不完全燃焼

2007年10月14日

ドームの仙台戦以来の久々の観戦だったけれど
仕事が終わってからだったので後半開始からの観戦となった昨日。
いつもならば、そして今のチームの状態ならば、どんな勝ち方でも勝ち点3をGetできたことで満足するはずの私なのだけれど・・・

なんなの、あのグダグダ感は?
なんなの、あの雑なボールさばきは?
なんなの、ゴール前でシュート打たないうちのFWは?
こんな試合してたら絶対今年は昇格できないわ、と
一人で苛立ちながら帰途についたのだった。

前半も見ていたなら、少しは気持ちも変わったのだろうけれど
無理して寒い中(思ったほどではなかったけれど)出かけていったのに
あんな試合を見せられるなら行かなければ良かったと思った。
結果だけを見たのなら、きっと「ようやく勝てたねー」で終わったのに・・・
勝ったはずなのに嬉しくない、不完全燃焼状態だった。

なんだかこんなふうにボヤいているのは、やっぱり自分のメンタルな部分が大きいのだと思う。
ここしばらくブログの更新もできていなかったのは、父が逝ってしまったから。

父の愛した夕陽
ここから先は暗い話の長文なので、スルーして下さい。 自分で何かに書き留めておきたいと思ったので・・・



父は4年前に食道の大半と胃の全部を癌のために摘出した。
今まで転移することもなく、そこそこ元気に生活もしていた。
食べる量が減って、体力が落ちていたけれど、それでも車だって運転していたし、年齢のわりにはサイバーで、私たちよりずっと良いスペックのPCを使って、実家に帰るたびに父の書斎は新しいプリンターやら外付けのHDやらが増えていた。
函館から車で1時間半ほどの田舎の町に住んでいる両親は、病院も手術やその後の大きな検査は函館の病院に通っていたが、いつもは地元の道立病院に通院していた。
それでも定期的に検査もしているし、と安心していたけれど、実際は違っていた。
今回の直接の死因は肺炎ということになる。
食道癌の再発に起因するものとのドクターの見解だし、もちろんそれは間違いないのだろうけれど、実際肺炎が起きたのは、内視鏡検査の後だった。
翌々日から咳と高熱が出た、と電話で知らせてきた母に、感染症も心配だからとにかく病院に連れて行くように勧めた。
電話で病院に問い合わせたら、「内視鏡と発熱は関係ありません」と言われたそうだ。
もともとあまり病院に行くのが好きではない父は、そう言われたなのなら、と担当医の外来診察のある日まで受診しなかった。
受診した時には熱が平熱まで下がっていたということもあり、ドクターはレントゲンもとらずに解熱剤と抗生物質だけ出してそのまま診察を終えたという。
帰宅して(自分で車を運転して出かけたそうだ)、少し寝て、トイレに起きて、そこで倒れて救急車で運ばれた。
その時には肺はもう真っ白だったそうだ。
私も知らなかったことだけれど、父はもともと腎臓の調子も良くなく、最近ではかなり腎機能が落ちていて、透析するかしないか、という話にまでなっていたそうだ。
腎臓の機能が落ちているということは、解毒作用が働かないということ。
脱水症状も併発し、強い薬を使えないということに繋がる。
肺炎がもっと早くにわかっていて、小さい状況だったら、なんとか薬で対処できたし、腎臓がそこまで悪くなければ、強い薬を投与することもできたけれど
悪因子が重なって、父は入院した時には手遅れの状態だったということになる。
それでも入院してすぐ意識も戻って、普通に会話もできていたので、母もそこまで悪いとも知らされておらず、私や兄にも「入院した」という電話だけだった。
入院から3日目の朝、兄から「家に電話しても昨夜も今朝も誰も出ないし留守電にもなっていないから気になる」というメールが入った。
たまたま仕事が休みだった私がお昼頃に電話してもやはり繋がらない。
母の携帯も電源が入っていないままだった。
しばらくしてから母から「昨夜、父の意識が混乱して、ちょっと危ない状態だから、できれば子供たちにも話をしたいとドクターが言っている」と連絡が入った。
兄と連絡を取り合い、夜には函館に着き、そこからレンタカーで地元の病院に9時過ぎに着いた。
着いた時、父はうなされていた。
私たちが来たということは母に言われてわかったが、第一声は「孫たちは?」だった。
「子供じゃなくて孫かい」と悪付きながらも、私も兄も正直心配でたまらなかった。
その日は夜遅かったので、ドクターとは次の日に話しをすることになり、夜は三人で交代で父に付き添った。
田舎の病院で、看護士の人数も足りないのか、普通ならば完全介護で付き添いは要らないといわれるだろうと思っていたのに、付き添い大歓迎という感じだった。

