2006年03月15日
今日はコンサではなく、「W杯」についてコメントします。
私がはじめて「W杯」なるものに接したのが、1970年メキシコ大会でした。
1968年のメキシコ・オリンピックの銅メダルの余韻を残したころ、サッカー少年だった私は、サッカーマガジンで、オリンピックよりすごい(何がすごいかはわかりませんでしたが)「W杯」なるものが、縁起のいいメキシコで行われることを知り、それから「W」の文字に過敏に反応していました(それについては、恥かしい思い出もあるのですが、ここでは披露しません、絶対に)。
で、いよいよ70年メキシコW杯が行われ、テレビを通して見る世界の一流選手のプレーに固唾を呑んで見入ってていました。だって、見たことのないすごいプレーばかりですから(見た翌日にはグランドでまねていました、もちろんできませんでしたが)。
特にペレのプレーは一つ一つ目に焼きついています。
古いニュース映像で見た、17歳でデビューしたスイス大会のプレーもすごいと思いましたが、メキシコ大会では、「こんなこと何で考えつくの?」というのが見たときの正直な感想でした。
今でも覚えているのが、ペレにはやいパスが出され、あわや1対1の場面。相手のGKがあわててそれを阻止しようと前に出てきたとき、ペレが何をしたか知っています?自分でスルーして、GKを回りこしてボールに追いつき、シュートを打ったんですよ。ビデオで見ると、ペレがパスされたボールをもし止めたら、GKがスライディングなりで止めることができたような気がしますが、まさに「意表をつく」スルーだったわけで、あの場面、ペレ以外、誰もあんなプレーを予想しなかったでしょうね。それがすごいんですよね。一瞬で考えて、しかも実行してしまうんだから・・・。
結局パスが速すぎて追いつくのがやっとこさのため、シュートははずれましたが、あらためてサッカーの面白さを教えてくれたシーンでした。ビデオなども出ていますので、一度レンタルショップなどで見ておいて損はないと思います。
あと、個人的には、当時西ドイツを応援していましたので(理由が何でか思い出せないのですが)、準決勝のイタリア戦。肩を脱臼した皇帝ベッケンバウアーが肩をテーピングして、けな気にプレーしていたこと、そして最後はイタリアに負けたとき、思わず涙したのを思い出します。自分のチームが負けたときより、悔しくて泣いたことを覚えています。そして、はやく日本代表がW杯で活躍できたらと思ったのも1970年大会でした。
ですから、今、日本代表のプレーに一喜一憂し、J1・J2、そして我がコンサドーレ札幌に一喜一憂できることが幸せです。
J1発足時、鹿島アントラーズにレオナルド、そしてジョルジーニョが加入してていたときのとある試合(いまだに対戦相手が思い出せないのですが、浦和かなぁ?)。右サイド、ペナルティエリアやや後方でボールをキープしたレオナルド。相手DFと間合いを取りながら、ゆっくりとボールをキープ。ジョルジーニョの上がりを待ちます。そしてジョルジーニョにパス。ジョルジーニョが右ペナルティエリアまで切り込み、ニアに速く低いボールを送る。ところが、相手DFも、味方FWも誰も反応できず、結果は相手チームのDFがクリア。ジョルジーニョが怒るは、怒るは。つまり「何でニアに走りこまないんだ」ということだったわけですが、日本人プレイヤーはジョルジーニョの意図が敵・味方を問わず、分からなかったということです。今なら笑っちゃいますが、Jリーグ発足の当時ですら、日本のサッカーレベルってそんなものだったんですよね。
だから、私のような古い人間は、今のコンサにもいいところを見つけようと努力しています。日本のサッカーの歴史はまだ浅い、コンサの歴史もまだ浅いということで、まとめさせていただきます(何がまとめか分かりませんが・・・笑)。
サッカーのネタはたくさんあるのですが、それは次回ということで。
追記
当時、Jリーグにジョルジーニョが来ると聞いたときはぶったまげました。なぜって、当時バイエルン・ミュンヘンに所属し、彼が代表戦で抜けるとバイエルンが大きく戦力ダウンするといわれたほどの右サイドのスペシャリストでしたから。私なんぞ、ウソーだろ?を連発していました。今ならロベルト・カルロスが日本に来るようなものでしたが、あまり騒がれませんでした(実はドゥンガが来たときも静かだったなぁ~?)。日本のプレスもレベルはその程度だったということで・・・爆。
プロフィール
サッカー歴は古いです。 中学でサッカーを始め、中学時代にメキシコ・オリンピックの日本の銅メダルを目の当たりにし、メキシコW杯の「イタリアvs西ドイツ」戦に感涙し、高校までサッカーをしていましたが、心だけは今でも現役です(笑)。 ちなみに湘南ベルマーレ監督や全日本女子代表監督を歴任した上田栄治さんは高校時代の1年先輩。彼は一流でしたが、ご一緒した経験もあります(他人のふんどしでものを語ってどうするっ…爆)。 コンサドーレ札幌との関わりは、北海道・札幌移住後のコンサ誕生以来。 エメルソンの移籍騒ぎのときに、市民株主(1株ですが)となりました(結局エメは逝ってしまったが)。 昨今は、元コンサドーレ出身の選手の活躍を見るたびに、死んだ子の歳を数えるような機会が多くなり、自分の年齢を今さらながら実感しています。 ただ、コンサドーレ札幌を愛する気持ちは、昔も今も変わりません!
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