2008年03月03日
皆さま 今日3月3日は何の日か知っていますか? それはさておき、丸の内の大企業には、サッカーチームを持つことが一種のステータスだった時代があったようです。日立と並ぶ日本の重電系大手東芝にもサッカークラブがありました。このチームは1935年創部と、歴史は古いもののJSLの2部が定位置で、調子の良いときに少しだけ1部に在籍するというどこかのチームような存在でした。 Jリーグの創設に当たって、多くの丸の内系チームがプロチームになっていく中で、東芝はアマチュアである道を選び、新設されたJFLに所属しました。しかし、Jリーグができてしまうと企業がサッカー部を持つ意味が希薄になっていきます。バブル崩壊後の不況は東芝を直撃し、サッカー部のリストラも検討され始めました。 そして1995年6月、東芝の監督高橋武夫さんが来道し、JC関係者と接触。東芝の札幌移転がいっきょに具体化しました。 下記は、95年、コンサドーレが誕生する前の年のJFLの順位表です。見るとこの年のJFLチームの8チーム(※印)が、名前や運営会社が変わったりはしていますが、後のJ2チームオリジナル10になっていますね。95年のJFLはJ2の基盤となったリーグ、と言えなくもないですね。 1位 福岡ブルックス 2位 京都サンガ 3位 東京ガス ※ 4位 鳥栖フューチャーズ ※ 5位 大塚製薬 6位 ヴィッセル神戸 7位 本田技研 8位 東芝 ※ 9位 ヴァンフォーレ甲府 ※ 10位 NEC山形 ※ 11位 コスモ石油 12位 富士通 ※ 13位 福島FC 14位 NTT関東 ※ 15位 ブランメル仙台 ※ 16位 西濃運輸 また95年はJバブルの弾けた年で、この年にここに名前があるチームは、古くJSL時代からあったチームか、仙台、鳥栖、福岡のようにJバブルに乗せられてできたチームです。Jバブルに乗り遅れたチーム、中でも市民チームとされる、後の札幌、福岡、仙台、神戸はいずれも巨額の累積赤字で苦しみます。 この年以降に登場するチームは、大分、新潟など、Jバブルの崩壊を踏まえて登場するチームで、案外、95年を境に、それ以前と以降で区分されるかも知れません。 さて東芝の名前が挙がってから、札幌のJリーグ参入はあれよあれよと具体化します。もともと地域にあったチームがプロ化するのではありません。この年の紅葉が落ちる頃から目に見えて具体化した動きは、一体何処が中心になっているのか、JCとは無縁な私たち一般市民にはわかりにくく、突然、地面からプロサッカーチームが湧いてきた、という感じでした。 そして、96年3月3日。ちょうど12年前の今日、北海道フットボールクラブ設立企画の行った新チームの愛称が発表されました。 1月11日から2月5日までの間に市民から寄せられた名称は2744通。これを桂札幌市長を長とする、石水石屋製菓社長ら16名の選考委員会が選考。「アンビシャス」「ノースフォックス」「カムイ」などの案を押しのけて選ばれたのは、道産子をひっくり返して、ラテンなまりにしたという・・・・ コンサドーレ札幌。 このニュースを聞いて、私は思わずのけぞりました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ようやくコンサドーレ札幌登場です。なんとか開幕に間に合わせました。 冒頭の質問ですが、 3月3日は、ひな祭りの日であるとともに、コンサドーレ札幌の誕生日だったんですね。 おめでとう 12歳。
2008年02月24日
日本のJリーグバブルがはじけた1995年、札幌では「Jリーグ札幌ホームタウンチーム設立推進協議会」という団体が立ち上がり、「札幌にJを」というステッカーが街中に目立つようになりました。 93年にJバブルが起こると、北海道サッカー協会でもJクラブを目指す目指す「Jリーグ特別委」を発足させたものの、道協会は実行力に欠け、結局、札幌よりも1年遅く取り組みを開始した仙台が先に運営会社を設立しました。 こうした中で、JC(青年会議所)に集っていた若手経営者たちの間から、Jクラブを札幌に作ろうという運動が始まったのでした。この推進協議会の初代会長であった原田建設工業の原田信隆副社長は札幌JCの理事長で、広島県の広島JCのOBとゴルフをやっていたときに、「理事長として何をやるのか。Jリーグでも呼んだらどうか」と言われたことが、契機になったと言います。 推進協議会の中心人物たちは、地元企業のボンボンで、サッカーに深くか関わった者たちはほとんどいませんでした。若者たちの盛り上がりに危うさを覚えた財界の長老たちは冷ややかな目線を送っていました。当初推進協議会の会長には北海道サッカー協会の理事の会長にお願いする予定だったものの見事に断られ、商工会議所の会長など財界の顔役にも参加を呼びかけたものの、断られています。 「Jリーグ崩壊」という本が出たのはこの年。