2007年06月21日
元ネタは『赤黒アフロの思う事』オフィシャル出張所さまより。 http://www.consadole.net/afro13/article/113 【帰ってきた!! サポーター経験値 2007ver】 招待券で入場 ○ えチケで入場 ○ シーチケで入場 × 今年は買ってない。 スイート席で観戦 × ゴールド席で観戦 × SS席で観戦 ○ S席で観戦 × SA席で観戦 × SB席で観戦 ○ ゴール裏で観戦 ○ スピカで観戦 × サンピアザ光の広場で観戦 × アウェイ観戦 10試合以上 ○ 昔関東に住んでたし。 doZeの会員 ○ 持ち株会株主 × スポンサー × OSCに所属 × 出入り待ち ○ 選手のサイン ○ 選手と一緒に写真 × 恥ずかしくて……。 ドーレくんのサイン × ドーレくんと一緒に写真 × ドールズのサイン × ドールズと一緒に写真 × スタッフ・コーチのサイン × スタッフ・コーチと一緒の写真 × ファン感謝デー ○ 練習場見学 ○ サポーターズ集会 ○ 梟巣での食事 ○ アイス程度ですが。 罵声&ヤジ ○ 案外多い。若い頃の話。 降格 ○ 2回ともあり。 昇格 ○ 2回ともあり。 テレビ出演 ○ 中継に写ったとかなら。 ラジオ出演 ○ 25日の三角山放送局に出ます。 雑誌新聞に載る ○ 北海タイムス、日刊、道新他。 試合前後のサポインタビュー × コンサカレンダー2007に写真 × 月コン定期購読 × 10年史購入 × オフィシャルブログ ○ ここです。 レプリカユニ07版 × 買う予定ではある マッチディプログラムで当り × 一度もない……。 並びの割り込み ○ 2ちゃんへの書き込み × 携帯の色が赤黒 × 黒のみ。惜しい。 待ち受け画面がコンサ系 × 好きなバンドの写真。 ビン・カン・ペットボトルの持込○ ペットなら。 HFCに電話した事 × アウェイサポと揉める △ アウェイ時代にホームサポと揉めたことなら。 ガードマンと揉める ○ 等々力、仙台、福岡とか。 ジェッター3のライブ(路上可) × コンサ系のCD ○ 2枚 試合前に酔っ払う × 試合前に飲むと声が出ないので飲まない。 試合中に酔っ払う ○ 昔、小瀬でさつま白波飲み過ぎた。 断幕持っている × 持っていた(一発ネタ) ゲーフラ持っている × 持っていたが現存しない。 本名を誰も知らない × たぶん名字くらい サポ仲間から呼び名がHN × 名字で事足りる CVSの経験 × すいか隊の経験 ○ 数回経験。 サッカーステージ除雪協力 × 今年もできなかった……。 コンサドーレ神社に賽銭 × ドールズのダンス(07)が踊れる × アウェイドールズ × アウェイ遠征もしくはホーム遠征○ 遠征は楽しい。 青春18切符での遠征 ○ アウェイサポ時代に何度も。 フェリーでの遠征 × 船酔いするのが怖い。 あいのりでの遠征 ○ これもアウェイサポ時代に何度も。 冬季キャンプ見学遠征 × 行きたい アウェイの日帰り ○ アウェイサポ時代なら、何度も。 遠征先のホテルが選手と一緒 △ 対戦相手の選手と一緒だったことがあった 室蘭入江 ○ 風が強い 函館千代台 × 今年は行きたい んだスタ ○ スタジアムから夜行バスの営業所までが怖かった。 ユアスタ ○ 好きなスタジアム。 笠松 ○ 敷島 ○ ゴール裏でなければ見やすい 味スタ ○ そこそこ見やすい 国立 ○ ユースの試合で 西が丘 ○ 対ガス、ユースの試合で 平塚 ○ 想い出がいっぱい 西京極 ○ ゴミ箱を持ち上げるのはお約束 長居 ○ 第一だけですが。 鳴門 ○ のどかだった 愛媛 × 行きたい 博多の森 ○ 正直博多ラーメン目当てというのも。 鳥栖 ○ 天皇杯の試合 ○ 楽しかった サテライトの試合 ○ 何度か ユースの試合 ○ けっこうな割合で 会社に嘘ついて遠征 × そろそろつこうかと 家族に嘘ついて遠征 × 一人暮らしだから嘘をつく必要がない バレた時の言い訳 × そもそも単独行動なので言い訳する必要もない。 知り合いを招待して観戦 ○ 友達少ない。 サポとの恋愛 ○ 昔の話。 サポと結婚 × うらやましい。 他サポと友達 ○ なぜかFC東京・川崎方面に多い。 フロントに面が割れている × たぶん…… 2~31番までのフルネーム(12は除外・外国人選手は登録名で可) △ たぶん……。 案外○は少なめでしたね。
2007年06月11日
