘッドで同点に。 勝ち越しを狙って札幌は再び攻勢に出ますが、終了間際の89分にフッキのミラクルワールドクラスゴールが出て逆転。これは凄いシュートで、札幌の整ったデフェンスラインの前でボールを受けたフッキは、そのまま突破にかかるかと思いきや、左足を振り抜きました。これは札幌の守備は責められません。 普通ならば、これでゲームは終わりです。短い間に立てつづけに2失点。守備が信条で、攻撃力に見劣りのある、札幌の心が折れるところです。しかし・・・ 今日の試合は、厚別での100試合目のメモリアルだった(口調が興奮して変わっちゃいます)。このスタジアムでは幾度となくミラクルが演じられてきた。それはフィールドを赤黒に取り囲む12番目の選手、サポーターとフィールドの中の11人に選手が一体となることによって、生まれる奇蹟なのだろう。 昨年までならば、フッキのような得点を見せられると、サポーターの心も折れてしまった。ところがこの日、残された時間がわずか3分だったとしても、厚別の12番目の選手たちは、勝利を信じ歓声を送ることを辞めなかった。スタジアムの声援に後押しされた札幌の選手たちは果敢にヴェルディのゴールを目指した。 わずか3分の間に、砂川のシュートがバーを叩き、曽田のヘッドがゴールをかすめる。そしてロスタイム残りわずか20秒。砂川の突破がゴールエリアでのスローインを生む。これを砂川がそのままロングスロー。ゴール前の競り合いがコーナーキックに。この時、試合終了まで残り5秒。 ここでヴェルディの戸川健太が額から出血。止血するためにフィールド外に。ロスタイムが加算される。ロスタイム3分53秒。砂川のコーナーキックは、予想を裏切って低い弾道でニアに。これをありえない角度から、石井がさわってヴェルディゴールに突き刺した。 同点! 同点! 奇蹟がおこった厚別公園競技場!!! アナウンサーが興奮して叫ぶとともに、終了のホイッスル。 相手選手に流血を生むほどの闘争心が結果的に同点弾につながった。 厚別はまた伝説を刻んだ。
2007年07月21日
聖地厚別より戻りました。 すみません、終了間際10分に、私、壊れて理性を失ってしまいました。 だもんで、写真を撮るの忘れてしまいました。 そんなわけで、今日の一枚は、試合の始まる前に撮ったものでのです。 落ちついたら、観戦記あげます。 あ、もう代表戦だ・・・・・
2007年07月19日
ダヴィとカウェの契約更新が決定したようです。 ダビィは面白い素材で、ガンバのバレーのように、いずれ化ける可能性を感じます。 バレーは2001年に大宮に入団したときはC契約。30試合に出場して13点を上げたのが始まりでした。大宮をJ1に上げた功労者の一人ですけど、昇格とともに解雇されて、甲府に移りました。甲府の入れ替え戦での活躍はご存じの通り。(J1昇格時の大宮の監督は三浦さんですけど、どうしてバレーを解雇したのかは謎です。) さてダヴィですが、ストライカーが活躍すると契約更新ができなくなり、他チームに取られたという過去を教訓にして、長く活躍できるように現実的な契約を結んでもらいたいものです。 もう一人のカウェについては、私は微妙だなと思っておりました。 たしかに、ボランチとして一定の活躍は認められるものの、21歳の彼が試合に出続けているため、上里や鈴木といった生え抜きの若手が試合出られません。 上里や鈴木がサテライトに甘んじ、経験を積めないとしても、それを補って余るほどの活躍をカウェがしれいれば、言うことはないのですが、正直、微妙という印象です。 上里、鈴木と、カウェがほとんど変わらないレベルならば、長期的に見て、上里、鈴木に経験を積ませるべきだと思いますが、現実主義者の三浦監督にすると、追求すべきは今現在の「結果」であって、育成とか長期ビジョンなどは「結果」を犠牲にしてまで求めるものではない。何人かいるボランチの中で、例えわずかでも、今現時点でポテンシャルが高い方をセレクトしているということなのでしょう。 しかし、先日の柏戦を見ると、サテライトの元気のなさが心配になってしまいます。 リーグ後半に向けて、各チームの補強も進んでいます。 カウェには、後半にチーム力の底上げになる新外国人が新規入団したくらいの気持ちで頑張ってもらいたいものです。彼自身が21歳なので、東京のアマラオのように、長く活躍してもらえれば、日本人の若手の成長の妨げになる、といった雑音も聞こえなくなるでしょう。
