なおし風「武器よさらば」

2007年04月19日

昨日(日付変わってもう一昨日)、銃による悲惨なニュースが2件、立て続けに起きました。

・長崎市長銃撃事件
・米大学銃乱射事件

この痛ましい事件により、長崎市長の伊藤一長さんと、バージニア工科大学の32人(犯人を除く)の多くの命が奪われました。

中でも個人的にショックだったのは、やはり長崎市長銃撃事件の方でした。
核兵器廃絶に向けて、精力的に活動されていた市長が、その理念から大きくかけ離れていた(と思われる)動機を持ったアホヤクザによって、その命を奪われたことは、非常に残念でなりません。
伊藤一長市長、そしてバージニア工科大学の32人(犯人を除く)の皆さんに心から哀悼の意を表します。

自分は実は、人類最凶の武器は、核兵器ではなく、拳銃ではないかと、こういった事件に触れるにつけ思うのです。

核兵器は、大量殺戮兵器として保有国が増え、人類絶滅を容易に行えるほどの量がこの地球上に存在しています。そういう意味では非常に恐ろしい兵器です。
しかしその一方で、あまりに大量であるがゆえに、使用することによって生じる相手の報復によって得られるものが皆無であるに等しいことが幸いして、「核抑止力」という絶妙なバランスによって使用することを止めることができ、現在のところ本来の目的で使われたのは、広島・長崎のみにとどまっています(ビキニ環礁で福竜丸が被爆したという痛ましい事故もありますが)。
つまり、膨大な量を保持する国がありながら、持ちたる国の指導者の良識によって、その発射ボタンが押されることがなく今日に至っています(まあ、日本のとある近隣国の指導者はいとも簡単に押しそうですけどw)。

しかし銃は、この武器が歴史に登場して以来、戦争・犯罪に数多く使われ、また形態や能力は常に進化しており、殺戮能力は人類の進化とともに上がる一方です。
しかも、この武器のやっかいな点は、持つ相手を選ばないこと。お金さえあれば、思慮深い人間であってもなくても簡単に手に入ることです(日本とて例外ではありません)。つまり、誰でも何時でも使うことができ、しかもその昨日によっては大量殺戮も可能な兵器であるといえます。
そういった意味では、核兵器と同様か、あるいはそれ以上に廃絶が難しい武器ではないかと思います。

自分がそれに貢献できるとは思えないし、そういう運動を起こす力もないと思いますが、ひとつ自分にもできることがあります。
それは、「自分は銃を使わない」と誓うことです。
ただ、趣味として猟を楽しむ人も居ますので、他人には強制するつもりはありません。あくまでも「自分は」使わないというアクションです。
自分と同じ行動を起こす人が、一人ずつ増えていけば、もしかするとこの世から銃がなくなるかもしれません。

もしこのブログを読んで、志を同じくして下さる方が一人でも増えてくれるとうれしいです。


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