久しぶりに書評(っぽいもの)をしてみる。 鈴木謙介「ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか」 ここでもさんざん語っているんだけど、著者の鈴木謙介氏というのは新進気鋭の社会学者で「文化系トークラジオ Life」というラジオのパーソナリティーを務めている人で、氏を知ったのもこのラジオから。社会学者なんだということを知って、著書「カーニヴァル化する社会」を読んだのがこの本を読むにいたった経緯、というところか。ちなみに仲俣暁生や津田大介、佐々木敦などのようにこのラジオではじめて知ったり、名前だけ知っていたけれどのちに深く知るようになった評論家や編集者、その書籍というのも多い。 さて、本の中身に戻ろう。 「ウェブ社会の思想」とタイトル(そしてイラストはASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットなどを手がける中村祐介、という素晴らしいセンス!)が付けられているように、ウェブ社会(=情報化社会)によって人間の思想や生活はどう変わっていくのか?というようなテーマだと思ってまずは読んだ。 そしたら不覚にも、読んだあと泣きそうになってしまった。 社会学の本を読んで泣きそうになるなんて、はじめてのことだ。 この本は「ウェブ社会が何をもたらすのか」というテーマの本じゃない。 いまの社会の向こう側にある「希望」をひたすらに求め続ける本だ。僕らの未来にある「希望」を見出すための本。これはそういう本だ。そのために本書は現代の情報化社会の現状と未来、それらがもたらす人間への影響を深く論考している。ユビキタス、バーチャル、それらが招くネットワークの変化の波を抜けた向こうに見えるであろう「希望」が、この本のテーマだ。
そして社会学的にいうのならば、本書におけるメインテーマは「情報社会における『宿命』の前景化」ということだ。情報化社会によって蓄積された情報が、たとえばAmazonのレコメンドやiTunes Storeのように個人が動くと「情報そのもの」が勝手に先回りして現れるようになるということ、つまり「人が自分の人生に関する未来を選択すること、それが宿命のように、前もって決められていた事柄として受け取られる」(p17)ことで、人間は「自分が選んできた人生は、こういう結末しか有りようのなかったものなんだ。けれども、それでいいんだ」(p17)と自分を納得させることで「宿命」を受け入れながら生きていくということだ。しかし、どうしてその「宿命」は出現してしまったのか、閉じられた「宿命」の外に出る術はないのか。宿命を打ち破る「希望」はどこにあるのか、そうしたテーマについて社会学的問題を挙げながら述べていく、という本である。 著者はこの情報化社会での一つの大きな流れとして、まず「ユビキタス社会」を挙げる。現代および現代から向かう未来は個人に関するあらゆる情報が蓄積され、管理され、運用される社会であり、それは究極的には「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」コミュニケーションができる」という「ユビキタス社会」であると定義づけている。 しかし、この流れの中で人は本来その人本人が持っていた情報を「あちら側」に持っていかれたため、個人は「自己責任」と「判断性」が奪われてしまう。 そこで、そのふたつを補完するものが「宿命」という仕組みだ。上記のような社会というのは、つまりは「ある選択肢がシステムによってはじめからなかったことにされる=ある選択肢が開かれると同時に、別の可能性が選び得ないものになる」という現象が起きる社会である。当然ながら人間は一つだけしか示されていない選択肢を前にして「このまま進んでいいのだろうか」と悩むことになるだろう。それに対して「この選択肢でよかったんだ」後押しするのが「宿命」という考え方だ。「これは宿命だよ」と根拠がなくても後押しすれば、人はその選択肢の中に取り込まれる=「宿命」を受け入れる、「宿命の中で生きることを受け入れる」ことができる。 「宿命」はそこで最適に情報化されたデータを持って人の前に現れる。そして目の前にいる人に対してこう諭す。いまキミがいること、選ぼうとしていること、すべてが「宿命」であり、キミはその「宿命」を受け入れて生きていくほかないんだよ、と。そうやって人は「宿命」を受け入れる。そこは繭の中のように閉鎖的で、だけど安心できるような場所。