2006年08月31日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月15日(土) 第9日目 いよいよ残すところ後2日。自分としてはもう1ヶ月以上も滞在しているように感じるが、選手たちはそうも思っていないらしい。慣れたせいか快適でずっと残っていたいような話をしている。それぞれのホストファミリーとの会話もしっかりしている。頼もしい。 今日はアメリカ・フィラデルフィアのFCデルコ戦。9時にホテルを出発。昨日と同じ大学サッカー場での試合となった。この試合も親善試合だから入れ替えを自由にしようという提案が事前にあり、従うことにした。相手はわりと手強い。相手側も我々が日本代表のチームであると思い真剣にあたってきた。結果はスコアレスドローとなった。 コンサドーレ札幌(札幌) 2 - 2 FCデルコ(フィラデルフィア) 午後はまた自由時間をたっぷり与えられ、ホテルのプールで過ごす者、ホテル近くのウオルマートで最後の買い物をする者等、夕方まで各自自由に時を過ごした。 夜はこの遠征で最後の夕食となるので、これもまた日本人の経営者でない日本食レストランへ行くことにした。やきとり、さしみ、てんぷら等々何でもあるが全てバイキング形式となっていた。本格的な日本食というわけにはいかなかったが、それでもミゲールさんとジョージさんは大満足していた。
2006年08月31日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月14日(金) 第8日目 今日からフレンドリーマッチが始まる。第1回戦だ。選手たちはもうすっかり現地に馴染んでリラックスしているようにみえる。試合会場も今までのビッグなサッカーグランドと違い大学のサッカー場になった。ピザハットパークが出来るまではここが会場となっていたらしい。ここもとてつもなく大きなフィールドだった。サッカーグランドが15面はあるだろう。ただフィールドの芝はあまり良いコンディションではなく時折禿げている。グランドも平らではなくホーム側からバック側のタッチラインが見えない。つまり馬の背のようにそりあがっているのだ。それでもちゃんと公式審判員がついた公式試合なのだ。 この日はコスタリカのサプリサとのゲームだった。体つきは大きいがプレーは荒い。選手たちは相手のパスを通すことを許さず、我々の一方的な攻撃によって進められた試合だった。どうやら我がチームは外国人選手との戦い方をつかんできたらしい。いつの間にか選手交代は何度でも何人でも自由となっていた。我がY監督は厳しく抗議したが、フレンドリーマッチなだけにおかまいなしだった。 コンサドーレ札幌(札幌) 4 - 1 サプリサ(コスタリカ) 試合後、選手たちのホストファミリーが一団となってダラスのロデオを見学させてくれるというので、残りの選手一部とコーチたちは、また別の街のショッピングへいくことになった。 この日もまた英語で面白いやりとりがあった。ホテルを出発する際、Fコーチだったか、ジョージに「ちょっと、待って。忘れ物しちゃった。取ってくるから。」というと、「オーケー。アンモニアタイム。」というのだ。自分もちょっとそう聞こえた。Fコーチは「エッ、アンモニアタイム?ノートイレ。」あとでレオさんにじっくりとこのいきさつを話し解説してもらった。答えはこうだ。「I’m on your time.」が、「アンモニアタイム」に聞こえたのだ。「どうぞ、お好きなように」という意味だって。なるほど、また一つ勉強になった。
2006年08月30日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月13日(木) 第7日目 今日は公式予定が全くない。その傍ら、予選敗退をしたチームによって行われるフレンドリーマッチの受付が行われていた。ミゲールさんが我々の実力にあったチームを探してくれた。明日第1日目はコスタリカのサプリサU18、第2日目はフィラデルフィアのFCデルコ、そして第3日目は地元ダラスのノーステキサスU17に決まった。 午前はボールボーイにとっては恐怖のサッカー場での練習だ。少しは健康のためにと思い、選手達の年頃の自分を思い出し高校時代は野球をし,大学では庭球部だった多少の自信も手伝って、今日は一人でグランドを5周しようと張り切ってみたが、2周で挫折した。並みの広さではない。午後はショッピングにいく予定となっており、向かう途中スナック系のレストランに入り昼食を取った。誰(ジョージさんかミゲールさんか)が選んだのか、バニーガールがサービスするちょっと場違いのスポーツバーだった。選手たちはまだ若いとはいえ目が違った。もちろんコーチ陣もだ。選手たちはこの際と思ったのか英会話の特訓を始めた。やはり上達はこういうところからが一番早い。帰り際にはそれぞれが彼女たちと記念写真をばっちり撮り、バスに乗り込んだ。 ダラス最大のアウトレットショッピングはダラス空港の西側郊外にあった。ジョージさんはホテルのフロントでルートを聞いて出かけたのだが、40分で着く予定が1時間経っても着かない。ミゲールさんが「もしかしたら・・・」と言ったとたんガソリンスタンドに入った。ガス欠かと思ったものの、スタンドを素通りしてコンビニに飛び込んだ。やはり道を聞いたらしい。どうやら我々は空港の東側のフリーウエイをひた走っていたようだ。そこから目的地までさらに30分かかった。到着すると前には地上3階建ての大きなショッピングアーケードがそびえ立っていた。そこで約3時間のフリータイムとなった。何を買うあてもなく一人2周した。ランニングより疲れた。皆それぞれたくさんの土産を手に、集合場所へ集まった。 その日は、何事もなく終わった。
