2010年11月04日
いろいろなことをあれこれ悩む日々を過ごしておりました。 でもやっぱりサッカーが、 そしてコンサドーレ札幌が好きだという気持ちにウソはないと あらためて気付くことができました!
2010年03月21日
藤枝東に入って選手権で全国優勝をしたいという目標の私であったが、 練習が嫌いでまったくサッカーは上達しなかった。 ある日、団長から 「お前は頭がいい。いまのうちから審判の勉強をしておけ。」と告げられた。 選手としては見込みがない、という意味を持つことは小学生の私にもわかった。 ショックな言葉だったが、練習してないのだから仕方がなかった。 中学3年の夏にサッカー部を引退し、少年団に遊びにいったときのこと。 団長からどこの高校に行くのかと聞かれた。 「藤枝東です。」と答えた。 サッカー部に入るのか、とは聞かれなかった。 「せっかく藤枝東に行っても、みんなサッカーやらねぇんだよな。」 その言葉にどういう意味があり、どんな願いが込められているのか、 そのときはわからなかった。 いまこうして振り返ってみると、 あのころの静岡県中西部サッカー4種年代関係者(3種も)は、 自分の教え子が藤枝東高校で活躍してほしいと願っていたのではないかと思う。 少年団創成期の、まだリーグ戦などおこなわれていなかったころ、 藤枝は最も身近にして最強最大のライバルであった。 藤枝市以外の周辺市町でサッカーを教える誰もが 藤枝に追いつくこと、そしていつかは藤枝を倒すことを目標にしていた。 しかし同時に、成長した教え子が藤枝東という中西部サッカー界の頂点であり、 全国有数の強豪校の一員として活躍することを、きっと望んでいたに違いない。 藤枝東でプレーする選手は、 もちろん自分自身の夢を、彼らを育ててきた指導者たちの希望を そしてその他大勢の夢が叶わなかった名もなき選手たちの思いをも背負って戦っている。 たとえ県大会で優勝して全国大会に出場しても、 だらしないプレーであっさり負ければ 誰よりもサッカーを愛し、サッカーをよく知る市民から容赦なく「二度と出るな」と言われる。 中山選手や岡田選手の、 常に感謝の気持ちを忘れない姿勢はこのようにして身に付いたものなのではないだろうか。 きょう、中山選手と岡田選手がはじめてJ2の舞台で対戦する。 どちらの選手にもいいプレーをしてほしいと願っている。 試合終了後のスタジアムは、 2人の選手が作り出したいつも以上にすがすがしい空気に包まれることだろう。
2010年03月20日
2年後、藤枝東高校が選手権に出場し3位となる。 ゴンが2年生のときのことである。 何台もバスを連ねて市民が応援に駆けつけるのは、いまもまったく変わらない。 私の所属していた少年団の先輩もレギュラーとして出場していたので、 毎試合応援ツアーに参加している者もいた。 1つ上の先輩など、3学期の始業式が終わるや 「これから国立だ」といってダッシュで帰っていった。(結局間に合わなかったようだったが。) 準決勝、島原商業との死闘をテレビで観ていた。 80分で決着がつかず、勝負はPK戦へ。 最初のキッカーとして登場したのが、少年団の先輩だった。 先輩は見事に決めたが、結局決勝に進むことはできなかった。 2年前の清水東、そして藤枝東の活躍を目の当たりにして、 勉強もできてサッカーもできることがとてもカッコイイことだと確信した。 事実、昔から大半の選手は清水東や藤枝東でサッカーがしたくて 死に物狂いで受験勉強をしてきたのである。 通学区域の関係で、清水東には進学できないことがわかった。 (5教科250点満点中、240点くらい取れば県内最難関の理数科に入れたけど…。) 新たな目標を藤枝東高校に設定し直した。
2010年03月19日
サッカーを始めたものの、 当時体を動かすのがあまり好きではなく 練習はサボりがちであった。 さらに、 練習にユニフォーム(練習着)を着てきてはいけないだの 試合でバックはハーフウェーラインよりも上がってはいけないだの 訳のわからないことばかりを口走るやつがいて、 だんだんおもしろくなくなってきていた。 そんなとき、衝撃的な出来事が起こる。 清水東高校、全国高校サッカー選手権大会優勝。 左胸にゴシック体で縦に清水東と書かれ、 なぜかプーマのマークがいまとは逆を向いている 青-青-青のユニフォームが強烈に印象づけられた。 県下有数の進学校でありながら、全国大会優勝を果たした清水東。 しかも決勝戦は山梨代表の韮崎高校を相手に4-1。 テレビの前で観戦していた私は、 勉強とサッカーをがんばって清水東に入ろう、 そして全国優勝を目指そうと決意した。