誰の目にもブームが下り坂にあったのは明らかだったのに、JCの青年たちは反発を受ければ受けるほど、Jクラブ設立に向けて突進していったようです。そしてここで生じた財界首脳と若手経営者たちとの溝は、後々までコンサドーレ札幌の経営に暗い影を落とします。 一方、JC活動とは無縁な、一市民であった私はこのニュースを何か遠い外国の話でもしているかのように聞いていました。つい1,2年前まであれほど熱狂していたJです。しかし、ここが地方在住者の悲しいところ。全国的な話題のプロスポーツはテレビを通して触れるものであって、自分の生活圏にあるようなものではない、という感じが染みついていたのですね。Jリーグへの興味とか言う問題以上に、「札幌にJリーグを」という呼びかけ自体が、ピンと来ないものでした。 サッカーよりも前に、札幌にプロ野球球団を誘致しようという運動もあったんですが、今と違って当時はプロ野球の12球団の牙城ははるかに強固、誰が見ても夢物語でした。私は、その運動と同じようなもの、つまりは夢物語、と思って見ていたんです。 ところがJFLにいた東芝がサッカー部を切り離したいという話が札幌に伝わり、95年の後半からあれよあれよという間に、夢物語が現実の物語になっていきました。
2008年02月17日
昨日のエントリーで、プロ野球の運営コンセプトという話をしました。これについて補足しておきます。 プロ野球とJリーグの運営コンセプトで顕著な違いは、プロ野球には「結果の均等分配システム」(と私が名付けた)というべきものがあることです。それは下記に特徴づけられます。 ・資金力の乏しい企業の参入排除(新規参入権利金60億とオーナー会議の承認) ・地域に対する排他的営業権(フランチャイズ制) ・ドラフトによる新人選手の均等分配 ・FAを取得するまでの間、選手の独占的所有 これらの措置によって、戦力格差が広がるのを防ぎ、結果的にどのチームでも最低4割以上の確率で勝利と言う「結果」を享受できるように調整されています。さらに、近年ではプレイオフの導入によって、優勝争いという「話題性」も、中位、下位のチームにも開放されました。 ところが、Jリーグには、このような「結果の均等配分システム」はありません。選手の獲得も、移籍もまったくの自由競争で、年々戦力が格差が広がっています。手本としているヨーロッパでは、どの国のリーグでも優勝は上位の数チームに限られています。これは自由競争の果てに戦力格差が固定化された状態にあると言えます。 工藤さんのいう「チーム数が多すぎることでチーム間の格差が広がり、首位の勝率が0.7を超え、最下位の勝率が0.3というのでは、プロスポーツの興業として失格だ」というのは、ファンがチケット代支払った金額に見合う価値提供として、最低でも2試合に1試合程度は「勝利」と言う楽しみを構造的に提供できなければ、興業とは呼べないということでしょう。 反対に、プロ野球の運営コンセプトの欠点は、参入チームを増やすことができない点にあります。チームが増えれば増えれるほど、結果や話題の均等配分は難しくなり、戦力格差はどうしても広がってしまいます。そのためにプロ野球では、参入条件を高くし、参加チーム数を最低限に抑えることで「結果」が分散するのを防いでいます。 こうしてJリーグでは、全国すべてのチームに、チャンピオンズリーグ優勝チームと世界一を賭けて戦える可能性が残されている反面、プロ野球では四国や九州の独立リーグのチームがいくら優勝しようと、セ・パのリーグに入ることはできません。 私的にいうと、プロ野球の結果の均衡配分システムはうらやましいです。 これがJでも機能していれば、サポが減資の問題や、累積赤字の問題に頭を悩ます必要はなかったでしょう。しかし、本当にJがプロ野球と同じ結果の均等配分システムを採用したならば、コンサドーレ札幌は、Jリーグで戦うことはなかったでしょう。そもそもコンサドーレ札幌と言うクラブは誕生すらしなかったでしょう。 プロ野球の方は「プロは結果がすべてだ」とよくおっしゃいます。しかし、結果がすべてである反面、その担保システムとして「結果の均等配分」が行われていることはあまり触れられません。Jリーグには結果の均衡配分システムがないのに、プロ野球と同じく「結果がすべて」を求めると、コンサドーレ札幌のようなことになってしまいます。 (すみません、脱線しました。次回こそは・・・・)
2008年02月17日
