たまにはスター列伝以外の更新も

2006年01月27日

 先日のオレとカミさんの会話。

 妻:「ねぇ、マリノスに入団したマイクって、あのマイク?」
 俺:「そうだよ。高円宮杯で大伍と一緒に準優勝したハーフナー・マイク」
 妻:「ふーん。なんかすっかり大人っぽくなってたね」
 俺:「精悍な顔立ちになっていたねぇ」
 妻:「…」(←何か思いついたらしい)
 俺:「?」
 妻:「…マイク巻…」

 ジーコさん、ドイツではこの2トップでよろしく。

 さて、現在長期キャンプ中のコンサドーレですが、我々にとって気になるのは、果たして今年のチームはJ1昇格という目標を達成出来るのかどうかということです。今季の補強はうまく行ったと言えると思いますが、それだけで勝利が約束されるわけではありません。やはりチーム全体としてシーズンを勝ち抜けるだけの力を持っていなければ昇格は見えてこないわけです。そのためにはやはりこの開幕前のキャンプでどこまでチームを作ることが出来るか。それが重要になってくるでしょう。
 ところが、といっては妙ですが、チームの始動からこっち、ヤンツーのコメントはおおむね合格点といった感じのものがほとんどです。ヤンツーが思ってもないリップサービスの出来る人じゃないことはわかっていますし、実際去年、一昨年と同じ時期のコメントは苦いものばかりでした。そのヤンツーの口からお褒めの言葉が出てくるくらいですから、これはもういやが上にも期待してしまうと言うもの。風の噂では選手たちも手応えを感じつつあるという話も聞こえてきますし、こりゃあひょっとするとひょっとするかも、とオラすっげえワクワクしてきたぞ。

 とはいえ、やっぱりそれはこの目で実際に見てみないとわかりません。去年もこの目で開幕前のチームを見たおかげで、素人ながらもある程度のチーム力は見えてきたわけですし。というわけで、昨年に引き続き今年も九州まで行ってキャンプでの練習を見てこようと思っています。予定としては熊本での第2次キャンプ中の2/18~19。まだ練習予定は発表されていないのですが、発表されてからだと飛行機取るのに苦労するのでかなり決め打ち。オフだったら哀しいので練習してください。



post by choo

01:57

雑記 コメント(4)