2010年03月18日
小学3年生になった春休みのこと。 伯母といとこが静岡に遊びに来ていた。 せっかくだから外で食事を、ということになり徒歩で出発。 こっちのほうが近いという理由で小学校のグランドを横切ろうとしたら、 すでに暗くなっているのにも関わらずサッカー少年団が練習をしていた。 伯母が指導者らしき真っ黒に日焼けした男性に声をかけた。 男性も「おう!」とか言いながら伯母としゃべっていた。 どうやら知り合いらしい。 食事をしながら聞いた話によると、 先ほどの男性はサッカー少年団の団長を務めていて、 高校時代、天から頭脳と容姿の二物を与えられた伯母と仲良くなりたくて 足繁く母の実家に通っていたメンバーの1人だったのだそうだ。 ふーん、と思いながら私はどちらかというと目の前にあった 牛ロース焼肉定食に心を奪われていた。 数日後、家に電話がかかってきた。 例の団長からだった。 「サッカー、やってみないか。」 2年生のときからサッカーをやっている友達もいたし、 3年生からはじめる友達も多いことは知っていた。 伯母とサッカーをやっているいとこの薦めもあって、 あまり積極的ではなかったがサッカーを始めることにした。 もしあの春休み、伯母が静岡に来ていなかったら もしあのとき小学校のグラウンドを横切らなかったら もしあの日少年団の練習が休みだったら もし伯母と団長が知り合いでなかったら 不思議な運命に導かれ、 サッカーという歯車が回り出した。 すべてはここから始まった。
2010年02月27日
サッカーでもらったメダルが2つある。 私のふるさとの小さな街には いまから30年以上も昔から少年団のリーグ戦があった。 6年生のときにAリーグで優勝し、念願の金メダルをもらえると思っていたら、 (Aリーグ優勝チームのみメダルがもらえた) なぜかその年からメダル授与が廃止になってしまった。 メダルをもらえる大会は1つだけになった。 5年生のときにはじめてもらったメダルは 準優勝の銀メダル。 補欠選手として、1秒も出場しなかった私にも 銀メダルが掛けられた。 ずっしりと重いメダルの感触に全員が虜になった。 記念写真にも、見せびらかすように リボンの部分を持っているメンバーの姿が写っていた。 「来年はみんなで金メダルをもらおう。」 そう思ってリーグ戦で優勝したのだった。 この悔しさをバネに、唯一メダルのかかった大会で順調に勝ち進んでいった。 だが決勝戦、またしても敗れた。 2つ目の銀メダルが首にかけられた。 うれしくなかった。 あれから20数年。 結婚してこどもが生まれ、そのこどもがサッカーをやりたいと言い始めた。 「お父さんは昔、サッカーの大会でメダルをもらったことがあるんだぞ。」 「えーっ、本当。」 「本当だとも。じゃあ、おばあちゃんのうちにあるから行ったら見せてやる。」 「やったー。」 お正月に里帰りしたときに探したのだが、 結局見つからなかった。 お盆に帰ったとき、もう一度よく探してみよう。 「ほら、これだ。」 「なんだ、銀メダルじゃん。」 「でもこのメダルはな、みんなで力を合わせて取った、価値あるメダルなんだ。」 「金メダルよりはうれしくなかったしょ。」 「そうだなー。でも、いまお父さんはとてもうれしい気持ちでいっぱいだ。」 「なんで。」 「…。」
2010年02月05日
私のポジションは、 サッカーを始めたころからずっとDFでした。 なぜDFになったのか はっきりとした理由はいまだにわかりませんが、 おそらく体格がよかったからではないかなと思っています。 かつてはDFがオーバーラップして ゴール前にいるなんてことはあまりありませんでした。 ですから、試合に出ても得点に絡んだことなどほとんどありません。 ただ一度だけ、得点をしたことがあります。 小学校のときだったと思いますが、 右サイドバックとして出場していた試合で、 エンドは風上でした。 ハーフウェーラインを少し超えたあたりに(たまたま)いた私のところに こぼれ球がバウンドしながら転がってきました。 その瞬間、ゴールが見えました。 ゴールまで40メートルはあったと思います。 しかし、私は迷わず右脚を思い切り振り抜きました。 