いわゆるサポーターとは?

2011年08月05日

振り返れば、なんだかんだ言ってコンサドーレのゲーム(プロサッカー)を見始めて、14年目になっていた。しかし、サッカーは難しすぎて、未だに何が良くて何が悪いということは小生には全く理解できないままにいる。ただ、それだけ難しくもあり、面白いスポーツでもあることが、今も飽きることなく、たとえ負け試合が続こうが、観戦を続けている理由なのかと思う。

現状については、特に監督に対する批判的な意見は、この結果を受ければさもありなんというところではあるが、そういった輩が今後の行方までを断定的に達観できる能力には敬服するしかない。

世の中はマスコミ主導の脱原発ブームが華やかであるが、コンサドーレサポーター世論ではある時は脱宮沢ブーム、ある時は脱石崎ブームが演出され、その都度、不満のはけ口を求め、そこに群がる人々が現れる。

そういえば、かつて、降格の危機から脱するために、ミスターサルベージといわれたイバンチェビッチを招聘したものの、最後に「ノーアイデア」といってチームを去っていった事実が強烈に記憶にあるだけに、この監督交代という劇薬が画期的な結果をもたらすことにあまり楽観的な期待を抱くことができないでいる。

では、石崎監督で大丈夫かというと、それについて私自身は何らかの確信を裏付ける根拠を持っているわけもなく、ただ「変化を起こす」という一点だけにわずかな望みを託すという程度の話であれば、それはあまりに拙速ではないかということを敢えて言ってみたというレベルで、それこそ目くそ鼻くその指摘だとのそしりは甘んじて受けるところである。

にわかサッカー解説者に甘んじることなく、”サポーター”であることを自認するだけの誇りを胸に刻むのであれば、今はチームへの技術論の御高説はひとまず封印し、一人でもスタジアムに知人友人を誘って動員数の増に貢献することを心がけるのがサポーターとしてのあるべき姿ではないかと思う。

5000人が最低1人の友達なり家族を連れて行くことができれば、5000人の観客増につながる。ゲーム内容が面白くないから誘えないといった言い訳を思い付ける輩に、選手には結果を求め、負け試合で気持ちの入っていない怠慢プレーだと威勢の良い罵声をあげる資格があるのだろうか?

選手に一方的に100%を求めることができるのがプロスポーツであるという強弁が通用するのであれば、サポーターという呼称は即刻返上した方が無難であろう。


post by ダソヌマソ

22:53

コメント(17)