人生に必要なことはだいたいゴール裏の芝生で学んだ

2007年05月24日

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文化系トークラジオ「Life」


「おまえ、本当にいいのか?」
と担任教師がちょっと怖い目つきで確認してきたけど、僕は無言で頷いた。こんなことなんてめったにないことだろうけど、僕はそれで良かったのだ。

センター試験が終わって一息ついた頃だったと思う。その冬の日に僕が断ったのは、卒業間近のお約束こと卒業アルバムの購入申し込みだった。卒業アルバムを断るやつなんて滅多にいないだろう。現に僕の所属していたクラスでは僕以外いなかった。350人以上いたであろう3年生全体でも僕以外の誰かが買わなかったかも知れないが、それは正確にはわからない。




ともあれ、なぜ僕が断ったか。
結局はクラスに思い入れがなかった、と言ってしまえばそれだけだった。
そもそも高校に入学した時からクラスにはなじめない毎日だった。もっとも、中学卒業のタイミングで室蘭から札幌に引っ越してきたので中学時代の見知った友人がいないというハンデはあったのだが、「友達なんていなくてもいい、ひとりでも生きていける」という間違った諦念を抱えていたので、それを自分から曲げてしまうのは当時の僕にとっては受け入れがたいことだった。要はガンコでひねくれていたのだ。
そんなガンコな性格をしている以上、高校での学校社会では友達と呼べる人間も想い出も少なかった。女子を誘ってお花見に行くだとか、クラスみんなでジンギスカンパーティーをしようだとか、ほいほいとイベントを企画したり実行したりしているフットワークの軽いクラスメイトにはついて行けなかった。本能的に「ああ、こいつらとはウマが合わないんだろうな」という予感はしていたけど、それは予感以上の孤立となって学校生活に襲いかかってきた。今これを書いていてどんどんと黒歴史が頭の中で渦を巻き始めているんだけど、それはこのエントリの主旨とはかなり縁遠くなってしまうので割愛。
高校時代だけにあらず、僕は中学時代(このときは卒業アルバムは買った。念のため)から友達は少なかったし、もっと言えば幼い頃から「ひとりでいるのが好き」だった。部活(剣道部)には所属していたもののけっこうのんべんだらりとした毎日だったし、部活でもしゃべる人いないし、同じ部活に所属していた弟の方が強かったし。そんな感じで、僕はそのころからひとりで楽しめるモノ、詳しく言えば音楽(テクノ)と本と深夜ラジオにのめりこむ生活だった。

それでも中学時代には救いがあって、週に3回バスで30分かけて通う進学塾は面白かった。授業自体もクラスに集まる人間も刺激的だったし、なによりそこでは「進学校に合格する」という目標を共有できたから、というのもある。でもそうした縁は僕が引っ越したことで切れてしまい、自主的に友人関係を築くことにはいささか億劫で面倒な気持ちになってしまった。もういいやと諦めていたその矢先、クラスメイトの付き添いで入部した弓道部があまりにもしっくりきたので驚いた。どうにも一癖ある先輩と同級生が(特に男子に)多く、そのいびつっぷりがうまく自分のいびつさと馴染んでしまった。そんなわけで放課後は延々と部室に居座り続けることになり、ダラダラと雑談しながら夜遅くまで(そして練習はろくにしないで)過ごしたことを憶えている。弓道部の部室は独立して建っていたので(矢が飛んで危ないから)居心地もよかったし、格好のサボりスポットでもあった。ヒマでヒマでしょうがない学校祭のときに、サボりに行った別の場所でほかの部員とばったり、なんてこともあった。

高校を卒業して10年以上も経った今、同じクラスだった人とはほとんど交流はしていない。だけど、部活の同期や後輩とは卒業後もずっとつながりがあって(盆暮れに飲みに行くとか)、mixiでコミュニティまで作っている。それだけ「濃い」そして「安心できる」場所だったのだ。そういえば一つ上の先輩が卒業したとき、部室にあった日誌に「私にとって部活は精神安定剤のようなものだった」と書いていて、それに僕はどうしようもできないくらい共感した。永遠であるかのように繰り返される学校生活は退屈で、部室が唯一の場所だった。クラスの中では陸にあがった魚のように苦しかったけど、部室では柔らかな光のさす水族館で泳ぐように過ごすこともできた。
でも、結局部活という居場所であってもそれは「学校」というくくりの中でしかないわけで、部室も所詮は大海ではなく、水族館の水槽もしくは養殖用のいけすなんじゃないか、ということを部活を引退する間際に思ってしまった。そう思ってしまったが最後、僕は部室にいることにさえ閉塞感を憶えていた。僕が僕であっても誰にも文句をいわれない場所、もっと広くて夢中になれる場所、そういうのを探していた。そうして出会ったのが、厚別競技場のゴール裏だった。

