2006年03月24日
ちょいとこの場を借りて、自分用日記書かせて下さい。
マジでマジで申し上げます。読むと魂抜かれますよ・・・。
それと、今回だけはスタッフの如きコメントなっしんぐにします。
追記。
大正生まれのおばあちゃんは、強く厳しく愛情溢れる人でした。
昔、陸上の選手でした。バレーボールの選手もしていました。
資格があったのかどうかはわかりませんが、教鞭を執っていた事
もありました。
結核だった夫を看取り、戦時中は一人娘を抱え疎開した先の四国
でなぎなたをふるい、いろいろな奉仕活動に頑張りました。
幼い一人娘は軍の配給所などに通ううちに残してきた子どもを想う
軍隊の方たちに可愛がられました。
その中の一人だった、同じく妻に先立たれ一人息子を北海道の
親戚に預けていた男性が、おばあちゃんに突然言いました。
「躾の出来ている娘さんだ。どうか、自分の息子の母親になって
欲しい」。おばあちゃんは、「いきなり何ですか?北海道??」
と思いましたが、北海道で心細く待っている息子さんのことを想い
はるばる娘を連れて、北海道に何日もかけてやって来ました。
北海道に来て初めて出会った息子は、やせっぽちで威勢はいいけ
ど、ひねくれや。おばあちゃんは、娘のことより、息子となった男の子
の心を開かせようと頑張りました。
だんだん、おばあちゃんや姉に心を開いた弟は、
「ひゃっこい、ひゃっこい」と抱きつくようになりました。
おばあちゃんは、元々頭が切れて、お嬢様でした。怖いもの知らず。
よそ者なのに、婦人会を結成したり、調停委員をつとめたり、
新地でもばりばり活動を始めました。娘はいじめられっ子になってし
まいました。田舎でのよそ者への対応は、おばあちゃんの時代には
たくさんあったのです。だから、娘は勉強を頑張りました。
馬がいたので乗馬もしました。踊りも習って宝塚を夢みました。
終戦を迎え、おばあちゃんとおじいちゃんの生活が始まりました。
10代後半で家出した息子は今では数百人の社員を持つ社長さん
になりました。
おばあちゃんは現役をばりばり過ごした後、小脳出血で倒れました。
孫やひ孫を目に入れても痛くないほど可愛がったので、
孫はおばあちゃんをなんとかもとのように歩けるようにしたいと思い、
一緒に暮らす!と宣言してくれました。孫の夫も 「僕たちに面倒を
みさせて下さい」と言いました。
そして、孫夫婦といろんなところでず~っと暮らしました。
おばあちゃんの娘はその間ず~っと働いて、母親との距離が遠くなって
しまっている事にさみしさを感じはじめました。
孫もだんだん若さを失い、時々おばあちゃんに辛く当たることも出て
きました。
娘は仕事を辞めたのを機に、おばあちゃんとの絆を修復する時間が
欲しいと言いました。おばあちゃんは娘のところに戻りました。
時は残酷なものですが、そういう時を与えてくれたのでしょう。
おばあちゃんは間もなく肺炎を起こし入院しました。
意識不明の状態が約一年続きました。
娘は毎日毎日通い、おばあちゃんに話しかけました。
病院のスタッフには髪の毛を編み込んでもらったり、いつもそばに
あったぬいぐるみは時々洗ってもらって、ぬいぐるみ用のお布団も
作ってくれました。大切に大切に床ずれひとつ出来ませんでした。
娘がようやく母子との絆を感じ始めた頃、その時は訪れました。
娘と孫とひ孫だけ。病院の方はナースステーションにあるモニターで
見ていて下さった。家族だけに囲まれて、最後に大きく息をして
呼吸をとめました。心臓もとまりました。
まっすぐのぼっていくおばあちゃん。
みんなの声が今ではしっかりと聞こえているだろう。
歩いて走ることもできるだろう。
素敵な素敵なあるおばあちゃんの話でした。
御清聴有難うございました。
北海道べんろん大会のひとこまより、抜粋。
追記 おばあちゃんはサッカーが大好きでした。
テレビで緑の芝生が映ったら 「おかちゃん!」と言ってました。
家族が踊ると、不自由な方の手を大丈夫な方の手で持ち上げて
\(^o^)/\(^o^)/のように出来なかったけどしていました。
めんこいな、ばあちゃん!
プロフィール
HN aru 聖地厚別在住 旭川市出身 *変わらず当たり前 1964年生まれ *いい年齢になってきました 性別 ♀ たぶん *まだそうだ!たぶん 厚別・函館・室蘭ゴール裏 ドーム Gシート *今 違う 夢(妄想)・HFC最高幹部次席付電話受付係りなにそれ *ちょい自信なくなった(本気だったのか?!) 特技・ブログの文章が長すぎること *書けば長いのだが・・・
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