1999年8月15日 厚別

2006年10月13日

今夜の「コンサでアシスト!」に、関浩二、深川友貴、名塚善寛の3コーチが出演し、10周年記念試合への抱負を語っていた。関コーチ(選手?)は、自らジャージの上を脱ぎ、半袖姿を披露(笑)。そこで、半袖アピールに敬意を表し、今日の10周年感謝デイ特設ブログへのトラバは、関浩二に決定。

1999年J2リーグ第21節。この試合が始まる前の時点で、コンサドーレ札幌は6位で、J1昇格圏内である2位との勝ち点差は11。残り試合が15であることを考えれば、ここで負けたら昇格は絶望的になる(と、このときは思ってたんだが、この年は最後の最後に思いがけず接近するんですよね)。対する大分トリニータは、2位と勝ち点差5の3位。

コンサドーレは、2節前の19節から、梶野とビジュのドイスボランチの前に棚田を置き、前線にはアシス、深川、吉原を並べるという攻撃的布陣を敷いていた。この21節の大分戦でも同様だったが、名塚のゴールで先制するも神野に2得点を決められて逆転されると(結果的に神野はこの年の得点王になるんですよね)、梶野→関、棚田→黄川田と、次々とFWを投入(この辺が岡田監督の采配の限界だったような気がして、だから僕は岡田さんはあんまり信用してなかったりするのね)。

しかし1点ビハインドのまま、試合はロスタイムへ。僕はこのとき、ああ、もう、これで今シーズンは終わりだ…と思いながら、(珍しく)ホーム側のゴール裏で見てたのです。

ロスタイム、右からのコーナーキック。ホームのサポーターを背にしたGK佐藤洋平が、守るべきゴールを捨てて相手ゴールへ向かって走って行った姿は、今もまだ思い出せる。その洋平の姿にどよめく中、アシスが蹴ったボールが関にどんぴしゃで入り、同点に追いついた。背中の背番号11を両手で引っ張って、自らの存在をアピールする関。これも、今もまだ、はっきりおぼえてる。

コンサドーレの背番号11はなぜか翌年に契約してもらえないことが続いていて、関もこの年のオフに戦力外になってしまうのだが(背番号11の呪い?を破ったのは播戸が最初)、記録には残らなくても記憶に残る選手だった…なんてことは、僕が言うまでもなく、みんなわかってるか。

関浩二が東京ガスから(当時のJFL得点王の称号を引っさげて)ベルマーレ平塚に移籍した直後、1996年の京都パープルサンガ戦@西京極でのJ初ゴールを生で見たのは、僕のプチ自慢(?)。それにしても、なんであんな試合をわざわざ見たんだろ?(僕は当時、東京に住んでたんですけどね)


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