2006年08月30日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月12日(水) 第6日目 いよいよ予選リーグ最終戦。今のところ2戦2敗。今日相手となるイギリスのブラックバーン・ロバーツも2敗しているらしい。最下位争いとなる。なんとか一矢を報いたい。 11時にホテルを出発。ピザハットパークのピッチサイドでスナックを食べてから14時のキックオフに臨んだ。今日はとりわけ動きが良い。プレスもよくかかっている。セカンドボールの拾いも良くパスが通る。相手チームのパスワークはすべて上に浮かせ、ドリブルに切れ味がみられない。逆に我がチームはグラウンダーを利用し巧みに足もとのパスを繰り広げる。この違いがまず我々の先取点に繋がった。前半は1点リードのまま折り返し後半に入った。後半も変わらず攻め続け1点ゲット。残り数分のところで1点返されたが、みごと初の勝利をもたらした。皆大喜びでグランドは湧き上がった。ミゲールさんも飛んできて、「よくやった。イギリスの選手はドリブルとショートパスに弱い。まさにその弱点をついた良いサッカーだった。」わかっていたなら最初から教えてくれればいいのにと思ったが、うちのコーチではないのでこちらから質問しないと答えないということがわかった。後で我がチームの総評をしてくれたが、さすがプロだと思う観察力だった。久しぶりに良い気持ちでホテルに戻り、選手たちもホストファミリーが迎えにくるまでホテルのプールでくつろいだ。 コンサドーレ札幌(札幌) 2-1 ブラックバーン・ロバーツ(イギリス) 夕食はレストランにてブラジル料理ときた。ミゲ-ルさんの郷土料理だ。さすがにうまかった。またミゲ-ルさんの講習が始まった。今日で大会も終わり概ね総括だ。彼いわく、まだ20歳未満の選手は1才違うだけで体力に大きな差がつく、イギリスの選手はドリブルとショートパスに弱い、メキシコと日本はサッカースタイルが似ている、日本の選手は速いが球捌きが不得意、来年も是非国内で優勝して来て欲しい、等と言っていた。すべてに通じることがありなかなか参考になった。
2006年08月28日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月11日(火) 第5日目 今日は我々スーパーグループの試合がない日である。初めてのオフだ。午前中に軽い練習をして、午後は観光というスケジュールになった。観光といってもダラスのJ.F.ケネディ博物館しかないのであるが。まずはまた2台のバンに分乗、ジョージさんとミゲールさんの運転で出発だ。今日はまた練習会場が違うらしく、地元のクラブチームが使うサッカー場を使わせて頂いた。この練習場は左側にも右側にも道路が行き交う、比較的町の中心部に位置していたが、やはりフェンスがなかった。まったく、普段危険なことは起きないのだろうか。そこはフルピッチのグランドが5面はあったが、芝は誉められたものではなかった。一番コンディションの良いピッチを選んで練習が始まった。 炎天下のボール拾いは忙しく、きつい。ボール拾い係りは練習中には主立った使命がない団長とレオさんしかいない。特にゴールキーパーの練習はプレーヤーがゴールに向かってバンバン打ち、キーパーはそれを跳ね返すので必ずボールは飛び出す。二人で必死に追いかけるがどうしてもボールがコロコロと道路に飛び出してしまう。車が走る中まさに命がけである。2回ぐらい急停車をくらった。基礎練習から始まった練習を終え、最後のメニューである10分の紅白試合が始まった。これが終われば昼食。今回初の日本食が食べられる。そろそろ全員日本食に飢えていたのだ。 突然だった。大きな悲鳴がピッチの中央から聞こえた。一人の選手が倒れ込んでいる。特段ひどくぶつかりあったわけではない。おそらく交わそうとして足でもひねったのか、大声で「痛い、痛い」と叫んだ。どうやらただ事ではなさそうだ。すぐにMトレーナーが氷で膝のあたりをぐるぐる巻きに湿布する。よほど痛いのか、本人は「すみません。すみません。」と言いながら顔をゆがめて傷みをこらえている。靭帯を切ったのだろうか。いずれにせよ病院に連れて行かねばならず、本部に連絡、病院の手配をし、患部を氷で冷やし、それでもまず昼食を取るレストランに向かった。けがをした選手は仲間の肩で支えてもらいながら全員レストランへ向かい、皆の表情も暗いままおにぎり、てんぷら、みそ汁等をたっぷり食べた。本人も少し落ち着いてきたらしく、にこやかになってきた。昼食後レオさんが本部のスタッフに出迎えをお願いし、病院へ直行した。 