初めて行った厚別のゴール裏はまだ芝生で、サポーターの数だってずっと少なかった頃の話だ。まだ一条館の端にあった丸井のオフィシャルショップでTシャツを買って、それを着て出かけた。ゴール裏の真ん中にはいるのは正直言って勇気がいった。TVでJリーグの中継を見るたびに絶え間なく聞こえる大音量の歌とコールの嵐を見るにつけ、「ゴール裏は体育会系の人ばかりで恐い場所」だとずっと一方的に思いこんでいたフシがあったので、タスキを出して陣取っている一団に入るのをちょっと躊躇った。ちょっと離れたところでお弁当と敷物を広げている家族連れとは空気の断層が、流れる空気の濃さが見えるようで「自分なんかが入っていいのだろうか」と一瞬思ったけれど、その時はなぜだか座ってのんびり見ていようとは思わなかった。ただとにかく、チームのために応援をしたかった。
初めて声を出したときのことを憶えている。翌日には声がカスカスになってしまっていたのも憶えている。膝で泥臭く押し込んだ川合のVゴールも憶えている。でもいちばん憶えているのはもっと前に出て応援したいと思ったことで、「柵に登ってみなよ」とある人に背中を押された勢いで柵に登って必死に声を出し続けていたことだ。ただただチームに勝って欲しくて声を枯らしたことだ。Vゴールの瞬間、歓喜が炸裂して僕の体のなかを爆風のように通り過ぎて行って、あらゆる負の感情を薙ぎ倒していったことだ。そして厚別のゴール裏から初めて見上げた空はも、あらゆるものを薙ぎ倒したように青い空をしていた。学校の外にはこんな世界があっただなんて、17歳の僕は思っても見なかった。
 その後続けて厚別のゴール裏に行くようになり、レプリカも買い(半袖は売り切れていたが、そのときどうしても手に入れたくて長袖を買った)、そうして周囲の幾人かと知り合いになることができた。最初に仲良くしてくれたのは「柵に登っちゃえよ」と僕を煽った人で、10歳近く年が離れていたけど自然と溶け込むことができた。ゴール裏で知り合う人たちはまず僕より年上だったけどこれ以上ないくらいにすんなりと馴染むことができた。そのあとゴール裏での友人も増えていき、それは横浜の大学に進学したことでアウェイのサポーターとなった後でも全く同じだった。笠松からの帰りの電車でさっき知り合ったばかりの人と話し込み、愛鷹でスタメンとベンチメンバーを合わせたよりも少ないサポーターで応援したり、刈谷で突然タイコを持って応援に混ざってきた人に駅まで送ってもらったり、話したり、遊んだり、言い争いになったり、一緒に他のチームを見に行ったり。そうやって遠征と応援を繰り返していると、相手チームのサポーターとも仲良くなったりすることもあった。ゴール裏は体育会系なんかではなくファナティックと呼ぶにふさわしい雰囲気ではあったがその裏にあるものは体育会系のノリではなく、むしろ文化系の思考。サッカーから派生した、もしくは想起される音楽や文学、理論、それ以外のマニアックな話のほうが多かった。応援を通じてカルチャーを理解する、そういうことが多々あった。
そういうわけで僕の「友達」は常にどこかのスタジアムのゴール裏にいて、そして人生で必要なたいていのことはゴール裏で学んだ。同い年の人にはまず出会わなくて、みんな年上だったからなおさらだったのかもしれない。そこでは面倒くさいと思うようなしきたりもあったけれどそれ以上に僕が得るものは大きかったし、学校や職場という「閉じた」空間では決して出会うことのない友達と、濃密な空気の流れる時間を共有することができた。そして、今でも友達でいてくれている人たちの多くは、いつかのあの日、どこかのスタジアムで、一緒に応援していた人たちだ。そして、今でも交流を持ってくれている友達に感謝している。離れていった人たちも、僕になにがしかの教訓と示唆を与えてくれた。

そう考えてみると、友達っていうのは「閉じて」いたらできないものなんだ、と思う。学校や会社といった「閉じた」世界にいてただ孤立しているより、ほんのちょっとだけでいいから「開いて」みれば、窓から新鮮な空気が流れ込んでくるように人生が濃密になり、そして広がっていくのではないだろうか。だから「友達」というのは自分で作るものでもあり、自分が広げた向こうにある「場所」が作るものでもある。閉じたままでいても閉じた中での友人関係というのはあるだろうが、開けた先の「場所」で出会う友達は誰よりも大事な人になる、そんな可能性が広がっている。だから今「閉じて」しまっている人は針先くらいの大きさでいい、それくらいの穴でいいから、今閉じこもっている場所のどこかに穴を「開けて」みよう。下に穴を開けたならば土の匂いが、上に開けたなら小さく青く光る青空の一片が、横に開けたなら、これからたぶん友達になるであろう誰かの姿が見えるはずだ。そのただひとつ開けた先が、僕にとっては「ゴール裏」だった、ということなのだ。そこから僕がどのように開いていって、どのように「友達」ができたのか、というのは前述の通り。だから後は自分に必要なのは「穴を開けるささやかな勇気」そして「自分の世界を開く勇気」。自分のいちばんの拠り所がネットであっても、閉鎖的な学校社会であっても、「行動」を起こすこと。ネットで騒ぐだけじゃなく、オフをやってみるのもいい。僕がゴール裏に行ったようにリアルの世界で自分から出向いていって言葉を交わすのだってかまわない。自分が動かなければ、新たな「場所」は生まれることはないのだから。そういった、多少なりとも「外へ出てみる」「外を見てみる」ことがないと、そうして人と人とがリアルに存在していることをその眼で確認しないと、対話をしてみないと、本当の意味での「友達」というのはできる可能性が低くなるんじゃないか、と思う。

だから今、「閉じている」ひとへ。
ほんのちょっとだけ「開いて」みよう。少しの勇気でいいから。
もし君にもっと勇気があるのなら、その「開いた」先へ思い切って飛び込んでいこう。
きっと、その向こう側には、自分が自分で居られることをもっと満喫できて、そこには新たな友達が待っているはずなのだから。
 
今回のエントリは、「文化系トークラジオ Life」で4月22日に放送されたテーマ「友達」に触発されて書いたものです。
最新回のテーマは「文化系と貧乏」。これも思うところがいろいろがあるので、しばらく経ってから書いてみようと思います。
その前に、なぜ「ゴール裏は文化系なのか?」ということも自分なりに説明をしておかなければならないな、とも。