翌日、兄と私の二人で話しを聞いた。
肺炎の状態はかなり悪く、ここまで急激に広がるというのは癌の影響だと考えて間違いないということだった。
実際に写真を見ても、一部残った食道から肺に向かって何か伸びているのが見えた。
そのドクターは父の担当になってまだ3ヶ月ほどだった。
4年前の手術後、函館の担当外科医と連絡を取りながら父の経過を観察していたはずの地元のドクターは、実際にはやるべきことをあまりしていなかったらしい。
去年の6月には食道癌のマーカーが上昇しているが、リンパの肥大はみられないので経過観察という報告が函館の担当医からされていたが、どういう「観察」をしていたのかわからないが、きちんと検査をしている形跡はなかったそうだ。
地元の担当医が変わってから、何年かぶりに内視鏡検査をすることになった。
それまでは術後の傷口さえ触診することもなかったという。
ドクターの考え方や治療方針はさまざまで、ドクターからドクターへの指示というのはいろいろな面で難しいのだと思う。
だから函館の担当医と地元の担当医の間で意思の疎通が上手くいかなかったというのは仕方の無いことかもしれないけれど、
少なくとも医療の現場にいる人間ならば、もう少し患者側に立ってもらいたいと思わずにはいられなかった。
入院直前の受診の時だって、今熱がなくても熱が何日か続いていた、とか、咳が出ていた、とか、患者が何も言わないからそれでスルーしてしまうのではなく、ドクターから問いかけることは出来なかったのだろうか?と思う。
私は薬剤師なので、ドクターからの処方箋を患者に渡す仕事をしている。
カルテはないから、患者の病状などはその場で聞くしかない。
幸い整形外科の処方が多いので、あまりナーバスな病状にぶち当たることはないけれど、それでも患者に聞くことの大切さ、難しさは相当なものだ。
「病院で医者に話したから、あんたたちはさっさと薬だけを渡してくれたら良い」という患者が多い。
それだけ患者はドクターを信頼している。
そういう立場なのだ、ということをドクターや看護士はもっと感じて欲しいと思った。
もちろん、本当に良くしてくれた看護士さんもいたし、ドクターも一所懸命やってくれたとは思うけれど、命にかかわることは取り返しがつかない。
だから遺族の気持ちって普通は許せることでもなかなか整理がつかないのだと思う。

このまま肺炎が治らなければ、体力的にもって1週間だとその時に宣告された。
母にはそこまでリアルな数字は言うことが出来なかった。
それでも私たちが着いて3日目くらいには少し落ち着いて、少しだけ話もできるようになっていた。
けれど、3日目の夜からまた悪化した。
悪化したというのを知らされないまま、「良くなってきているので、ここで少し強い薬を使って一気に治しましょう。ただ、副作用が出るかもしれないので承諾書を書いてください」と母が連れて行かれ、承諾書を書かされた。
私は仮眠あけでぼーっとしていてあまり状況が良くわからなかったけれど、血液検査の結果だけみて、父を診察もしないうちにそんなことを言い出すドクターに不信感を抱き、不安な気持ちでいっぱいだった。
結局、「強い薬」を投与しても父の症状が良くなることは無く、意識があるのはあと2日くらいだろう、と言われ、その日のうちに娘と主人を呼び寄せた。
兄はひとまず帰って仕事のめどを付けて、家族を連れてすぐに戻ってくるということになった。
兄が帰る時には父の意識はずいぶんしっかりしていて、孫の写真を見せろ、と言って、兄の飛行機代のことまで心配していた。
夜には娘も到着し、その時の喜びようったらなかった。

その日の夜中に急変した。
今まであまりワガママを言わなかったのに、どうしても外に行きたいとダダをこね、「熱が下がったらね」となだめた。
少し眠った後、急にむくっと起き上がろうとするものだから止めた、それでもまた起き上がった、その後から意識がなくなった・・・
もってあと3~4時間と言われた。
兄は間に合わなかった。
「みっともないところ見せたくなかったんだろう」と兄は言った。
母と主人と娘と私の4人に見送られて父は逝った。
十五夜の日の朝だった。
「ロマンチストな人のすることだから」と母は言った。
そういえば病室の窓からも綺麗な月やオリオン座が見えていた。

それから後はバタバタだった。
母は父の死を受け入れられず、少し間、記憶を失った。
兄が到着するまで私が葬儀の関係も進めなければいけなかった。
なんとか母も回復して、葬儀も終えたけれど、初七日が過ぎるまではあまりに忙しくて、悲しむ暇もなかった。
仕事も約2週間休んだ。
一度札幌に戻り、また3連休だったので、土曜日の仕事の後に帰省した。
ようやく先週から普通の生活に戻った。
大学から親元を離れていたので、父がいなくなったいう実感が正直あまりわかない。
普段どおりに仕事をしているし、昨日は試合も観に行った。
兄とは相変わらずサッカーの話で盛り上がる。
少しだけ実家に電話する回数が増えたことと、母が必要に迫られて携帯のメールを練習し始めた、ということ以外は何も変わらない気がする。
もっと実家に帰っていればよかった。
夏休みだって少し無理をすれば帰れたのに。
函館戦の時だって、少し無理をすれば、孫の顔を見せることだって出来たかもしれないのに・・・
GWにたった1泊しただけで、今年はあまり会う機会もなかった。
親孝行は死んでからは出来ないというけれど、まだまだ時間はあると思っていた。
まだ73歳だったのに・・・


地元の夕陽はとても綺麗だ。
地元を離れるまで、太陽は海に沈むものだと思っていた。
水平線に触れてから沈むまではあっという間で、燃えながら沈んだ後、空を焼いていく。
じわじわと広がる黄昏は、これから先少しずつ広がっていく父の不在の悲しみと似ているのだと思った。


post by LUNA

11:44

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