我々は複雑な気持ちになりながら、ダラス市内のJ.F.ケネディ博物館へと向かった。今日もとても熱い日で、近くの駐車場から狙撃したとされる古い倉庫のようなビルまで歩くだけも長く感じた。入り口で日本語のイヤホンを貰い、各自エレベーターで6階の狙撃現場へ上がる。そこから日本語案内の音声を聞きながらケネディ氏の生い立ち、暗殺、犯人逮捕、謎の黒幕の状況証拠まで、きめ細かく約30分間見学した。自分はこの出来事をまさに日本で経験しているだけに、歴史の重みをしかと受け止められるが、選手たちは果たしてどう感じたのであろうか。当然彼らはまだ生まれていないわけで、良く理解できなかったかもしれない。 選手たちは我々歴史体験者よりもサッサと早く出て、土産物を買い込んでいた。外に出ると炎天下の中ケネディ氏がちょうど狙撃された場所へ案内される。現在もちゃんとした道路として使われているが、狙撃されたとする場所にポイントマークが描かれていた。そこをバックに記念写真を撮る観光客で道路はごった返し、しばしば車の渋滞が起こる。単なる街の風景だが、ここから歴史が大きく変動したと思うと、来た意味は多いにあったのかもしれない。 ホテルに戻って、選手たちは各自ホストファミリーに分かれ帰っていくが、けがをした選手の状況がまだ一向に判らない。病院に行ったままだ。当然レオさんも戻っていなかった。彼らが戻ってくるまで夕食を取らず待つことにした。20時半ごろレオさんがようやく戻ってきた。靭帯の損傷らしいが詳しくは帰国しないとわからないらしい。本人は松葉杖をついてホストファミリーの元へ帰ったそうだ。ホストファミリーもびっくりしていたが、松葉杖を買ってくれ、その後もずっと病院に付き添ってくれたと聞いた。診察には6時間程待たされたが、結局たったの3分で診察が終わったとか。しかも600ドルもかかったそうで、いかにアメリカの医療費は高いか目の辺りにしてしまった。幸い患部の腫れは治まり、どうやら大きな症状ではなさそうだ。まずまずホッとした。 今夜も遅い夕食となった。車で近くを走っていると日本語の「神戸ステーキ」という看板が気になった。早速レストランに入ってみると日本人はいない。日本人的な顔をしていても全然日本語を話せない。どうやら韓国人らしい。英語のみが通じる日本食レストランだった。しかしFコーチはすごい。良く食べる。以後彼は我々の残りを引き受けてくれるようになった。
2006年08月27日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月10日(月) 第4日目 そろそろ選手も我々スタッフも日常の生活にも慣れてきた。スタッフは各自で朝食を取ることになり、10時には昼食のスナックを準備し、バス2台で出発した。今日は1正午から第2戦、対アイントラフト・フランクフルト(ドイツ)との試合だ。11時前には会場のピザハットパークに到着、軽く昼食を取り、予定通り正午にキックオフされた。このチームも大型の選手を揃え、テクニシャンの揃えているチームだ。ボールを左右に振りサイドよりポンポンとゴールめがけて放り込んでくる。高さがあるだけにセカンドボールのコントロールも正確で、残念ながら完敗。力の差をまざまざと見せつけられた試合内容だった。 コンサドーレ札幌(札幌)0-4 アイントラフト・フランクフルト(ドイツ) 選手たちも大会3日目になるとある程度の慣れと時差ボケに悩まされ、疲労もピークに達する。いわゆるプレスが弱い。出来ても跳ね飛ばされ転ぶ。チームの一番の課題がここにあった。これをどう打開するか。チャンスはないのか。世界の壁は厚い。 敗して早々今日は早めに切り上げ、ショッピングの下見ということで、ダラスで有名な5番街に行くことにした。どこのショッピングアーケードもやたら広い。見て歩くだけで疲れてしまう。まだまだ買い物の気分ではないので、ここも皆さっさと切り上げた。 帰りのバスの中での会話がまた面白かった。そう、出発前に聞いていたとおり、ミゲ-ルさんは運転中、話が夢中になると助手席のほうを向いてハンドルから手を離して身振り手振りで話してくる。ウィンカーもつけっぱなし。「ミゲ-ル、ウィンカー。」「オー、サンキュウ-。」ニコッとしながらもこちらは気が気でなかった。挙げ句の果ての落ちはホテル周辺でこんな話から始まった。ホテル内のサウナは混浴であり、相当自信がない限り日本人の男性は皆圧倒されるそうだ。しかも面白いことには女性専用ではなく男性専用のサウナがあるという。そんな話を聞いているうちに右折するのを忘れてとうとうホテルの周辺を2周するハメに。「オー、マイゴッド!」それ以降、ミゲールさんには帰りにホテルへ近づいたところで「ミゲ-ル。ところでホテルのサウナはどうなの?」と聞くと、「もう。その手にはのらないよ。」 選手たちは迎えに来てくれたホストファミリーの家へそのまま帰っていき、我々スタッフはレオさんの会社持ちで韓国式焼き肉料理に連れて行って頂くことになった。ダラスで一番といわれている焼肉屋はあいにく定休日で、韓国街といわれる街の焼き肉屋へたどり着き、またミゲ-ルさんのお話を中心とした夕食会が始まった。