95年を境に、Jリーグバブルははじけました。 前年まで、Jリーグを囃したててきたスポーツマスコミはこの年を境に手のひらを返したように態度を変えます。たとえば、「Jリーグ崩壊」という95年に出版された本。 これは工藤健策さんというスポーツジャーナリストが書いたフィクションで、Jクラブへの出資企業の利益を省みず、理想ばかりを追う川渕(川淵ではありません)チェアマンに、危機感を抱いたj(小文字のj)リーグの人気5球団が、川崎ヴィルディ(笑)を先頭にして日本トップリーグという新リーグを結成する、というストーリーです。 この本で展開されている論調は、その後のJリーグ叩きのマスコミ論調に共通するものなので、すこし紹介しておきましょう。 工藤さんは、Jリーグ崩壊の原因にチーム数が多すぎることを挙げ、次のような弊害があるとしています。 (1)試合のレベルの低下 (2)チーム数が多すぎてファンがチームを覚えきれないという問題 (3)チームが増える度に1チーム当たりの露出が減ること チーム数が多すぎることでリーム間の格差が広がり、首位の勝率が0.7を超え、最下位の(浦和レッズです)勝率が0.3というのでは、プロスポーツの興業として失格だというのです。そしてチーム数を絞りリーグ戦の後に上位チームがプレイオフを戦うメリカメジャーリーグの方式を導入するように提言しています。こうすることで、リーグ戦での優勝争い、プレイオフでの優勝争いと、ファンは何度でも緊迫したゲームを楽しむことができると言うのですね。 チーム数が多くなることで試合のレベルが低下するという主張は、当時は頷けるものがあると思っていましたが、しかし今となっては、チーム数を絞り同じチームと何度も何度も対戦することで、試合のレベルが向上するのかは、はなはだ疑問です。 また試合のレベルが下がるとファンがそっぽを向くと、工藤さんはこの本の中で何度も言っていますが、95年当時、どれほどの日本人がサッカー試合のレベルを判断できたのでしょうか。私自身にしてから、試合のレベルが何となくわかり始めてきたのは生観戦を100試合、200試合と続けてきたつい最近です。そしてある程度試合内容がわかるようになると、たとえJ2であっても内容的にレベルの高い試合があることがわかってきました。 どうやら工藤さんが「試合のレベル」と言っているのは、サッカーの試合内容そのもののレベルではなく、優勝争いや、プレイオフへの進出争いなどの「話題」の大小、つまり話題の多い試合がレベルの高い、内容の濃い試合と言っているようです。そしてチーム数が多くなればなるほど「話題」のパイが小さくなると言っているんですね。 こう俯瞰してわかるのは、工藤さんがJリーグに採用するように言っているのはプロ野球の運営コンセプトなんです。Jリーグの運営コンセプトが、プロ野球のものと異なった方向にあるので、長続きしませんよ、と主張しているのですね。 さて95年にJリーグバブルが弾けた原因は、次のようなものではなかったかと思っています。 80年代のプロ野球黄金時代に、プロ野球的な運営コンセプトにどっぷり浸ってしまったスポーツマスコミは、自分たちのパイをさらに広げてくれるものとして、Jリーグの登場を歓迎した。 ところがJリーグの運営コンセプトが、慣れ親しんだプロ野球のものとは異質であるこに気がつく。そしてプロ野球のような運営コンセプト目指すように促した。ところがJリーグはそれを拒む。長年慣れ親しみ、心身に染みついてもいるスポーツ観が通じないと知ったスポーツマスコミは、Jリーグを異質なものとして手のひらを返したように排除し始めたと。 こんな逆風の中、96年にコンサドーレ札幌はスタートします。そしてコンサドーレは、Jバブル崩壊の負を、今も背負うことになります。 (次回こそコンサが出てくる・・はずです)
2008年02月14日
日本最初のプロサッカーリーグから、私を遠ざけたものは次第に大きくなっていった違和感だったと思います。 その違和感は、1993年のJリーグ開幕節、川崎対横浜の試合からありました。5万9626人の観客を集めたこの試合を、私はテレビで食い入るように見ました。中継のアナウンサーは、しきりに讀売が日産に対して連敗を続けていることを強調し、因縁の試合であることを印象づけました。 ここで私はアレレ・・と思ってしまったのです。その当時としては海外サッカー厨だった私にとって、何年も前に世界アマチュアサッカー大会(メキシコオリンピック)で3位になったことが一度だけあるという極東の後進国のアマチュアサッカーリーグなど存在しないも同然でした。そんなリーグでの連勝記録を語られても・・・という思いがありました。 何よりも私がJリーグに期待したのは、積もったばかりの新雪に初めて足跡を残すような、初々しさ、新鮮さだったのです。開幕に並んだ10チームはどれも横一線で、リーグが進むにつれて自分が思いを寄せられるチームが現れてくるはずだと、期待しました。 ところがオリジナルの10チームの中で、川崎と横浜、なかでも川崎・・・というか讀売は特別な存在らしいのです。こう聞くと、自分の関知しないところで特別な存在が作られ、押し付けられることに、私は大きな違和感を感じてしまいました。 確かにこの年の川崎は特別な存在でした。しかし、試合を観ても、NーBOX時代の磐田ほどの感心は沸きませんでした。