2006年08月21日
コンサドーレ札幌U18 ダラススーパーカップ遠征紀行 4月8日(土) 第2日目(2/2) やっとの思いで練習場についた。きつく乾燥し、日差しは強く、我々の体をじりじりと容赦なく照り付けてくる。初めての練習場。公園の一角と言われていたのであまり期待をしていなかったが、予想通りであった。周りは森に囲まれており、ゴールポストはあるがフェンスがない。これは球拾いが大変だ。選手たちはグランドの片隅で着替え、いよいよトレーニングが始まる。選手たちが着替える間、スタッフは忙しい。グランドの硬さ、芝生の生え具合等必ず事前にチェックをする。この時もサッカーシューズではひざを痛めるとかで通常のシューズで対応することにした。 最初のジョギングということで私もお供することにした。公園の散歩道をひた走る。5分走ったところで引き離された。だめだ。ついていけない。後で聞けばFコーチは私がついてきていると判ってわざとスピードを上げたらしい。やがてパスワークの練習が始まった。ゴールキーパーは別メニューで練習だ。私はひたすらボール拾いを手伝った。なにしろフェンスがないだけに重労働だ。ボールが森の中へ入ればトゲにやられるし、結構な汗をかいた。 やがて一人の選手がお腹を押さえてこちらに走ってくる。「すみません。ティッシュペーパーありませんか。お腹が痛いんですけど。」といっても近くにトイレはない。「しょうがねーなー。じゃこれもって森の中へ入れ。」「はい!」と一目散に入っていった。 しばらくすると、すっきりした顔で出てきて練習へ戻っていった。後で聞けば、森の中に小さな小川が流れており、立派な水洗便所となったとか。下流では現地の子供たちが水遊びしていたのも知らずに。 選手たちは軽く一汗をかけただろうか。2時間程の練習を終え、着替えてからまたバスでホテルに戻った。選手たちは多少自由時間が出来たので近くのウオルマートでショッピングをしたりして、出迎えにきたホストファミリーに連れられて帰っていった。今晩は各家庭で歓迎会を開いてくれるらしい。 その日の夜はスタッフの最初のイベント。ウエルカムパーテイーが開かれる。どんな内容なのかさっぱりわからず取り敢えず正装して臨んだ。一階の大ホールで生伴奏が流れている。世界各国から来た人たちでホールは埋め尽くされ、そのほとんどの顔はすでに真っ黒に日焼けをしている。ちょうど日本からもJFAから派遣された公式審判員もお目にかかることができ、スタッフとミゲ-ルさん、ジョージさんを囲んで話は弾んだ。実は今回、もしや日本を代表としてスピーチをさせられるかもと思い、英語の挨拶を用意していたのだ。“It is my pleasure to express our greetings on behalf of our country and our club…”等々。がしかし全く必要はなかった。なにしろ500人以上はいただろうか。大会関係者、今回のスポンサーであるドクター・ぺッパ-等の関係役員の挨拶が続き、このダラスカップの大きさを見せつけられた。もう一つ意外なことがあった。アルコール類が全くない。ビールがない。なぜだ。ここダラスでは飲めるエリアと飲めないエリアがあって、この辺りは飲めないエリア、つまりドライエリアと呼ばれているらしい。ホテルの中であろうと注文しないとでない。ダラス中のコンビニで探しても、どこにも売っていなかった。しばらく健康的になれると思い我慢することにした。第2日目の一日がやっと終わった。 「ダラスカップ」とは 1980年より毎年開催。今回で第27回。既に2010年までスケジュールが決まっており、それまでドクターペッパーがスポンサーとして契約している。カテゴリーはスーパーグループ(U19)、グループA(U19)、グループB(U17)、グループC(U16)、グループD(U15)、グループE(U14)、グループF(U12)まであり、合計184チーム約4000人参加するスーパー大会だ。これを8日間で消化する。ユースの大会としては世界で最も規模の大きい大会と言われる。
プロフィール
1948年2月 島根県 松江市生れ。早稲田大学 体育会庭球部卒。全日本学生ダブルスベスト16.国体島根県代表。テニスコーチプロ。1971年 日本航空入社。以来営業畑を中心に世界中を歴任し、主として赤字支店及び赤字関連会社の再建に取り組む。1987年より5年間ドイツ ジャルパック デュッセルドルフ支店長時代東西ドイツ統一の現場を体験。1991年帰国。営業本部国内予約管理室長、大阪、名古屋を経て、2001年1月(株)北海道フットボールクラブへ出向。当時5億円近い債務超過を現在1億円近くまで圧縮。2005年中にはほぼ債務超過を解消すべく努力中。現在の役員では最古参。
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