2006年08月25日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月9日(日) 第3日目(2/2) 試合終了後、そのままメインスタジアムで開会式が始まる。全員着替えて開会式場であるピザハットパークスタジアムに入った。このスタジアムがまた驚きだった。一口で言えば巨大な穴の中のスタジアムというべきか。外見はただ,3階建て程の普通の建物に見えたが、入口から中に入ると足元から観客スタンドが下に降りていく形で巨大アリーナが中央の1面のみのフィールドを囲んでいる。スタンドは2万人収容だという。したがって外からみると大きく立ちはだかっているいわゆる巨大なスタジアムには見えない。随分シンプルな感じがする。椅子は札幌ドームと同じような肘掛の固定椅子だった。 まだ沈まない太陽の日が差すなか、午後5時から音楽とともに入場行進が始まった。各チームの前に地元の少女たちがプラカードを持ち、チームごとに紹介される。スーパーグループは最年長グループなので比較的最初の方に入場していた。ところであの竿はどうしたのだろう。ふと思った。成田空港で置き去りにされた竿。到着の翌日、アメリカン航空から無事ホテルへ届けられたらしい。堂々の入場行進だった。皆明るい顔している。大きく手を振りながら歩いている。ここではかわいい少年に見える。そしてとにかく入場行進は長い。選手が多い。U12までの選手全員が揃うまで1時間以上延々と行進は続いた。 そしてとうとうピッチ内に4千人全員が揃うと、開会宣言もなくあっという間に解散だった。スタンドに1万人はいただろうか。お目当ては19時から始まるスーパーグループU19のAグループ、マンチェスター・ユナイテッドU19対レアル・マドリッドU19の試合だ。今大会のビッグイベントマッチというところか。これを目当てに大勢の観客が集まっていた。我々はどっちを応援しようと思うまでもなく、試合観戦を前半で切り上げた。内容的にはそれほど参考となるプレーはなく、良い試合とはあまり思えなかった。(後で聞けばマンUが勝ったそうだ。) ところでさすがピザハットスタジアムだけにピザしか売っていない。飲み物もソフトドリンクのみ。ここでもビールが売られていないのには驚いた。アルコール類は一切売っていない。なんせここは禁酒王国なのだ。ホテルに戻ってからもう一度夕食を取ることにした。既に午後10時を過ぎていたので、またパスタしかなかった。ホテルのレストランで頼んだたった一杯のグラスビールは最高にうまかった。 またまたミゲールさんの2回目のサッカー講義が始まった。サッカーの公式審判員もしたことがあるそうだ。ちょうど、我がトップチームのフッキ選手がレッドカードで退場となったこと等、御難続きだったのでどうしたらよいか相談した。彼いわく、まず審判と仲良くなること。普段から話し掛け、挨拶をきちんとする。要するに印象が良ければ、迷った時にはなかなかファールの判定を本人にしづらいそうだ。話も盛り上がっていたが時はあと1時間ほどで3日目の今日も終わろうとしていた。解散後、なんと彼はその後サウナにいったとか。
2006年08月22日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月9日(日) 第3日目(1/2) いよいよ大会本番の日だ。午前9時半に全員集合。体重検査。各自面談をし、コンディションをみる。今日は14時からのキックオフなので、午前11時からホテル周辺を散歩した。今日も熱い。結構な距離を歩いた。郊外型のホテルなだけに緑も多く非常に気持ち良く歩けた。その時の話だった。ある選手が昨日練習していたらゴールの近くで紙幣35ドル拾ったというのだ。実は夕べホテルに戻って着替えをしているときに、自分の小銭、つまりジャージに入れていた紙幣がなくなっているのに気づいた。どこを探してもない。もしかしたらルームメードにやられたか・・・と思いつつ諦めていたのだ。それが今、めったに動かさない体を思い切り動かしていたものだから、その時にジャージのポケットから落ちたのだと判明した。選手たちの嬉しそうな会話を聞けば、最後までそれが自分のものだと言い出せず、じっと我慢して諦めた。皆は早めの昼食をホテルのハンバーガーでまかなった。 正午、ホテルを出発。会場まで道に迷わないことを運転役のジョージさんに祈る。フリーウエイを通り約40分、サバンナ特有の殺伐とした荒野の中に忽然とサッカーパークが現れた。2万人収容のピザハットパークスタジアム、17面のサッカー場(6面天然芝、11面人工芝)だ。とにかくでかい。しかしまだ歴史が浅いせいか、立ち木も小さく日陰をとれるところが全くない。まさにこれは火傷を覚悟せざるを得ないところだった。また、ここも周囲に1メートル強の高さのフェンスがあるのみで各コート間の金網は全くない。試合中でもボンボンと別コートのボールが入ってくる。 周りの施設を一回りしてようやく我々の試合会場である7番コートにたどり着いた。すでに対戦相手のメキシコ代表サントスはウオーミングアップをしていた。昨年この大会のスーパーグループで準優勝をしたチームだ。とにかく体格が良い。見渡す限りの選手と比べてみれば、うちのチームはとても小柄だ。