2007年07月17日
オオドサさんのリクエストにお応えして(別にしてないって、失礼しました)、 『芝生は目の前が良い!』という写真です。 ボール目線になって芝生の写真を撮りました。 (あくまでも芝生の写真ですので、HFCの方も、レイソルの方も気にしないで) こんな写真が撮れるのが、白恋ですね。 本当に、サッカーはサッカー専用のスタジアムで見たいですよね。 考えたら、白恋は北海道で唯一のサッカー専用競技場じゃないですか。 (他にあったら教えてください)
2007年07月16日
サテライトの柏戦を見にいきました。 前回の鹿島戦の真逆の展開でした。 思ったのは、札幌のレギュラーはやはり身長が高いんだな、ということぐらい。 写真は、コーナーキックの場面ですが、 この近さが、白い恋人サッカー場の良いところ。 大宮公園サッカー場を思い出します。
2007年07月15日
FCソウルとの練習試合が、昨日ありましたね。行けていませんが、 FCソウルってぜんぜん知らなかったですけど、調べてみると、 Kリーグの中堅で、前園もいた安養LGチーターズから改名されたようです。 今、札幌でキャンプ中。ユニは赤黒で、何となく親近感があります。 オフィシャルホームページには、札幌リポートが連載されています。 http://www.fcseoul.com/eng/news/news_view.jsp?seq=148&tcd=news&pg=1
2007年07月14日
今季の札幌を語るのに、三浦監督を抜きして語れない。そこで、三浦サッカーが完成した2004年の大宮アルディージャを振り返ってみたいと思います。 2004年、三浦さんは2年ぶりに大宮の監督に復帰。これ以前の三浦監督は、前の柳下監督のように、『三浦監督は「ポゼッションサッカー」に強いこだわりを持っていた。つねにイニシアティブを取りながら、攻撃的かつエキサイティングなフットボール」を模索し続けていたのである(http://www.jsgoal.jp/special/2004preview/omiya.html)』というのですね。ところが『2年間の解説者生活を経て、彼は「J2は形でなく結果が何よりも大事」という考え方に方向転換した』(同前)というのです。 さて、2004年の大宮は、出だしこそ勝ち負けを繰り返して不安定でしたが、チーム戦術が浸透してきた中盤以降から勝ちが先行し、32節の札幌戦(!)から最終節まで破竹の12連勝を飾り、42節で昇格を決めました。この年はJ2歴代最強といわれる川崎の存在が圧倒的だったために目立ちませんが、後半だけを見ると、直接対決を含め大宮は川崎を上回っていました。 さて04年大宮の後半からの躍進を実現したのは、15節からのトゥットの補強とよく言われます。トゥットは、ダニエルという外れ外人のかわりに、15節から加入し、24試合で8点を上げました。しかし、記録を見ると、23節に新潟から入った森田浩史の途中加入も大きかったようです。森田は後半だけで10得点上げています。これは試合数の多いトゥットよりも多い数字です。 もう一つ注目されるのはGKです。負傷もあって、18節で正キーパーが安藤友安から荒谷弘樹に変わります。荒谷に変わってからは3敗しかなく、大宮J1昇格に大きく貢献しました。こうして見ると、三浦監督独特の4-4-2サッカーを支えるキーパーの役割の大きさがわかります。 新監督の1年目は、特に前半は戦力の見極めに苦労するものですが、2007年の前半戦での札幌の躍進は、04年に大宮で完成した三浦戦術を実践するのにふさわしいコマが、あらかじめ札幌にそろっていたからなのでしょう。(むしろ、コマがそろっていたから監督を引き受けたのかも知れません) トゥット182cmとバレー190cmという大型FWを前に並べるかたちは、ダヴィ183cm、中山元気186cmという姿で引き継がれていますし、攻撃力がありゲームの流れを変えるため、あえて途中投入された森田の役割は、砂川が担っています。三浦サッカーを裏から支えるキーパーも、04年、05年と大宮に在籍し、三浦監督をよく知る高木が移籍したことで穴が埋められました。(高木の移籍も三浦監督が希望した、のかも知れませんね) ただ、04年大宮の躍進は補強の成功にあることは疑いなく、当時の大宮と比べると小ぶりである07年札幌が後半戦を乗り切るためには、やはり的確な補強が不可欠なように思います。