何よりも、試合中に執拗に繰り返される讀売・讀売・讀売・・・の連呼がうざかった。 Jリーグが、ヴェルディ川崎と呼んでいるのに、讀売新聞だけは讀売ヴェルディと表記していました。これに対して川淵チェアマンがクレームを寄せると、渡辺という讀売新聞のお偉い人が出てきて、川淵を独裁者と決めつけました。 そしてこの渡辺という人は、このままではJリーグはダメになるとして、オーナー会議の開催を声高に主張しました。そして「俺はサッカーの選手は、カズとラモスしか知らないんだよな」と笑ったのです。 がく然としました。「俺は、時計台と雪まつりしか知らないが、このままでは札幌はダメになる。俺の言う通りにしろ」と言っているようなものです。 もちろん、川淵チェアマンは、渡辺という人の要求を突っぱねましたが、私にとってはどうでもいい日本リーグ時代の亡霊が次々と現れて自慢気にJリーグを語り始め、真っ白いキャンバスを期待していた私の思いは裏切られました。 そうして95頃になると、私はJリーグの試合中継をほとんど観なくなりました。要は“にわか”だったのですね。しかし、この頃札幌では、「Jリーグを札幌へ」というステッカーを見ることが多くなっていたのです。 (ようやく次回にコンサドーレ札幌の登場ですかね)
2008年02月12日
みなさま 滞ってしまいました。 多忙というのもあるんですが、選手が札幌にいない。グアムに行っているということもテンションを下げる理由なのかと、思います。 コンサドーレ札幌への思い入れのかなりの部分が、「同じまちに住んでいる選手」というのがあります。札幌に住んでいると、ごく微量ながら西の方から磁力を感じるんですね。しかし、短期間とはいえ、選手がいなくなると、磁力も消えるようで・・・・。 ネタにも困ったところで、放置していたネタを、むりやり押し入れから引っ張り出して再開します。私がコンサドーレ札幌のサポーターになってゆく過程を描いた連載<コンサドーレへの道>の第8回です。前回は、Jリーグバブルの話でしたね。(右のカテゴリーで「コンサドーレへの道」をクリックしていただけると、続き物だとわかります) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、小学生までの私は熱烈な巨人ファンでした。ちょうど、長嶋の最初の監督時代で、家に帰るとテレビでは巨人の星、ラジオを付ければ毎日ジャイアンツで、本当に巨人に包まれて暮らしていたいし、そのことになんの疑問もありませんでした。当然、帽子はジャンヤンツ帽でした。 ところが思春期になると、アンチ・ジャイアンツになっていきます。というのも、わが家では、父が私以上の巨人ファンで、反抗期の私は、父が好きだという理由で巨人にも反発したのです。同時に、音楽、特にブリデッィシュ・ロックにのめり込むようになり、気持ちはますます巨人から離れていきました。 当時、日本の80年代はプロ野球の黄金時代、中でも巨人一極支配の時代でした。あまりにもダントツの存在である巨人の試合中継を成り立たせるために他球団が存在し、巨人が日本一という称号を得るためにパリーグが存在する、という構造でした。 こうなると、新聞、テレビ、ラジオは、朝から深夜まで切れ目なく、巨人・巨人・巨人・・・。あたかも日本の大衆文化には巨人しか存在しないかのような調子でした。NHKと民放で巨人戦が放映され、ラジオでは、HBCとSTVの両方で同じ巨人戦が放映されていました。何という電波の無駄遣いと思いました。そしてその前後には、巨人を持ち上げる番組が延々と続き、私の愛聴していた音楽番組は打ち切りになりました。 巨人は日本人にとってもはや、口を開けば自然に肺に入る空気でした。しかし、私にとっては、真夏のねっとりとまとわりつく湿気った空気だったのです。 巨人から気持ちが離れてしまった私には、このマスコミの洗脳のような連呼が、さらに巨人から気持ちを遠ざけ、ひいてはプロ野球そのものに対しても覚めた気持ちになっていたのです。「アンチ巨人も巨人ファン」という理屈ですべてが巨人の中に取り込まれていく中では、巨人から逃れようとするならば、プロ野球自体から離れるしかなかったのでした。 そうしたなかで、93年にはじまったJリーグには、巨人という圧倒的な存在が全く存在しないすがすがしさが魅力でした。むしろ私にとっては、サッカーへの興味よりも、巨人巨人の連呼から逃れるシェルターだったのかもしれません。 しかし、私にとっての解放空間に、またしても「巨人」が忍び寄ってきたのです。(続く)
2007年09月09日
