2007年06月23日
こうしてマラドーナと、そしてサッカーと出会った私ですが、それから熱心なサッカーファンになったわけではありません。当時の私の回りは野球ばっかりで、家が山深い坂地にあったことから、サッカーよりもスキーが私の興味の対象でした。 マラドーナと同世代のアルペンスキーヤーに、インゲマル・ステンマルクというスウェーデンの選手がいて、この人もまさに100年に一度の天才でした。圧倒的に早く、何よりも滑っている姿が美しかった。ステンマルクに憧れて、まだ珍しかったエランの板を探して買い求めたりもしました。 そんなことだから86年のメキシコ大会以降、マラドーナのことは正直、忘れていたんです。しかし、4年後のイタリヤワールドカップが近づくと、再び、ワールドカップを意識するようになりました。 本屋にはワードカップの別冊特別号が1冊あって、立ち読みしながら、それなりの知識を仕入れました。そしてこの時にマラドーナという選手がどこの、どういう選手なのかを知ったと思います。それでも、その本を、身銭を払って購入することはしていませんから、つまり、その程度の関心でした。 相変わらず深夜のカルト番組でしたが、イタリヤ大会で印象的だったのは、スタジアムの圧倒的な雰囲気。ハーフタイムの間には、ワールドカップトピックとして、各地の映像が流れたりしていましたが、サポーターの熱狂、特にイングランドのサポーターが、暴れて悪さをしないように孤島に閉じこめられている様子も強く残りました。 世界には、私たちにはまったく知らされてない巨大な何かがある、という実感を深めました。 それでも翌日になって、学校に行くと、ワールドカップのワの字もないんですよね。テレビを見ても、新聞や雑誌を見ても、ほとんど話題になっていない。 この時まで、新聞やテレビ、雑誌といったマスコミは世間を忠実に写す鏡だと純粋に信じていましたけれど、90年のイタリヤ大会を見てからは、マスコミが作る世界と実際の世界との間には大きな隔たりがあることを意識するようになりました。 さて、マラドーナですが、試合の度に厳しいマークにあい、倒され、両手を広げて悲痛な表情でアピールする姿だけが何度も映し出されました。 それでも、決勝トーナメントの1回戦、ブラジルとの試合。圧倒的に攻めるブラジルの攻撃をかわして、カウンター一発。カニーヒャに決定的なスルーパスを通したのはマラドーナでした。アナウンサーは、「やはり決定的な仕事をしますね」とコメントしました。
EBT
Re:マラドーナを見た(3)
2007-06-24 05:51
アルペンのステンマルク…いい選手でしたね懐かしい。1990年のイタリアW杯はカテナチオの国での開催だった訳ではないでしょうが、あまりにも守備重視の国が多く点が入らない(1試合平均の得点が最少の大会)上に悪質なファウルに対するペナルティ課されなかったせいで、マラドーナら名選手が削られまくりでツマラナイ試合が多い印象が強いです。そのせいでもないでしょうがNHKは当時NHKの野球中継の解説されていた王貞治氏(現ソフトバンク監督)がゲストだった時、実況アナウンサーが「王さん野球に例えるとこうですね」と、やたらに話ふってサッカーファンの顰蹙かってましたが、この前のSTVのコンサ戦の中継でもゲストの元日本ハムの野球解説者・西崎幸広氏に実況アナウンサーが、やたらと日本ハムがらみの話ふって顰蹙かった辺り時が経っても日本のマスコミの進歩の無さには呆れてしまいます。
hibari
Re:マラドーナを見た(3)
2007-06-24 11:23
EBTさん。コメントありがとうございます。 ステンマルク。。。すごかったですよね。大回転と回転で、ワールドカップで全勝なんて年もありましたね。ともかく別格で、コンマ1秒を争うアルペンで、2位と5秒なんて差を付けていました。他の選手たちにとっては、2位にはいることが(1位は決まっているので)優勝だ、なんて言われていましたね。まさにサッカーの世界のマラドーナのような存在で、圧倒的でした。 富良野のワールドカップの後に、札幌の盤渓スキー場でデモンストレーションをしたんですよ。すごく見たかったけど、まだ子どもだったので、親から離れて一人で見にいくという発想がなかった。残念でした。 あの時代はサッカーに限らず、スーパースターの時代だったように思います。サッカーではマラドーナ。テニスではビョルン・ボルグ(同国人としてステンマルクの親友だそうです)、F1にはアイルトン・セナ。陸上にはカール・ルイス・・。 スーパースターというコトバもあの時代に一般的になったんじゃないですかね。
プロフィール
コンサドーレの試合をはじめて見たのは、招待券で見た1996年伝説の厚別初戦。ペレイラのフリーキックと、オテーロのVゴールを目撃しました。娯楽の少ない北海道で、それは衝撃的な体験でした。そして実際に自分がファンからサポーターになったのは98年に、オフィシャルサポータークラブに入ってから。以来、今日までホーム全試合観戦を目標に、シーズン券を買って、応援を続け、たとえJ2の最下位になろうとも、年間に5回しか勝てなくとも、(実際になりましたが)、チームがある限り、サポであり続けることを誓って、今日まで生きてきました。
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