2007年07月13日
今にも雨の降りそうな 重苦しい天気でした。
オオカミに追われたシカがとる行動は2つ。コースを変えるか、もっと速く走るか。 研究され、勝てなくなるとともに、2位以下に詰められた札幌が、とった行動は、コースを変えるのではなく、もっと速く走ることでした。厚別での福岡戦。2-1の勝利は、これまで続けてきたサッカーを変えることなく、入念に繰り返した結果でした。 1点目のゴールは、札幌の武器として磨いてきたセットプレイからの曽田(西嶋のゴールのようにも見えるんですけど)のヘッド(と押し込み)でしたし、2点目も、2ラインディフェンスがボールを絡め取り、すばやく前線のダヴィに送って得られたもの。札幌の生命線である高いラインとコンパクトなゾーンが保たれ、最後まで選手はさぼらず走り回りました。 一方、失点も、これまでと同じ相手の2列目からの飛び出しによるもの。1点目を奪った後に、無理をしないサッカーに切り替えたことが、相手に主導権を渡すことにつながり、徐々にラインが下げられ、福岡の誇るスピードスター田中佑昌が飛び出しに決められました。前半32分ことでしたが、この10分ほど前にもまったく同じかたちで、わずかにボールがそれたシーンがあったことを思うと、同じことを同じ選手に2度もやられたわけで、決して誉められたことではありません。 同じ選手に何度も、といえば、この試合、ダヴィが3回もキーパーとの一対一を演じました。3回目がようやくPKになったものの(リティはシュミレーションだと言って怒っていました)。まぁ、あんなにGKとの一対一を外す選手にPKは任せられませんね。ダヴィがPKも蹴らせてもらえれば、得点ランキングももう少し上でしょうに。それでも1対1を何度も作り出すことができるのは、FWとしての実力ということもできます。 しかし、この試合に限っては「福岡の方にひとつ、ふたつ問題点があるようなディフェンスの形で」という監督の言葉に、真実があるように思います。「福岡とやるときにはダヴィが相手にとっては嫌な選手だという感じはしました」とも言っています。おそらく、三浦監督は福岡の試合を研究して、ダヴィを中心とする何らかの策を授けたのでしょう。それが見事にはまったと。研究するのは相手だけではない、ということですね。 もっとも、これについて監督は「非常にいい質問ですが、あと1回対戦が残っているのでちょっとお話できません」と口を閉ざしています。 いずれにしろ、第2クールの終盤にあったモヤモヤ感を見事に払いのけたこの勝利の最大の立役者は、サポーターだったのかも知れません。選手入場とともにゴール裏はもとより、SB、SA、SSのすべても観客が立って「厚別の歌」を合唱。これがちょうど良い発声練習になったのか、試合が始まってからも、歌に合わせる者がいつも以上に多く、入場者数6000人とは思えない、厚別ならではのホームの雰囲気を作ることに成功しました。 天気は寒くても サポーターは熱かった
2007年07月11日
行け 行け 赤と黒の 俺たちの札幌 そう、ここは我らの厚別! 見せろ おまえの情熱 スタジアム全員で合唱しました。 そして、その思いが届きました。 情熱を見せてもらいました。 まずは、札幌厚別からの第一報です。
2007年07月08日
24節のザスパ草津戦と26節の山形戦とでは、審判に際だった違いがありました。 草津戦の審判は、審判の技術向上のために招かれたデンマーク出身の国際審判員ニコライ・フォルクアーツさん。むやみに試合を止めない、流れるような(決して“流すような”ではありません)レフリングで、サッカーのスピード感、スペクタクルが十分に堪能できる試合となりました。 試合後、札幌の三浦監督も次のようにコメントしたそうです。 「最後に、今日のレフェリングに関しては、これまでよりも大きな違いを感じた。選手が苛立つことなくゲームを進めることができていた。そういう部分の違いを、ゲームを見ながら感じた」http://www.jsgoal.jp/news/00050000/00050643.html この試合の次に見た26節、厚別公園での対山形戦のレフリングが、いつものジャパンスタンダードだったので、なおさらフォルクアーツさんのレフリングが光りました。 草津戦のフォルクアーツさんと26節の日本人審判を比べて思うことは、フォルクアーツさんがサッカーゲームというイベントの「PCO(Professional Congress Organizer)」であるのに対して、日本の審判はサッカー試合の「役人」だということ。 