【スター列伝】吉原宏太

2006年01月26日

 不定期更新のスーパースター列伝、第9回目の今回は「元祖アイドル」吉原宏太を書きます。

 1978年2月2日大阪府藤井寺市生まれ。小学校2年生の時に藤井寺サッカー少年団でサッカーを始め、道明寺中学校から和歌山県の初芝橋本高校に進学。3年生の時(1995年)の高校選手権で7得点を挙げて得点王を獲得して同校をベスト4に導き、この活躍が認められて翌年から旧JFLを戦うできたてホヤホヤのコンサドーレ札幌に入団しました。
 通常、プロになれるような実力を持つ選手というのは、そのほとんどが選手権の時点で卒業後の行き先が決まっているパターンが多く、高校選手権で「プロへ就職活動」となるパターンはそれほど多くありません。また、この「選手権ルート」でプロ入りした選手は岐阜工の片桐淳至(→名古屋グランパスエイト)や国見高校の松橋章太(→大分トリニータ)などあまり活躍した印象ないのですが、吉原の場合はルーキーイヤーの1996年に開幕スタメン(1996年4月21日・福島FC戦)に名を連ねただけでなく、先制ゴールを含む2得点を挙げてチームの開幕戦勝利に貢献。その後も公称170cmと小柄ながらも裏へのスピードと思い切りの良さを生かして試合出場を重ねていきました。当時のJFLがプロアマ混成リーグで、対戦相手のレベルにばらつきがあったとはいえ、それでもリーグ戦・天皇杯で27試合7得点は申し分のない活躍と言えるでしょう。さらにプレイヤーとしての活躍のみならず、その甘いマスクは女性ファンのハートをがっちりキープ。コンサドーレのメインスポンサーである石屋製菓の主力商品「白い恋人」のテレビCMにも抜擢されるなど、その人気は鰻登りでした。
 翌1997年は試合出場こそ18試合に留まりながらも、自身初のハットトリック(5月18日・大塚製薬戦)を含む10得点(リーグ戦・天皇杯合計)を挙げJFL優勝・Jリーグ昇格に貢献。1998年に開幕スタメンとしてJリーグデビューを飾る(3月21日・清水エスパルス戦)と、4月25日のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でJリーグ初ゴールをマーク。この年リーグ戦、カップ戦、天皇杯計41試合に出場し13得点を挙げ、人気・実力共に「コンサドーレのエース」となりましたが、残念ながら入れ替え戦では不発に終わりチームはJ2降格となりました。
 J2での再スタートとなった1999年は、チームとしては散々なシーズンでしたが、吉原個人にとっては大きな飛躍の年となりました。FC東京サポーターに「色白おかま」呼ばわりされながらも、5月2日のヴァンフォーレ甲府戦でJリーグ初のハットトリックを達成するなど順調に得点を重ねてきた吉原は、日本代表のフィリップ・トルシエ監督に認められてシドニーオリンピックを目指すアジア一次予選のメンバーに招集されました。そのアジア一次予選の香港ラウンドでのフィリピン戦で、交代出場ながらもハットトリックを達成すると、続くネパール戦でも2得点、3戦目のマレーシア戦で1得点、最終戦の香港戦でも1得点。相手は格下ばかりとはいえ、4試合で7得点を決める大活躍を見せました。トルシエ監督の期待に見事に応えた吉原は、今度はなんとフル代表に招集されます。日本代表がパラグアイで行われるコパ・アメリカに招待国として出場した際、アルゼンチンでの直前合宿中にFWの中山雅史(ジュビロ磐田)がケガをしてしまったため、急遽呼ばれたのです。当時の五輪代表には吉原ではなく高原直泰(ジュビロ磐田)や柳沢敦(鹿島アントラーズ)、平瀬智行(鹿島)といったFWが主力でしたし、久保竜彦(サンフレッチェ広島)などフル代表経験を持つストライカーも残っていた中で、誰もが驚いたフル代表招集。まぁ、トルシエ監督にとっては、「あぁもうこんな時にナカヤマ怪我しやがって代わりを呼ぼうにも地球の裏側まで選手を貸してくれるようなクラブなんてねぇだろうなああそうだだったらヨシハラを呼ぼうどうせ札幌はJ2だし昇格無理だろうし」といった感じだったのかもしれませんけどね。それでも吉原が代表に選出されたことは事実であり、パラグアイ戦で途中出場ながらも代表キャップを記録したことで「吉原宏太」の名は全国区となったわけです。
 当然サポーターにとっても、コンサドーレから初の現役代表選手が出たことは誇らしいことでありました。しかしそのサポーターの喜びの裏側で、「トップレベル」を実際に肌で感じた吉原本人は、翌年に控えていたシドニー五輪のメンバーとして名を連ねるため、その先に待つワールドカップのために、より高いレベルの環境でプレイすることを望むようになっていったのでしょう。札幌がJ2残留となったこの年のオフ、36試合出場15得点(リーグ・カップ・天皇杯合計)という成績を残し、ガンバ大阪へレンタル移籍していきました。
 今でこそ主力選手の移籍(引き抜き)は珍しい話ではないですけど、名実ともに札幌の顔だった選手が移籍していったのはこの吉原が初めてであり、当時のオレも含めたほとんどのサポーターはそれをどう受け止めていいかわかりませんでした。チームが彼を「戻ってくる可能性の残る」レンタル移籍としたのも、エースを失うショックが大きかったサポーターへの影響を考えれば仕方がなかったのかも知れません。今であれば、中途半端にレンタル移籍させるくらいなら完全移籍にして移籍金満額取れという声のほうが強いでしょうから、サポーターも随分免疫がついたものです。いやまぁ、出来ればこんな免疫なんていらないんですけどね。結局吉原は2000年オフにガンバへ完全移籍となり、移籍した当時にサポーターが抱いていた「1年後に戻ってきてほしい」という希望は叶うことはなかったのですが、どっこいその頃のサポーターは既にバンバンとエメに夢中でした。人間は忘れる生き物です。
 ガンバに移籍した後の吉原は、しばらくはそれなりの活躍を見せていたものの、西野体制となってからは監督との折り合いもあまりよくなかったようで次第に出番も減っていき、より多くの出場機会を求めての移籍志願話がオフの恒例行事となっていました。昨季の終盤はベンチからも外れるようになり、ついに移籍を決断。今年から大宮アルディージャでプレイすることになっています。

 表面上は「札幌を捨てた」という形での移籍となり、「かわいさ余って憎さ百倍」というサポーターもいる一方で、「初代生え抜きエース」としての吉原を特別な存在として感じているサポーターも決して少なくありません。プロ2年目以降から彼が好んで背負っていた「18番」の背番号は、札幌でも特別な番号として認識されていました。まぁ実際、吉原の他に18番を背負って、それに見合う活躍をしたのは山瀬功治くらいしかいませんけど。また、吉原自身もプロのキャリアをスタートし、最初の4年間を過ごした札幌は特別な場所で、移籍後もいろいろなところで札幌について触れることが多く、「第二の故郷」と考えているようです。それだけに、今でも毎オフになると吉原宏太札幌復帰話がまことしやかに囁かれたりもしますが、1996年のチーム創設時のメンバーで現在もJリーグで現役を続けているのはこの吉原ただ1人だけですから、キャリアの最後は札幌で過ごして欲しいなぁと少しだけ思ったりもしています。