忘れた頃に始まる、思い出話「コンサドーレへの道」の第7回、 http://www.consadole.net/hm1644/category/1 これの続きです。 右の「カテゴリ」メニューから「コンサドーレへの道」を選ぶと続き物とわかります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 厚別公園競技場の入場者数バッケンレコードは、2000年のJ2第25節札幌対浦和の19825人ではなく、2001年J1第9節札幌対鹿島の19920人でもありません。 それは1993年8月7日ニコスシリーズ第4節V川崎対市原の21745人です。(近くに北海道本部のある宗教団体の大会などで、これを超えたものがあった可能性はゼロではありませんが) そしてこれに続くのが同年6月12日のサントリーシリーズ第9節市原対名古屋の20947人。同年9月25日ナビスコカップ第5節清水対浦和20237人です。J初年度であった1993年のサッカー人気の高さが伺えます。固定席に改修された今、消防法の制限もあってスタンドを建て増ししない限り、この記録は破られないでしょう。 この時、にわかサッカーファンになっていた私。サントリーシリーズで券を買いそびれてしまった反省から、ニコスシリーズでの川崎対市原戦には、強い気持ちで臨みました。しかし、当時のヴェルディ川崎はまさに人気の絶頂期で、Jリーグバブルの人気と重なって、チケットはたちまちプラチナ化。 今のようにコンビニで簡単に切符が買えるわけでなく、プレイガイド前には徹夜の列ができる有様で、販売開始と同時に売り切。私のようなライトなファンのところにはチケットは回ってきませんでした。翌年94年にもJの試合は何試合か行われましたが、年を超すと急速にJリーグへの関心が薄れ、金を出してまで見にいく気がなくなっていたのでした。 ちなみにコンサドーレ札幌以外の厚別でのJリーグの試合は次のようになっています。 ・ 1993年6月12日 サントリーシリーズ第9節 市原対名古屋 20947人 ・ 1993年8月 7日 ニコスシリーズ第4節 V川崎対市原 21745人 ・ 1993年9月25日 ナビスコカップ第5節 清水対浦和 20237人 ・ 1994年8月17日 ニコスシリーズ第3節 清水対平塚 18214人 ・ 1994年9月10日 ニコスシリーズ第9節 市原対磐田 18382人 ・ 1995年7月12日 サントリーシリーズ第23節 横浜対広島 14905人 ・ 1995年8月12日 ニコスシリーズ第1節(!) 市原対G大阪 9518人 ・ 1995年9月16日 ニコスシリーズ第10節 V川崎対C大阪 18786人 ・ 1996年6月 8日 ナビスコカップ予選B組 C大阪対市原 2218人 ・ 1996年8月31日 Jリーグ第17節 V川崎対横浜F 14280人 ・ 1996年9月28日 Jリーグ第21節 浦和対福岡 5611人 ・ 1997年9月13日 Jリーグ2ステージ第12節 V川崎対名古屋 8077人 (これ以外にもプレシーズンマッチが何試合かあったはず。また抜けや誤記がありましたらお知らせください) 当時ジェフ市原は厚別を第2ホームの扱いとしていたため多くの試合が組まれました。95年にはシリーズ開幕戦の場に厚別を選んだ市原ですが、われらの聖地厚別を第2ホーム扱いにするとは失礼な話で、96年にはナビスコの予選で2218人という当時のワースト記録をつくりました。 なおこの試合は当時、Jリーグ人気衰退の象徴として日刊ゲンダイなどいくつかのマスコミに取り上げられましたが、この時すでにコンサドーレ札幌が始動しており、道内のサッカー好きの視線は市原に向いていなかったと、書いてくれたマスコミは無かったですね。 いずれしろ厚別の観客動員は、バッケンレコードもワーストレコードも、コンサドーレ札幌以外のチームが持っているのですね。
2007年08月08日
忘れていた頃に(本当は忘れていたんですけど)復活する連載です・・・ 1993年5月のJリーグ開幕で、強烈な印象を私に残したのは、他に先立って行われたヴェルディ川崎対横浜マリノスの一戦ではなく、その翌日、5月16日に行われたカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ対名古屋グランパスの一戦でした。 マラドーナをテレビで見てからサッカーを気にかけるようになっていた私は、洋楽、とくにブリディッシュロックのマニアだったこともあって、ライトな海外厨でした。読売対日産の伝統の一戦と言われてもぴんと来ませんでしたが、日本で最初のプロサッカーリーグで、ワールドカップを彩ったきらびやかな外国人スター、ジーコ、リネカー、リトバルスキーらがプレイするということだけでも、興味津々でした。 なかでもジーコは、伝説のブラジル黄金のカルテットの中心選手であり、私のアイドルだったマラドーナに勝るとも劣らない名声を誇っていました。また、リネカーは、メキシコワールドカップでマラドーナが見せた神の手、5人抜きの相手方の中心選手で、この大会の得点王だったのです。 