確かにこのスーパーグループはカテゴリーでいえばU19。今年の8月1日まで19歳であれば良い。いわば我がトップチームに所属しているフッキ選手みたいなのがゴロゴロしているのだ。我々は、この大会中に18歳の誕生日を迎える選手が最年長。えらいところに来たものだ。これは玉砕しかない。世界の胸を借りることにしよう。 ひと通りの儀式を終えて、ちょうど14時00分キックオフ。日曜日でもあり各ホームステイの家族がたくさん応援に駆けつけてくれていた。もうすでに家族の一人と見られていて、名前も皆ファーストネームで呼んでいる。試合はしばらくは模様眺めで進んでいた。意外と好戦している。突然セットプレーから得点を入れた。左45度から足でボレーシュート。見事に決まった。これはいける。と思ったらつかの間、相手側が焦ったのであろう。相手側が突然目を覚ましたように怒涛の攻撃を仕掛けてきた。5点も入れられてしまった。実力的には遙かに相手が上だと認めざるを得ない。いや、最初にしては良くがんばったと思う。まだ時差ボケもあるのか、この熱いところでは最後は誉めてやるしかない。次の試合に期することにした。 サントス・ラグ-ナ(メキシコ)5 - 1 コンサドーレ札幌(札幌)
2006年08月21日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月8日(土) 第2日目(2/2) やっとの思いで練習場についた。きつく乾燥し、日差しは強く、我々の体をじりじりと容赦なく照り付けてくる。初めての練習場。公園の一角と言われていたのであまり期待をしていなかったが、予想通りであった。周りは森に囲まれており、ゴールポストはあるがフェンスがない。これは球拾いが大変だ。選手たちはグランドの片隅で着替え、いよいよトレーニングが始まる。選手たちが着替える間、スタッフは忙しい。グランドの硬さ、芝生の生え具合等必ず事前にチェックをする。この時もサッカーシューズではひざを痛めるとかで通常のシューズで対応することにした。 最初のジョギングということで私もお供することにした。公園の散歩道をひた走る。5分走ったところで引き離された。だめだ。ついていけない。後で聞けばFコーチは私がついてきていると判ってわざとスピードを上げたらしい。やがてパスワークの練習が始まった。ゴールキーパーは別メニューで練習だ。私はひたすらボール拾いを手伝った。なにしろフェンスがないだけに重労働だ。ボールが森の中へ入ればトゲにやられるし、結構な汗をかいた。 やがて一人の選手がお腹を押さえてこちらに走ってくる。「すみません。ティッシュペーパーありませんか。お腹が痛いんですけど。」といっても近くにトイレはない。「しょうがねーなー。じゃこれもって森の中へ入れ。」「はい!」と一目散に入っていった。 しばらくすると、すっきりした顔で出てきて練習へ戻っていった。後で聞けば、森の中に小さな小川が流れており、立派な水洗便所となったとか。下流では現地の子供たちが水遊びしていたのも知らずに。 選手たちは軽く一汗をかけただろうか。2時間程の練習を終え、着替えてからまたバスでホテルに戻った。選手たちは多少自由時間が出来たので近くのウオルマートでショッピングをしたりして、出迎えにきたホストファミリーに連れられて帰っていった。今晩は各家庭で歓迎会を開いてくれるらしい。 その日の夜はスタッフの最初のイベント。ウエルカムパーテイーが開かれる。どんな内容なのかさっぱりわからず取り敢えず正装して臨んだ。一階の大ホールで生伴奏が流れている。世界各国から来た人たちでホールは埋め尽くされ、そのほとんどの顔はすでに真っ黒に日焼けをしている。ちょうど日本からもJFAから派遣された公式審判員もお目にかかることができ、スタッフとミゲ-ルさん、ジョージさんを囲んで話は弾んだ。実は今回、もしや日本を代表としてスピーチをさせられるかもと思い、英語の挨拶を用意していたのだ。“It is my pleasure to express our greetings on behalf of our country and our club…”等々。がしかし全く必要はなかった。なにしろ500人以上はいただろうか。大会関係者、今回のスポンサーであるドクター・ぺッパ-等の関係役員の挨拶が続き、このダラスカップの大きさを見せつけられた。もう一つ意外なことがあった。アルコール類が全くない。ビールがない。なぜだ。ここダラスでは飲めるエリアと飲めないエリアがあって、この辺りは飲めないエリア、つまりドライエリアと呼ばれているらしい。ホテルの中であろうと注文しないとでない。ダラス中のコンビニで探しても、どこにも売っていなかった。しばらく健康的になれると思い我慢することにした。第2日目の一日がやっと終わった。 「ダラスカップ」とは 1980年より毎年開催。今回で第27回。既に2010年までスケジュールが決まっており、それまでドクターペッパーがスポンサーとして契約している。カテゴリーはスーパーグループ(U19)、グループA(U19)、グループB(U17)、グループC(U16)、グループD(U15)、グループE(U14)、グループF(U12)まであり、合計184チーム約4000人参加するスーパー大会だ。これを8日間で消化する。ユースの大会としては世界で最も規模の大きい大会と言われる。