フォルクアーツさんは選手にとってはもちろん、観客にとっても「良い試合」になるように試合をコントロールしようとしたのに対して、26節の日本人審判は試合から超然とし、客観中立を強調したいがために、ホームの雰囲気に流されないぞ、とあえてホームチームに厳しい笛を吹いているようでした。このような「逆ホームタウンデシジョン」は、この日ばかりではなく、Jリーグ全体に多いように思います。 Jができてわずか15年です。なるのに長い月日かかるA級審判のかなりは、サッカーファンの一人としてチケットを買い求め、一人の観衆としてゲームを楽しんだ経験が乏しいじゃないでしょうか。 また、日本のサッカーは学校体育から来ているので、先生が審判を務める機会が非常に多かった。そのために自然とグランドの中に、教師と生徒の関係が持ち込まれているようにも思います。 こうしたことから、試合を観戦する観客を含めて試合をトータルにオーガナイズする意識が日本の審判の中には乏しい、と改めて思いました。
2007年07月08日
札幌のシステマチックなゲーム運びを、各チームが研究してきて対策が確立しつつあるように思います。草津は、2列目から、キーパーとディフェンスの間にボールを放り込み、そこにFWが走り込むという作戦でのぞんできました。 第2クール最終節となる山形戦。相手の4-4-2破りに対応して、札幌は志賀と大塚をボランチにし、カウェをサイドに出して、相手の2列目からの球出しを厳しくチェックして、ゾーンとゾーン間に良いボールを供給できないようにする布陣を取りました。 立ち上がり、札幌としてはコンパクトに出来ていまし、悪い入り方じゃなかったと思います。失点までは比較的、新布陣は機能していたと思います。一方、芳賀・大塚の2ボランチでは、やはり攻めの迫力を欠き、2トップにロングで当てる以外に有効な攻め手がありません。そのため膠着した展開が続きました。 一方、山形は、ゾーンディフェンスの弱点といわれる、ゾーンとゾーン間を徹底的についてきました。前半の失点は、志賀のミスもありますが、志賀から奪われたボールが、簡単にキーパーとの1対1になってしまったのは、ゾーンデフェンスの弱点もあったと思います。 札幌も前半終了間際に同点に追いつきます。ダヴィへのロングフィードを、ダヴィが肩で絶妙なトラップを見せて(偶然?)、ディフェンダーを置き去りにして決めたもの。ロングボールをツートップにあたるという執拗に続けてきた攻撃がようやく実りました。 後半、精彩の欠いた芳賀に代わって砂川を入れ、カウェをボランチに戻して攻撃への比重を高めますが、追加点が奪えない。バランスを欠くレフリングにはばまれ感もありました。そうこうするうちに次第にラインが間延びして、セカンドボールが奪え無くなってきました。 後半に中山を下げて岡本賢明がリーグ戦デビューを飾り、砂川に変わって右サイドに入り、砂川がフォワードに入りました。岡本は投入された早々、ドカーンと抜かれて、トップの洗礼を受けました。 いつもならば、時間とともに札幌が回転を上げ、相手が先に止まるというところでしたが、この試合では先に札幌の足が止まりはじめ、ラインが間延びして、セカンドボールが相手に奪われることが多くなっていきました。 結果は引き分けで順当なところでと思います。もし延長があれば、Vゴール負けしていたのは札幌じゃなかったかと思いますね。 札幌はそんなに変わっていないんですが、相手の研究が進み、その結果、これまで1-0で勝ち点3だったものが、1-1で勝ち点1になってきた。これここ数試合の傾向です。 1-0で勝ち点を拾っていたときは、攻められ続けても、ゲーム全体の主導権は札幌にあったと思います。しかし、相手の札幌への研究が進むようになってからは、主導権を渡す時間が増えてきた。監督は、試合後のコメントで、変える必要がない、と言っていますけど、あの人のコメントは相手に対する作戦の一つなので、別なことを考えていそうな気もします。
2007年07月07日
これどこだと思いますか? 道東のどこかの高原みたいに見えるでしょ。 実は、厚別公園なんですよ。 今の季節の北海道は(住んでいながら思いますけど)本当に気持ちいいですね。 都会の、住宅街の真ん中の厚別公園でも、こんなに気持ちいいんです。 今日の試合の前日、席取り行ったときの一枚です。 後ほど観戦記などを