そんなことから、93年サントリーシリーズ第1節、鹿島対名古屋の一戦を、アルゼンチン対イングランドの再戦のような思いで迎えたのです。 この時のジーコは本当にすごかった。 ジーコは白いペレと言われた世界の名選手です。しかし90年に現役を引退し、日本に来る前は、ブラジルのスポーツ大臣になっていたといいますし、Jの開幕時は40歳です。全盛時の姿は到底望めないと思っていました。しかし、この日のジーコの活躍は、私の予想をはるかに超えていました。 鹿島アントラーズの5得点のうち3得点がジーコ。なかでも2点目のダイビングしながらかかとにダイレクトに当てたボレーには鳥肌が立ちました。その後、バーを直撃したフリーキックによる1点も、「バーのあの部分に当てると下に落ちて得点になるので狙った」というインタビューを聞いたときには、驚きを通り越して唖然としました。広大なゴールマウスにボールを入れるのにもヒィヒィしているどこかのチームもあるというのに、遠く離れた場所からクロスバーの数センチ、数ミリという場所を狙って当てたというのです。 まさに、86年のアステカスタジアムにあった驚と感動、それと同質なものがこの日のカシマスタジアムにはあったのです。(リネカーが蚊帳の外だったのも同じでした) こうして日本中の多くの人たちと同じに、気が付けば私もニワカワッカーファンの一人となっていました。そして、「好きなチームは?」と聞かれれば、おそらく「アントラーズ」と答えただろう、ライトな鹿島ファン(サポではありません)になっていました。
2007年07月02日
1993年のJリーグ開幕は、「突然、天から降ってきた」というコトバがぴったりでした。 資料には、開幕の前年、92年9月から11月にかけて行われたナビスコカップ(ナビスコはJリーグよりも古い!)が大盛況で、これがJリーグの成功につながった、とあります。 実際9月6日の開幕戦では、ヴェルディですら1万3000人の観客だったものが、11月26日の過川崎対清水の決勝では、国立競技場に5万6000人の観客を集めています。 けれど、そのわずか3ヶ月前に閉幕したバルセロナ五輪でのサッカーの扱いは、前回、書いたとおりです。東京から遠く離れた北海道では、サッカーが盛り上がっているという実感はほとんどありませんでした。 当時の私は今の2CH用語でいう「海外厨」だったんだと思います。当時、実際に私が情熱を傾けていたのが洋楽で、それなりの数のレコードやCDを持っていましたが、その中に日本のアーティストのものが1枚もないのが密やかな自慢だったほどです。 マラドーナにきっかけに、サッカーを意識するようになったといっても、日本の国内リーグなんかまったく眼中になかったのです。カンプ・ノウのことは知っていても、読売と日産が、チャンピンを目指して激しく争っていたなんてまっく知りませんでした。そんなもんだといえば、そんなもんだったんです。 それでも1993年を迎えると、日に日に世の中がJリーグにむかって高まりを見せ、日本中の多くの人と一緒に、気が付けば私も5月15日の「ベルディ川崎対横浜マリノス」の試合中継にチャンネルを合わせていました。 その日から数年、まさにダムが決壊したような勢いで、日本中にサッカーがあふれたのです。 ps これを書くために、本棚にあった「Jリーグ・オフィシャルガイド1993年、サントリーシリーズ」という本を見ていて、とても面白かった。 選手名鑑もついているんですけど、ヴェルディ川崎のサテライトに、富樫剛一、関浩二、石塚啓次、村田達也という人たちと並んで、西澤淳二という名前を見つけました。 19歳の西澤
2007年07月01日
ワールドカップイタリア大会が終わると、私ははっきりとサッカーを意識するようになっていました。 そんな私でしたから、1992年のバルセロナ・オリンピックはすごく期待したんです。 スペインのバルセロナは言わずと知れたFCバルセロナの本拠地で、90年のバルセロナ・オリンピックの当時のFCバルセロナは、名将クライフのもとロマーリオ、ストイチコフが活躍し、リーグ4連覇、チャンピオンズリーグ初制覇を果たした黄金時代だったんです。 そしてオリンピックでも、FCバルセロナで主力を固めたスペイン代表は快進撃を続け、決勝まで勝ち進みました。 日本が出てないとはいえ、さすがに開催国が出場する決勝ぐらいは放映するだろうと私は期待して放映を待ちました。雑誌の写真でしか見ることのできなかったカンプ・ノウの全容が見れる。バルセロナのファンの熱狂が見れると、期待したんです。 ところがテレビはカンプ・ノウを無視しました。 バルセロナのオリピックで、FCバルセロナのメンバーを中心としたスペイン代表がカンプ・ノウで決勝を行うというのに中継しなかった。オリンピック史上初めての金メダルに輝き、10万人が空前の興奮に包まれたというカンプ・ノウの決勝を、日本のテレビはまったっく無視したんですからね(私が見逃していたならばご免なさい)。 