2006年08月17日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月8日(土) 第2日目(1/2) 翌朝スタッフ全員で朝食を取った。早速神戸戦の結果が気になり、Aコーチの携帯で確認をとる。2-1で我がチームの勝利だ。ホッとした。決勝点はオウンゴール?まあ何でもいい。勝てば良いのだ。これで15日までは良い気持ちで過ごせる。またまたミゲールさんのスピーチで始まった。常に笑いが絶えない。英語もとてもわかりやすい。 そろそろ朝食も終わりかけた頃、テーブルになぜかフォークとナイフが1セット残っている。誰かいない。よく見まわしたらFコーチがいない。どうしたかなと思っていたら、Fコーチが慌ててきた。なんと頭はボサボサ、とても人間の顔とは思えないようなボーッとした顔でこう言った。「いやー、すみません。目覚ましが鳴らなくて。ちゃんと寝る前にホテルの時計と自分の持ってきた目覚ましをセットしたのですけど、鳴らなかったのですよ。壊れているのですかね。」「熟睡していて気がつかなかったのだろ。」「いや、そんなことはありません。ちゃんとかけたのです。」 あとのはなし。「団長、すみませんでした。実は、同じ7時でも、夜の7時にセットしていたみたいです。さっき二つともガンガン鳴っていました。」と、夜その話を聞いた。 朝食後、ロビーには各家庭から送られた選手たちでごった返していた。それぞれのホストファミリーの待遇を話し合っている。色々聞くと面白い。大きな家でビリヤードやプール付きの家庭もあれば、マンション住まいの家庭もあり、また朝食もしっかり食べさせてくれるところもあれば、バナナだけのところもあるとか。いずれも朝食を十分に取れない選手のために、ホットドッグ等を常に用意しておくことにした。ホームステイの良い点と問題点が見えてくる。チームとして試合をする以上、各選手に公平に対応しないとやはり問題が起きやすい。しばらく注視していく必要がありそうだ。体重も毎日計る。早速何も食べられない選手もでてきていた。 ホテル2階のボールルーム前で初のブリーフィングが始まった。監督から全コーチ、ミゲールさん、ジョージさんの紹介が始まった。選手たちはこれから始まる大会に向けて緊張していた。その時はもうFコーチは今朝の時差ボケ事件からすっかり我を取り戻し、明るく冗談をとばして選手をリラックスさせていた。団長にも順番が回ってきた。 「皆さん。昨年のダラスカップの出場が決まって以来、あまり練習も十分にできなかったと思います。さあ今日からが本番です。来年もこのダラスカップに向けて参加できるように、今年の高円宮杯の全国大会で優勝することが目標です。これは決して去年の御褒美旅行でないことを念頭において戦って下さい。プロになりたいならとにかく全力を尽くしなさい。」 目は輝いていたが、やはりおとなしい。これもトップチームのDNAか。昔ながらの体育会系の私にはちょっと寂しい。 さて、今日は軽い練習日だ。午前中は大会の登録等に時間を要し、お昼はホテルのスナックを取ることにした。でかいホットドッグとジュース、若い食べ盛りだけにやはり二人前は食べる。やがてバス2台に分乗し、大会側が提供する練習場に向かった。空は真っ青に晴れていた。日本とは全く違う天気だ。 いざ出陣。早速ジョージさんが道に迷った。前日のミゲ-ルさんからの忠告が脳裏をよぎる。「あいつジョージはよく道に迷うんだ。ここに長く住んでいながら間違えるんだよ。去年もよくあったんだ。」
2006年08月17日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月7日(金) 第1日目(3/3) 飛行機を降りてゲートからもう随分歩いた。さすがに広い。動く歩道があるとはいえ、なかなかイミグレーションに着かない。やっとの思いで着いたら外国人の入国受付カウンターが長蛇の列。全員出るのに30分はかかった。次に荷物の受け取りだ。順調に各人は荷物を受け取り、出口に集まったものの、なかなかレオさんが来ない。「どうしたのか」と尋ねると、成田空港で預けた長さ2メートルの棒(入場行進に使う竿)が出てこないそうだ。さらに30分以上待った。結局成田で積み忘れたらしい。たかが竿のため随分待たされたものだ。考えてみれば現地で調達すれば良かった。とりあえずやっと空港を出てダラスの地へ踏み入れることになった。搭乗機到着の15時15分からすでに2時間は経ち、時計の針はすでに17時半を過ぎていた。 慌ただしく出迎えを受け、事前に聞いていたミゲールさんと握手をした。でかい。グローブのような手で握力も強い。そしてまたこれから面白くなりそうなもう一人のお世話役ジョージさん。ダラスに在住するボランテイアの方で、いつもミゲールさんとコンビを組んでこの大会にスタッフとして参加をしているらしい。昨年もジュビロ磐田ユースを担当したそうだ。 大会主催の15人乗りのバス2台に乗り込み、いよいよダラス郊外のインターコンチネンタルホテルに向かった。