ボールは風に乗ってぐんぐん相手ゴールに向かっていきます。 ゴール手前で落下しはじめたボールは ゴールキーパーの手とクロスバーの間を抜け、 ノーバウンドでゴールネットを揺らしました。 思わず両手を天高く突き上げました。 「俺には必殺の超ロングシュートがある」 一気に自信を持ちました。 狙えるときには積極的にシュートを打っていきました。 中学生になって、練習試合で同じような場面がありました。 私の放った超ロングシュートは、どんどん相手ゴールに向かっていきます。 キーパージャンプ!届かない!決まった!と思った瞬間、 「カーン」 という音とともにクロスバーに弾かれ、 あえなくゴールキックとなってしまいました。 その後、交代させられ、 監督から「あれが決まっていれば、お前の人生も変わった」 と告げられました。 それからしばらくの間、 レギュラーからはずされることになりました。 厚別で上里選手が、 65メートルの超超ロングシュートを決めたとき、 少しだけそんな過去のことを思い出していました。
2010年02月02日
小3でサッカーを始めて 最初(で最後)に買ってもらったボールは、 チーム指定のミカサの貼りボールでした。 六角形と赤と青の三角形を組み合わせたデザインのボールは、 1年中練習できる土のグラウンドや アスファルトの道路で容赦なく使われて、 皮がはげて茶色くなっていきました。 少年団の倉庫(通称:サッカー小屋)の一角に試合球を保管するスペースがあり、 そこにはモルテンのタンゴが4個うやうやしく置かれていました。 その美しいほどの白さと蹴り心地のやわらかさは サッカー少年の心を一気に虜にしたのでした。 中学に入るとボールは5号球になりました。 練習では貼りボールを使っていましたが、 試合には手縫いのボールがあらわれました。 変形するという理由で普段は空気の抜かれた 天然皮革の手縫いボール…その名は「PEACOCK」。 目一杯空気を入れられたPEACOCKは これでもかというくらいカチカチに硬く、 ヘディングでの競り合いをためらわせるほどでした。 雨なんか降った日にゃ、思いっきり水を吸い込んで重いのなんの。 ゼ~ンゼン飛びません。 それでも個人では所有することのできないあこがれのボールでした。 いまはいろんなデザインのボールがたくさん売られていて、 しかも価格も昔ほど高くなくてうらやましいです。 ちなみに小僧のあこがれのボールは 去年までのJリーグ試合球だった「テラパス」。 小僧曰く「コンサドーレのボール」なんだそうです。
2010年01月26日
小僧(私の田舎では息子のことをこう呼びます)もいることだし、 まずはのんびり見たいという思いから 2007年最終戦の水戸戦と、 2008年のホーム開幕戦のマリノス戦は アウエー側SB席で観戦していました。 でも、振り返らないと大型ビジョンが見えないのと、 Bビジターからあふれたアウエーサポが多くてSA席へ移動。 浦和戦や鹿島戦ではSA席にも相手サポがたくさんいましたけど…。 昨年は夢プランファミリーシートが設定されたので 迷わずそこで観戦しました。 最前列で見るのもいいですが、 わりと上の方から見るのが好きです。
2010年01月25日
簡単に自己紹介を。
サッカー歴は小学校3年生からですので、かれこれ四半世紀が過ぎました。
(だいたいの年齢がわかっちゃいますね。ちなみに男ッス。)
でもやっていたのは中学生まで…。
高校はサッカーで有名なところで、しかも進学校。
勉強に専念、という言い訳でサッカー部には入らず(入れてもらえず?)。
いまとなってはとてもとてもとても後悔しています。
大学生活を経て、
コンサドーレ誕生の年に、北海道へ上陸!
長いこと道東にいましたので、
スタジアムで観戦することもなく過ごしておりました。
近くに引っ越してきたのを機に、
一度行ってみるかと思い立ったのが2007年の最終戦。
昇格&優勝を目の当たりにして、一発でハマってしまいました!
2008年には練習場に出没。
2009年にはアウエーにも進出。
2010年ブログを開設…ってな具合です。
プロフィール
NAME:PA AGE:AROUND40 BORN IN SHIZUOKA LIVE IN HOKKAIDO
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