その代わり日本のテレビは何を放映していたかというと、柔道、柔道、柔道、水泳、レスリング、陸上、そして柔道、柔道・・・。 たぶん、1ヶ月にわたってバルセロナからオリンピックが放映されようとも、ほとんどの日本人は、スペインは闘牛とフラメンコの国という偏ったイメージを変えることはなかっただろうし、バルセロナには、オリンピックスタジアムよりも大きく立派なスタジアムがあり、そこを拠点とするチームは世界的な人気を誇っていることなど、知るよしもなかったろうと思います。 放映のないことに愕然とし、また、マスコミはこうして日本国民の目からサッカーというスポーツを隠しているんだ、とつくづく思いました。 よく中山峠を超えてニセコ方面に行くんですが、厚い雲に覆われた曇天の日などには、羊蹄山の巨大な山容がすっぽりと雲で隠されるじゃないですか。あんなでかい山が見事に隠れるもんだと感心して見ているんですけど、サッカーもそんな感じで数十年も隠され続けてきた。 しかし世界にとってサッカーは巨大な存在です。日本のマスコミがいくら頑張ろうとも、いつまでも隠しきれるものではない。情報通信は発達し、世界は狭くなっていく。 バルセロナ・オリピックの翌年に始まったJリーグの突然の熱狂の理由は、こうしたことだと思います。
2007年06月23日
こうしてマラドーナと、そしてサッカーと出会った私ですが、それから熱心なサッカーファンになったわけではありません。当時の私の回りは野球ばっかりで、家が山深い坂地にあったことから、サッカーよりもスキーが私の興味の対象でした。 マラドーナと同世代のアルペンスキーヤーに、インゲマル・ステンマルクというスウェーデンの選手がいて、この人もまさに100年に一度の天才でした。圧倒的に早く、何よりも滑っている姿が美しかった。ステンマルクに憧れて、まだ珍しかったエランの板を探して買い求めたりもしました。 そんなことだから86年のメキシコ大会以降、マラドーナのことは正直、忘れていたんです。しかし、4年後のイタリヤワールドカップが近づくと、再び、ワールドカップを意識するようになりました。 本屋にはワードカップの別冊特別号が1冊あって、立ち読みしながら、それなりの知識を仕入れました。そしてこの時にマラドーナという選手がどこの、どういう選手なのかを知ったと思います。それでも、その本を、身銭を払って購入することはしていませんから、つまり、その程度の関心でした。 相変わらず深夜のカルト番組でしたが、イタリヤ大会で印象的だったのは、スタジアムの圧倒的な雰囲気。ハーフタイムの間には、ワールドカップトピックとして、各地の映像が流れたりしていましたが、サポーターの熱狂、特にイングランドのサポーターが、暴れて悪さをしないように孤島に閉じこめられている様子も強く残りました。 世界には、私たちにはまったく知らされてない巨大な何かがある、という実感を深めました。 それでも翌日になって、学校に行くと、ワールドカップのワの字もないんですよね。テレビを見ても、新聞や雑誌を見ても、ほとんど話題になっていない。 この時まで、新聞やテレビ、雑誌といったマスコミは世間を忠実に写す鏡だと純粋に信じていましたけれど、90年のイタリヤ大会を見てからは、マスコミが作る世界と実際の世界との間には大きな隔たりがあることを意識するようになりました。 さて、マラドーナですが、試合の度に厳しいマークにあい、倒され、両手を広げて悲痛な表情でアピールする姿だけが何度も映し出されました。 それでも、決勝トーナメントの1回戦、ブラジルとの試合。圧倒的に攻めるブラジルの攻撃をかわして、カウンター一発。カニーヒャに決定的なスルーパスを通したのはマラドーナでした。アナウンサーは、「やはり決定的な仕事をしますね」とコメントしました。
2007年06月11日
彼は、バックスタンド側のセンターライン付近、ほんのちょっと相手ゴールより、で何気なくボールを受けた。 「神の手」から10分も経っていなかったんじゃないかと思う。始まりは何気ない、J2でも、プリンスリーグにも、カブスリーグにだってありそうな、きわめて日常的な、どこにでもあるサッカーのいち場面。その日常性がマラドーナのドリブルによって木っ端みじんに打ち破られた。 アナウンサーの声だけははっきりと記憶していて、NHKの有名なアナで、ジョホールバルの時に、「絶対に負けられない戦いがある」とのキメ台詞を吐いて、その後の「負けられない戦い」インフレをつくったアナウンサーだと思うんです。 彼は、マラドーナが一人抜くごとに「マラドーナ・・・マラドーナ・・・マラドーナ・・・・マラドーナ」と名前だけを連呼したんですね。はじめは普通の実況の声でしたけど、連呼を繰り返す度に、だんだんとトーンが絶叫調に変わっていきました。 