さすが車王国。フリーウエイをひた走り約30分でホテルに到着してしまった。ホテルのロビーは世界各国から集まったチームで溢れかえっていた。そこで選手たちは荷物を受け取り、ホームステイ先の家々へ分かれていく。皆初対面のため皆緊張していたが、疲れた顔もそこそこに各家庭へ散っていった。すでに夜は21時を過ぎていた。明日の打ち合わせを兼ね、監督、コーチ、ミゲ-ルさん、レオさんの皆でホテルのレストランにて夕食を取った。しかし野菜とパスタしかなかった。ミゲールさんの第一回目の講義が始まった。自分の経歴、サッカーの神様ペレの話。まだまだ序の口だった。その後もミゲールさんの話は続いたがようやく解散し、長い1日が終わった。ここはまだ、日本を出発した同じ日、金曜日の夜なのだ。あと4時間もすればトップチームの対神戸戦の結果が判ることになっていた。ただひたすら眠った。 「ミゲール デ リマ氏」 元ブラジルのプロサッカープレーヤー(ゴールキーパー)で、身長188センチ。現在マイアミでサッカー学校を主宰し、娘に経営を任せている。ブラジルのリゾート地にホテルも1件所有し、そこはご夫人が経営を任されている。月に1、2度マイアミとブラジルを往復しているそうだ。とにかくスケールのでかい人だ。現役の頃はあのサッカーの神様、ペレとずっと一緒に遠征していたそうだ。今でも家族ぐるみで付き合っているという。確かに非常に解りやすい英語でとうとうとしゃべってくれる。幼少の頃は裕福ではなく裸足でボールを蹴っていたそうだ。サッカーの立身出世話を聞くと確かに長い。でも参考になった。我がチームの選手に聞かせてやりたいぐらいだ。 「ジョージ エスパレア氏」 ダラスに在住する電力会社のサラリーマン。息子さん(マテウス)はサッカー好きで現地アマチュアクラブに所属しているが、現在シカゴの大学に通っている。ジョージさんはいつもこのダラスカップの際有給休暇を取り、ミゲールさんとコンビを組み大会を手伝っている。
2006年08月15日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月7日(金) 第1日目(2/3) ほぼ定刻に成田空港へ到着。国内線用の新滑走路に降りたため到着ゲートに着くまで20分をも要してしまう。すべての荷物を搬出するまで約25分。最後まで残されたチームが全員到着ゲートをやっと出ると、今回の旅行をすべてにおいて面倒をみてくださる添乗員のレオさんがじっと待っていてくれた。真っ黒に日焼けした日本人だ。昨年もこのダラスカップにエスコートをした方だけあってとても心強い。レオさんより、まだ緊張した気持ちが抜けきれない選手たちの前で最初の挨拶が始まった。 「今回皆さんと一緒にお手伝いする高柳玲夫と申します。最後のこの成田で解散するまで皆さんとご一緒ですからどうぞご安心下さい。」誰よりも一番安心したのは他でもなくこの自分だった。とにかくホッとした。そこに高柳さん(つまりレオさん)の上司である島田社長も見送りに来て下さり、昨年のダラスカップについて色々と教えを受けた。この伝統のある大きな大会で、必ずやコンサドーレのユースたちが貴重な経験を得られること、一皮も二皮も剥けてうまくなって帰ってくるであろうこと等を聞いた。さらにアメリカでお世話をして下さるブラジル人で、サッカー界ではゴールキーパーとして昔活躍したミゲ-ルさんという方がなかなか面白いと言うのだ。「いやあ、人柄の良い体格の大きなブラジル人でね。しゃべりだしたらなかなか終わらない。多分一発で気に入りますよ。ただ一つ、よく助手席のほうを見ながら両手を離して運転するから気をつけて。」と言われた。会ってからの楽しみがひとつ増えた。 JALが発着する第二ターミナルから、早速無料循環バスで2班に分かれて移動だ。第二ターミナルが出来る前によく仕事で使っていた第一ターミナルはあちこちで工事中であった。ここでもアメリカ線は個々で搭乗手続きをせねばならず、皆レオさんの手助けを受けながら手続きをした。たまたま自分の番で、チェックインカウンターの日本人女性が、「コンサドーレ札幌の皆さんですか。私の実家が札幌なのでよく応援していますよ。がんばってきて下さいね。」まさかこの場でしっかりと激励を受けるとは。 出国検査も終え、昔懐かしい第一ターミナルならではの円形サテライトからゲートインをした。機内は最新鋭777のファースト、ビジネス、エコノミーと3クラスタイプ。一席の空席もなく超満席であった。どうやらほとんどがここ日本からの乗客ではなく、お隣中国(香港、上海、北京等)等からの乗り継ぎ客らしい。ここでも中国の経済発展の凄まじい光景が見られた。聞くところによると、中国からの直行便は全て満席のため、仕方なく日本経由便を選ぶらしい。確かに日本人は我々だけのように感じた。一人だけ日本人の男性パーサーが乗っていたがこれがまたぶっきらぼうな日本語でアナウンスをした。「えーと、ただ今の機長からの報告によりますと、これからの飛行時間は10時間50分。航路は概ね良好ですが途中ところどころで揺れることもございますので常にベルトは着用して下さい。なにか御用があれば私に申し付け下さい。」これで終わり。