天国のフットボール

2007年07月10日

6月からこのかた体調を崩しっぱなしで、5月末に引いた風邪が扁桃腺に巣を張って喉の痛みで水も飲めないくらいの日々が何日か続いた。ラジオに出る予定があったので(三角山放送局のあの番組です)抗生物質で何とかして1時間の生放送を乗り切ったら痛みが再発してまた別の抗生物質を飲むことになってしまい、それを治すのに6月をまるまる使ってしまった。で、7月に入ってからの自分はだるさやら微熱やら頭痛やらといった不定愁訴に悩まされている。これは毎年のこと。
自分は7月生まれなんだけど、小さいときから誕生日近辺にかならず体調を崩していた。逆に誕生日前後は絶好調というひとも見かけることがあって、自分の「誕生日前後は調子悪い説」がこの歳になっても続いているのはそういう星回りだからなんだろうとあきらめている。誕生日を存分に楽しめないのは少し寂しいけど、それでもフットボールを見ている時だけはなんとか気を紛らわすことができた。


以前に「死んだら灰は厚別か宮の沢に撒いて欲しい」と書いた。
やっぱりあの地は自分にとってはそれほどの思いを持った故郷、っていうか「自分が生きていることを実感した場所」だよなあと思う。18歳のあの頃、フットボールがそばになかったらと思うと本当に恐ろしい気持ちになる。笑い話ではない。当時の自分は切実に何かと深く関わることを必要としていたし、熱狂をぶち撒ける場所を必要としていたし、学校社会ではなくもっと開かれた場所を必要としていた。そういう鬱屈した何もかもなんて思春期特有のアレだと言ってしまえば元も子もないのだけれど。そしてあのときにフットボールに出会えたことを感謝しているし、ずっと感謝し続けるのだろう。他のスポーツではなく、フットボールであったことにも。

フットボールは、攻めることがはっきりとわかりやすいスポーツだ。そして、攻めることの多様性については何よりもずば抜けているスポーツでもあると思う(もちろん、すべてのスポーツは「攻めて」「勝つ」ために存在するのだけど)。速攻、遅攻、セットプレー、中央突破、サイドアタックに古いところではキック&ラッシュ、システム、フォーメーション、ありとあらゆる名前のつけられた戦術と、名前のつけようもないほどの膨大なプレーの数と、名前ではとうてい表すことなどできない「気持ち」というファクターが組み合わされてゴールが生まれる。すべてのゴールはありとあらゆる事象の詰まったひとつの奇跡で、自分とみんなは試合のたびになにがしかの奇跡を眼にしていることになる。テレビが片手間に流す三流のマジックショーにかじりつくより、スタジアムで美しくて泥臭くもあるゴールと、そこに至る軌跡を見る方がよっぽどいい。そしてそのために声を嗄らすほうが、人生においてずっと幸せだと、そう思っている。そういったシンプルな「攻める」ことを眼に見ること、それをまっすぐに目指して声を出して後押しすることはあの混乱の時期にあった自分にとってはなによりも重要だった。ごちゃごちゃに絡まった自意識を解きほぐしてくれたのは紛れもなくフットボールだった。そんなことがあったからあの場所に遺灰を撒いてくれと、そう思っている。それくらいの感謝と畏敬を持っている。

だけど最近の調子が悪い僕はこうも考えるのだ。
そんなにフットボールを人生になぞらえて考えるのは、生きることとシンクロさせて考えるのは、死を直視したくないからじゃないだろうかって。死んだあと、天国にフットボールが存在するのかというのは知らない。死んだ人が生き返って教えてくれるわけでもない。日常生活は想像できても、フットボールなんてあるかどうか想像もつきそうにないからこそ熱狂しているのじゃないだろうかと考えるもうひとりの自分がいる。うーん、自分で思うよりよっぽど自分は生に執着しているんだろうな。でもまあ、死んだ後の楽しみが増えるのか。天国のフットボールが存在するのかどうか、っていう疑問を解決する楽しみが。
とりあえずここにあることはぜんぶリアルで、生きているからこそ見られたり味わえたりするものごとであるということは知っている。自分は生きる意欲に溢れてキラキラしているような性格はしていないけれど、それなりに人生は悲しくも面白いと思っているのだ。自分のまわりにめぐらされているリアルとどうつきあうのかということと、自分の手でリアルを変えていくことの楽しみを。


post by ishimori

23:19

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