【スター列伝】名塚善寛

2006年01月18日

 なんのかのといって子育てに忙しい日が続き、なかなか思うように更新できない今日この頃。実は今年初めての更新なのですが、今日は名塚善寛を取り上げてみようと思います。

 名塚は1969年10月7日千葉県船橋市生まれのディフェンダーで、習志野高校から1988年にJSL1部のフジタ工業に入団。以後1998年までの11シーズンに渡ってプレイし、1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。フジタ時代の1992年にはバルセロナ五輪代表にも選ばれ、1993年にチームがプロ化してベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)となってからも、Jリーグ昇格や天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ制覇に貢献し、また個人としても1994年にJリーグベストイレブンに選出され、またファルカン監督の下で日本代表として11試合に出場、同年のキリンカップではほぼベストメンバーを揃えたフランスにチンチンにやられ、ワールドカップに出られなかった腹いせをされましたが、7月8日に瑞穂陸上競技場で行われた対ガーナ戦で決勝ゴールを挙げています。まぁ、この時のガーナ代表は平均年齢18.5歳と実質オリンピック代表だったのですが。名塚が代表に名を連ねていた頃は「ドーハの悲劇」以降の代表混乱期にあったせいか、代表での成績自体はあまり芳しいものではありませんが、それでもベルマーレの黄金期を支えた選手の1人であったことは確かです。
 しかし、1998年オフにベルマーレ平塚はフジタ工業が経営から撤退し、高年俸の主力を軒並み放出せざるを得なくなってしまい、主力選手が各チームへちりぢりに移籍していきました。そんな中で名塚はなぜか1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。まぁそうでもなければ日本代表キャップを持つJ1チームの主力だった選手が、J2落ちした北の僻地チームに移籍してくるなんて通常考えられないんですけどね。割とドサクサ紛れっぽく札幌は優秀なDFを手に入れたわけですが、小島伸幸がアビスパ福岡へ、田坂和昭が清水エスパルスへ、洪明甫が柏レイソルへ、呂比須ワグナーが名古屋グランパスエイトへと、代表キャップを持つ他の主力がみな他のJ1チームに移籍していく中、なぜか名塚はJ2。

 ともあれ、札幌に移籍してきてからもその統率力と読みの鋭さで守備陣を統率。移籍してきた初年の1999年こそチームとしての戦い方が定まらなかった影響で昇格は逃しましたが、この年の4バックの相方センターバックがめまぐるしく変わりながらも年間失点数は35点(36試合)。これは1位の川崎フロンターレにわずか1点差の2位タイの少なさでした。そしてチームキャプテンに就任し、3バックの中央となった2000年は40試合で失点数わずか22失点、1試合平均で0.55点という鉄壁の守備陣を支え、J2優勝・J1昇格に貢献しました。また、どっちかといえば岡田武史監督(当時)好みのいぶし銀な地味目の選手でしたが、1999年から2000年の2シーズンで計6得点を挙げているように、特にセットプレイの時の得点能力もありました(得点能力という観点において1年で11点取った池内を出してはいけません)。もちろんJ1に昇格した2001年も、キャプテンマークこそ野々村芳和に譲ったもののDFリーダーとして守備陣を統率しコンサドーレの開幕ダッシュの原動力となり、名塚、森、大森の3バックは「精密機械」とまで言われました。
 しかしこの頃には既に慢性的な両足首痛に悩まされており、フル稼働は難しい状態になっていました。それでも当時の札幌は「組織的守備」といえば聞こえはいいものの、レギュラーが1人でも欠けると途端に機能しなくなる、いわばギニュー特戦隊のスペシャルファイティングポーズみたいなものでした。実際名塚が欠場した清水エスパルス戦ではいきなり5失点も喰らう大惨敗を喫してしまい、急遽北海道から遠征先に呼び出されるということもあり、休むに休めない状況だったのです。チームに欠かせない選手なのはいいことですが、藤子アニメの肝付兼太じゃあるまいし、出ずっぱりにもほどがあるってモンです。この無理がたたったのかどうかはわかりませんが、結局この年を最後に現役を引退。Jリーグ通算238試合(J1:177試合、J2:61試合)出場という偉大な記録を残しながらも、最後まで「義寛」と書かれることが多かった悲劇の人でした。
 現在はそのまま札幌に残り、コンサドーレ札幌ユースU-12のコーチとして将来のトップチームの卵たちを温め続けています。