何もしなくていい、これからは「宿命」が僕を運んでくれる――そんな幻想を「宿命」は僕らの前に見せてくる。 でも、その「宿命」をどうしても受け入れがたい場合、僕らはどうすべきなのだろう?どこへ向かって、何を探せばよいのだろう?「宿命を受け入れる」ということは、是なのか非なのか? そういったことを非常にシンボリックに書いているマンガを著者は挙げていて、それが古谷実の「ヒミズ」と「シガテラ」だ。「ヒミズ」は「自分は特別だと思っていたのに、特別ではないという『宿命』に悩まされ、自死という方法で宿命から逃れようとする」話だが、「シガテラ」は「自分にかかわる人間はみんな不幸になるという『宿命』の外へ飛び出そうとし、その結果として『オマケ』の人生を穏やかに暮らすことになる」といった対極にある話だ。また、西尾維新の小説「戯言シリーズ」(特にその最終盤)では、その小説の中で「『宿命』を受け入れることを断念することを『断念する』」ということによって、「宿命」の外へと生きていくことを決断する。 つまり、「宿命」から外に行くことはできるのだ。「断念を断念する」という手法を使って。だけど、「宿命」の外に何があるかは語られない。それは個人によって異なるからだ。「セカイ」を断ち切って「宿命」の外へ出るには、まず「宿命化されている」と自分の感じているような関係そのものをとらえ直し、自分が変わらなければ何も変わることがないからだ。その方法もまた、皮肉にも社会が盛んに言い立てる「自己責任」で見つけるよりほかないのだ。 では、宿命化する社会をとりあえず僕らはどのように生きていけばいいのか?僕らは「宿命」という決められた選択肢の中で生きているにもかかわらず、社会はそこから「オンリーワンになれ」「成長し続けろ」と、矛盾した言葉を絶えず言い続ける。耳をふさいで、そんなのできない、と叫べば社会は甘い言葉で「キミはもともと特別なオンリーワン」なのだと囁くだろう。そうやって僕らは「宿命」に押し込められていく。この状況を解決するにはただ一つ。「宿命的に自分は特別なのだ」と無理に思いこむこと、根拠なき断定を力強く行うこと。そんな無茶な方法で生産したモチベーション(著者の定義する「カーニヴァル」という現象)だけを頼りにその日を生きていくこと、それしかない。そうやってこの「宿命」から逃れるために考えて、いつか飛び越えた先にワーキングプアとか下流とかそんなものは別次元にある「希望」が見えてくるのだ。 現実を破らなければ希望も未来も見えてこない。僕らを取り巻く社会は、ユビキタスとバーチャルで得たデータベースを武器にして、まるで牧羊犬が羊の群れを追い込むように「宿命」の中に僕らを囲い込もうとしている。そうして囲っておいて「キミはもともと特別なオンリーワン」だと教え込んでいこうとしている。でもちょっと待って欲しい。選択肢は一つじゃない。ひょっとしたらそれは「宿命」でないかもしれない。そう思った人は、自分が思う「希望」への道が見えているはずだ。この小さな「セカイ」と飛び抜けた向こうにある、と。 だから、これが運命だとか、決まったことだとか、言わないで欲しい。昔見ていた「希望」は、すすけていても汚れを取り戻せばまた輝いて見える。いまの状況を観察してみよう。そうして、この時代にある「希望」を探してみよう。宿命の外に出たからと、孤独をおそれず、孤立をおそれず、ただ自分が見定めて信じる「希望」に向かえ。それが窮屈な情報社会の破り方だ。 ※参考文献とか 「文化系トークラジオ Life」 イラスト・中村祐介氏のHP「檸檬通り」 鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」 古谷実「ヒミズ」 古谷実「シガテラ」 西尾維新「ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い」
プロフィール
生まれ:1978年旭川市生まれ。 育ち:道内あちこち。その後横浜、川崎を経て再び札幌。 観戦暦:1996年・対日本電装戦が初応援。翌年より道外への進学に伴いアウェー中心に応援、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターンし、現在ホームゴール裏で応援中。 サッカー以外の趣味:音楽と活字。
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