ブラジルのドリブルが、『体が動いてボールが動かない』ことに特徴があると言われるのに対して、アルゼンチンのドリブルは『ボールが動いて体が動かない』と言われます。その通りで、マラドーナはゴールにむかって一直線に向かい、一瞬のブレもない。しかしボールは右に左に動き、相手ディフェンダーは次から次へ交わされる。 マラドーナの5人抜きのシーンの中で、今でもはっきり脳裏に浮かぶのは、ミッドフィールドの二人を抜いて、最終ラインの二人に襲いかかるわずかな合間のマラドーナ。そのとき、 彼は空を飛んだんです。 人間は跳べるけれど飛べないじゃないですか。でも、あの瞬間、確かにマラドーナは飛んだ。跳ぶと飛ぶの違いは、距離や時間や高さじゃない。トビウオが何十メートルも跳んでも、あれは跳んだであって、飛んだんじゃない。というのと同じように、 マラドーナは、コンマ何秒、地上数十センチの大空を飛びました。この感覚、リアルタイムで見ていたい人なら、みんなうなずいてくれると思う。 あの試合から20年、試合がどう始まって、どう終わったのかは今となってはまったく記憶にありません。イングランドなので、リネカーがいたはずなのにまったく覚えていない。それでも、神の手ゴールと5人抜きの場面だけは鮮明に覚えているんですね。 ちょうど、札幌オリンピックでの笠谷の金メダルジャンプの映像と「飛んだ、決まった」のアナウンサーの声を、昨日のことのように覚えているように。
2007年06月08日
サッカーとの出会いは、間違いなくマラドーナです。 あれは、小学校だったか、中学校だったか、高校生だったかの、夏。 メキシコ・アステカスタジアムでの5人抜きを、私は生放送で見たんです。 家の商売の関係で、うちの両親は早く寝ます。 深夜放送に目覚めたばかりの私は、両親が寝たことをいいことに、深夜に起き出して、イレブンPMだとかの、子どもが見てはいけないテレビを見ようと2階からテレビのある居間に下りていきました。つまり私は、不良の入り口にいたんですね。 その日、いつものように両親が寝静まったのを確認し、居間のテレビのスイッチを付けて、音量を最小にした。ややしばらくして映ったのは(昔のテレビは映るのに時間がかかりました)、見たこともない巨大なスタジアム。ビッシリと埋め尽くした観衆の熱気と歓声に、思わず引き込まれてしまった。偶然、86年のメキシコワールドカップの中継を見てしまったんです。 今では、ワールドカップが始まる何年も前から大変な騒ぎになるのに、当時は今、まさにワールドカップの決勝トーナメントが行われているというのに、新聞やテレビでもほとんど話題にされませんでした。プロレスのように深夜にマニアだけが見る番組でした。当然、次の日学校でも、だれもワールドカップのことなど話題にしません。 しかし、私は何か引かれるものがあって、次の日も、両親が寝静まるのを待ってテレビのスイッチを付けました。その時、ちょうど放映されていたのがアルゼンチン対イングランドだったんです。 この試合、マラドーナの1点目は「神の手」ゴールとして、マラドーナの狡猾さを示すものとして語れますが、すごかったのはゴールのシーンではなくて、「神の手」にいたる直前の動きなんですね。 マラドーナは、ディフェンスラインでボールにさわったかと思うと、スルスルと敵味方のプレーヤーをかき分けてあっという間にキーパーと一対一に。その間、数秒の動きがとても人間とは思えなかった。回りのプレーヤーは本当に時間が止まっているかのように凍結して見えた。リアルタイムで見ていた私は、トムから逃げるジェリーのようだ、と思ったことを、今も記憶しています。 自分がサッカーを見ているという自覚もない、ましてこれがワールドカップということですら解っていない子どもの私でも、マラドーナの動きに、スゲーと思わず引き込まれてしまいました。 明らかなハンドですので、イングランドから執拗な抗議があったりするはずなんですが、その記憶がありません。おそらく、スタンドも、選手も、マラドーナの動きにキツネにつままれてしまったんだと思いますよ。 でも、本当にすごかったのは、この後です・・・・(続く)
プロフィール
コンサドーレの試合をはじめて見たのは、招待券で見た1996年伝説の厚別初戦。ペレイラのフリーキックと、オテーロのVゴールを目撃しました。娯楽の少ない北海道で、それは衝撃的な体験でした。そして実際に自分がファンからサポーターになったのは98年に、オフィシャルサポータークラブに入ってから。以来、今日までホーム全試合観戦を目標に、シーズン券を買って、応援を続け、たとえJ2の最下位になろうとも、年間に5回しか勝てなくとも、(実際になりましたが)、チームがある限り、サポであり続けることを誓って、今日まで生きてきました。
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