もう定年間近の気の良さそうなおじさんという感じだった。離陸してから一通りの食事が終わっても、まだまだ時間がある。いや、とにかく長い。長すぎる。しかも隣は若そうなアメリカ人男性だ。難しそうな経済誌を読んでいる。一応儀礼的に挨拶をし、どこから来たのか、どこへ行くのかを尋ねた。彼は出張の帰りで上海から成田を経由してダラスまで飛行し、そこからまた国内線に乗り継いで家族のいる家に帰るところだそうな。いやいやそれこそ大変な道乗りだ。少し自分も考え直した。文句は言えないと思った。 機内では娘からあてがわれた本を読んだ。ひたすら読み続けた。今時のベストセラー「東京タワー」である。不思議と自分の人生とかぶり、島根の田舎から東京へ一人息子が単身乗り込み、浪人、大学、入社、結婚等、自分が経験してきたことを思い浮かべた。幸い真っ暗な機内がゆえ、大いに泣いた。その為ほとんど寝付けず読書をしていたら、いつの間にかテキサスの上空に差し掛かっていた。灼熱の太陽が乾燥した滑走路を照らし、無事着陸した。定刻だった。
2006年08月12日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月7日(金) 第1日目(1/3) これまでの激闘の中の思い出と、滞在期間11日にわたる長い旅の終わりに近づく安心感、そしてなんとも言えないボーッとした時差ぼけの感覚にさまよいながら、若い少年たちは、高度1万メートルの成層圏の中を一路成田に向かう満席の機内でおそらく爆睡しているに違いない。 このダラススーパーカップへ参加できたのは昨年の秋、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権の全国大会で準優勝出来た結果である。 4月の初めでも春はまだ遠く、両脇の道路にはまだ残雪の名残がある中で、気温計の針は2度を指していた。いつも走り慣れたこの千歳空港高速道路も、今日の思いはことのほか期待と不安が入り混じった気持ちが高鳴り、その気持ちを抑えながらただ漠然と「これからダラスへ行くんだ。」と走っていた。 集合場所も時間もろくに確認しないまま、千歳空港のJALカウンターの前までいくと、赤と黒のジャージを着た少年達がパラパラと見え、これから遥か遠い未知のダラスまで行く子供を見送る母親とともに集まっていた。 「こんにちは。この度、私がユースチームの責任者としてお供させて頂きます。皆様のお子様を責任持ってしっかりお預かり致しますので、どうぞご安心下さい。」 そもそもこの随行も急に決まったもので、事前の準備も打ち合わせも何もなく、随行のスタッフ、選手の名前もほとんど把握しないままでの出発だっただけに、親御さん以上に不安なのはこの自分だった。ダラスというところは昔ダラスフォートワース空港を業務視察したことがあるだけで他には全く記憶にない。J.F.ケネディ大統領が暗殺された場所であることと、当時世界で3番目に大きい空港だったという印象しかない。 スタッフも揃い、選手も全員集まり、まずは成田空港までの搭乗手続きをしなければならない。千歳空港では添乗員はおらず、Fコーチがまとめて航空券を持っていたので、早速、以前仕事で幾度も搭乗手続きをした経験を生かした。なにしろ荷物は大きいし、遠征に必要な道具類も多い。成田空港でのターミナルも航空会社も違う。ただ乗り継ぎ時間は十分にある。ここ千歳では国際線の手続きはせず、成田空港までの国内線手続きまでとしたほうが確実で安全だ。さて、25名ともなると団体扱いとなり1階で手続きをしなければならないが、わざわざ降りてもらうのも大変だから2階で搭乗手続きをさせてもらうことにした。一人ずつ無事にチェックインを完了。その後は各自解散として、搭乗ゲートで再度集合することになった。 その時、思いがけず搭乗ゲート付近で我がコンサドーレ札幌のトップチームの面々と偶然めぐり会うことができたのだ。彼らは神戸とのアウェイ・ゲームのためお隣のゲートで出発を待っていた。思いがけずそこに藤田選手や石井選手等、我がU18チームの先輩達がいた。藤田選手にとっては昨年の高円宮杯大会に出場し、このダラス遠征を勝ち取った一員なだけに、なおのことこのまま隣のゲートから皆と共にダラスに行きたかったに違いない。お互いに健闘を誓い合いながら我々はひと足先に機内へ乗り込み、全員まずは成田空港へ向かった。
プロフィール
1948年2月 島根県 松江市生れ。早稲田大学 体育会庭球部卒。全日本学生ダブルスベスト16.国体島根県代表。テニスコーチプロ。1971年 日本航空入社。以来営業畑を中心に世界中を歴任し、主として赤字支店及び赤字関連会社の再建に取り組む。1987年より5年間ドイツ ジャルパック デュッセルドルフ支店長時代東西ドイツ統一の現場を体験。1991年帰国。営業本部国内予約管理室長、大阪、名古屋を経て、2001年1月(株)北海道フットボールクラブへ出向。当時5億円近い債務超過を現在1億円近くまで圧縮。2005年中にはほぼ債務超過を解消すべく努力中。現在の役員では最古参。
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