2007年07月05日
新聞によれば、大宮のFWの吉原宏太が、札幌の練習に顔を見せたそうです。 http://hokkaido.nikkansports.com/soccer/jleague/consadole/p-hc-tp0-20070705-222437.html 後半に向けて、補強がささやかれる中で、突然の来札は波紋を呼びました。 ネットでは、2部落ちした札幌を見捨てて出て行った人、というネガティブな声も聞かれますが、僕は宏太はやっぱり心の中で札幌のことを思ってくれていたんだ、と嬉しくなりました。 吉原宏太は、1996年のコンサドーレ札幌誕生とともに入団した高卒ルーキー。なんでも初芝橋本高校のエースとして、高校選手権でチームをベスト4に導き、本人も得点王になったもののの、Jクラブからはどこからも声がかからず、プロ絵の道をあきらめかけていたところに、コンサドーレから声がかかったといいます。 当時はあんあり意識していませんでしたが、高卒ですぐにスタメンのFWって、なかなかないことですよね。この年はレギュラーとして27試合に出場し、7得点をあげています。当時のJFLのレベルは今のJ2よりは低かったとは言え、高卒ルーキーとしては結構な成績です。そして98年には、札幌の選手としては、はじめてフル代表に選ばれました。 甘いマスクもあって、コンサドーレ札幌という北海道の歴史上はじめて誕生したプロチームのシンボルとして、全道的なアイドルとなりました。それだけに、札幌がj2に落ちて2年目にチームを去ると、こうした移籍が初めてで、誰もが慣れていないために、かわいさ余って憎さ百倍で、ずいぶんと非難を受けたものです。 でも、降格したクラブの生え抜きエースは、1シーズンは、移籍せずに下部リーグの生活に耐えるという、その後の暗黙のルールを作ったように思います(ちなみにそのルールをはじめて破ったのが、札幌の山瀬!)。近年、このルールが破られ、降格と同時に移籍する選手が増えるのを見ると、札幌を見捨てて出て行ったんだというよりも、1年は残ってくれたんだ、と思いたい。 札幌を出てから何年も経ちますけど、成績を見てもやはり札幌時代が最も輝いていた時代。プロにすくい上げてもらって、1年目からレギュラーにさせてもらい、代表まで上げさせてもらったのが札幌なんだから、当然、強い思いをもっていると思いますよ。 そろそろ、温かく迎えてやってもいいんじゃないかな、と思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー このことは強く訴えたくって、二重投稿になってしましましたが、 「コンサドーレ札幌インフォメーション」にも投稿しています。 http://www.phoenix-c.or.jp/%7Ehiro/bin/yybbs/yybbs.cgi
2007年07月02日
1993年のJリーグ開幕は、「突然、天から降ってきた」というコトバがぴったりでした。 資料には、開幕の前年、92年9月から11月にかけて行われたナビスコカップ(ナビスコはJリーグよりも古い!)が大盛況で、これがJリーグの成功につながった、とあります。 実際9月6日の開幕戦では、ヴェルディですら1万3000人の観客だったものが、11月26日の過川崎対清水の決勝では、国立競技場に5万6000人の観客を集めています。 けれど、そのわずか3ヶ月前に閉幕したバルセロナ五輪でのサッカーの扱いは、前回、書いたとおりです。東京から遠く離れた北海道では、サッカーが盛り上がっているという実感はほとんどありませんでした。 当時の私は今の2CH用語でいう「海外厨」だったんだと思います。当時、実際に私が情熱を傾けていたのが洋楽で、それなりの数のレコードやCDを持っていましたが、その中に日本のアーティストのものが1枚もないのが密やかな自慢だったほどです。 マラドーナにきっかけに、サッカーを意識するようになったといっても、日本の国内リーグなんかまったく眼中になかったのです。カンプ・ノウのことは知っていても、読売と日産が、チャンピンを目指して激しく争っていたなんてまっく知りませんでした。そんなもんだといえば、そんなもんだったんです。 それでも1993年を迎えると、日に日に世の中がJリーグにむかって高まりを見せ、日本中の多くの人と一緒に、気が付けば私も5月15日の「ベルディ川崎対横浜マリノス」の試合中継にチャンネルを合わせていました。 その日から数年、まさにダムが決壊したような勢いで、日本中にサッカーがあふれたのです。 ps これを書くために、本棚にあった「Jリーグ・オフィシャルガイド1993年、サントリーシリーズ」という本を見ていて、とても面白かった。 選手名鑑もついているんですけど、ヴェルディ川崎のサテライトに、富樫剛一、関浩二、石塚啓次、村田達也という人たちと並んで、西澤淳二という名前を見つけました。 19歳の西澤
2007年07月01日
サテライト戦を見に、白い恋人サッカー場に行きました。 鹿島アントラーズ相手に 4対1 の圧勝。 石井のハットトリックと良いことずくめですが、 メンバー表を見ると、鹿島はサテライトというよりも、 アンダー20にオーバーエイジが数人(柳沢もいました)という構成でしたので、 レギュラーに近いメンバーで固めた札幌は勝って当たり前かな。 それにしてもすばらしく良い天気でした。 お客さんもたくさん入っていましたね。
2007年07月01日
ワールドカップイタリア大会が終わると、私ははっきりとサッカーを意識するようになっていました。 そんな私でしたから、1992年のバルセロナ・オリンピックはすごく期待したんです。 スペインのバルセロナは言わずと知れたFCバルセロナの本拠地で、90年のバルセロナ・オリンピックの当時のFCバルセロナは、名将クライフのもとロマーリオ、ストイチコフが活躍し、リーグ4連覇、チャンピオンズリーグ初制覇を果たした黄金時代だったんです。 そしてオリンピックでも、FCバルセロナで主力を固めたスペイン代表は快進撃を続け、決勝まで勝ち進みました。 日本が出てないとはいえ、さすがに開催国が出場する決勝ぐらいは放映するだろうと私は期待して放映を待ちました。雑誌の写真でしか見ることのできなかったカンプ・ノウの全容が見れる。バルセロナのファンの熱狂が見れると、期待したんです。 ところがテレビはカンプ・ノウを無視しました。 バルセロナのオリピックで、FCバルセロナのメンバーを中心としたスペイン代表がカンプ・ノウで決勝を行うというのに中継しなかった。オリンピック史上初めての金メダルに輝き、10万人が空前の興奮に包まれたというカンプ・ノウの決勝を、日本のテレビはまったっく無視したんですからね(私が見逃していたならばご免なさい)。 その代わり日本のテレビは何を放映していたかというと、柔道、柔道、柔道、水泳、レスリング、陸上、そして柔道、柔道・・・。 たぶん、1ヶ月にわたってバルセロナからオリンピックが放映されようとも、ほとんどの日本人は、スペインは闘牛とフラメンコの国という偏ったイメージを変えることはなかっただろうし、バルセロナには、オリンピックスタジアムよりも大きく立派なスタジアムがあり、そこを拠点とするチームは世界的な人気を誇っていることなど、知るよしもなかったろうと思います。 放映のないことに愕然とし、また、マスコミはこうして日本国民の目からサッカーというスポーツを隠しているんだ、とつくづく思いました。 よく中山峠を超えてニセコ方面に行くんですが、厚い雲に覆われた曇天の日などには、羊蹄山の巨大な山容がすっぽりと雲で隠されるじゃないですか。あんなでかい山が見事に隠れるもんだと感心して見ているんですけど、サッカーもそんな感じで数十年も隠され続けてきた。 しかし世界にとってサッカーは巨大な存在です。日本のマスコミがいくら頑張ろうとも、いつまでも隠しきれるものではない。情報通信は発達し、世界は狭くなっていく。 バルセロナ・オリピックの翌年に始まったJリーグの突然の熱狂の理由は、こうしたことだと思います。
プロフィール
コンサドーレの試合をはじめて見たのは、招待券で見た1996年伝説の厚別初戦。ペレイラのフリーキックと、オテーロのVゴールを目撃しました。娯楽の少ない北海道で、それは衝撃的な体験でした。そして実際に自分がファンからサポーターになったのは98年に、オフィシャルサポータークラブに入ってから。以来、今日までホーム全試合観戦を目標に、シーズン券を買って、応援を続け、たとえJ2の最下位になろうとも、年間に5回しか勝てなくとも、(実際になりましたが)、チームがある限り、サポであり続けることを誓って、今日まで生きてきました。
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