【スター列伝】ウィル

2012年03月11日

 先日、かつて札幌でもプレイしたFWエメルソンが、高級車の密輸疑惑で逮捕か、なんてニュースが流れていましてね。それ自体は別段今更驚くことではないっていうか、むしろエメにしてはしょぼい罪状で残念ですらあるんですけど、それを伝えるYahoo!の記事で、なぜかここの「スター列伝」のエメルソンのエントリが関連リンクとして貼られてしまいまして。まぁそれはいいんですけど、ポータルサイトとしてはおそらく日本で一番利用者が多いと思われるYahoo!からリンクされた影響で、既に2年半も更新しないまま腐敗させていたブログがアクセスランキングでダントツトップになってしまいまして。今でもまめに更新していらっしゃる九州サポの独り言さんを差し置いて…というのもあまりにも申し訳なさ過ぎるので、図らずもトップをいただいた記念として久方ぶりに沈黙を破ってみることにしました。
 それにしても、なんで6年以上も前に書いた記事が今更衆目に晒される羽目になったのか今を以て理解できないのですが、「エメルソン」でググるとWikipediaやニュースなんかを除いては、スター列伝のエントリが一番トップに来るんですよね。Yahoo!の中の人もそれでリンク貼ったんだと思いますけど…。ちなみにエメに限らず、選手名でググるとスター列伝の記事が高確率で検索上位に来ちゃうみたいなので、お気をつけください(何を)。

 そんなわけで久方ぶりのスター列伝。腐敗させている間に様々な選手が出たり入ったりしているので、図らずもネタには困らなくなっています。が、ここはやっぱり…「あのお方」を置いてあるまいということで俺王様。今までも「なんで俺王様出てこないんだろう」と思われた方も多くいらっしゃると思います。実は、俺王様はトリを飾る人物として、スター列伝の最終回で取り上げようと思っていたのです。締めとしては最適じゃないですか。まさか終わりを迎える前に腐敗することになるとは自分でも思ってなかったのですよ。で、この先もいつまた腐敗するかわかったモンじゃないので、ここいらあたりでご登場願おうと思った次第です。

 「俺王様」こと本名ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラーデは、1973年12月15日サンパウロ生まれ。1992年にアトレチコ・パラナエンセでプロ生活をスタート、1998年にウニオン・バルバレンセから当時旧JFLだった大分トリニータに加入しました。当時大分の指揮を執っていたのが現在札幌の監督を務める石崎信弘監督でしたが、以後、2000年までの3シーズンの間、カップ戦、天皇杯含む95試合出場で50ゴールという驚異的な成績を記録。正確無比なキック、類い希なるキープ力、屈強なフィジカルを誇り得点を量産する一方、気性の荒さによるカードの多さ、すがすがしいまでの俺様っぷりから「俺王」の名がつけられました(名付け親は当時一世を風靡した「鳥日新聞」というサイト)。そんな「能力は高いが扱いにくい」ともっぱらの評判だったストライカーに目をつけたのが、2000年に圧倒的な成績でJ2優勝を果たしたものの、その原動力となったJ2得点王エメルソンに逃げられてしまったコンサドーレ札幌でした。
 すでにJ2チームのサポーターにはどんな選手か知れ渡っていたウィルでしたが、開幕前のキャンプでやっぱりウェイトオーバーで合流したり、戦術指導を「俺様のプレイに対する批判だと思っていた」という斜め上すぎる発言があったりする「らしい」話も聞こえてくる一方で、高所恐怖症が発覚したり、ウクレレが趣味だったりと、それまでの「怖い」イメージとはかけ離れたエピソードも伝わってきて、ウィルの実力に懐疑的だったサポーターもいつのまにか注目せざるを得ない状況に。
 そして迎えた開幕戦。セレッソ大阪とのアウェイゲームにおいて、1ゴール1アシスト1イエローという獅子奮迅の大活躍で勝利に貢献。続く高知でのホーム開幕戦(対柏レイソル)でも2ゴールを挙げ、まさかの開幕連勝に導きました。すでにこの時点で彼の実力に疑問を抱く者はいなくなったどころか、自ら「臣民」を名乗り絶対の忠誠を誓うサポーターも続出、「俺王」などと呼ぼうものなら「様をつけろよデコスケ野郎」とまで言い出すものすらいました(主にオレ)。そしてそんな臣民たちの存在に俺王様もたいそうご満悦で、札幌の街とサポーターをいたく気に入ったようです。そしてそんな中、伝説の「スーパー北斗21号事件」が起こりました。

 函館での初めての開催となった、ガンバ大阪との試合の後でした。函館を出発したスーパー北斗21号は、この試合のために札幌から遠征してきたコンサドーレサポーターをたくさん乗せて札幌へ向かっていました。FW播戸竜二(現セレッソ大阪)が挙げた虎の子のゴールを守りきって勝利した後だけに、サポーターはみな上機嫌。しかしその同じ列車には、チームから離れて別行動を取っていた俺王様ご一家も乗っていらしたのです。
 一説によれば函館のブラジル料理屋さんに行っていたと言われていますが、とにかく俺王様はお酒を召しておられたらしく、大層な上機嫌でサポーターの乗る車両に突然乱入。ひとしきり臣民との戯れをすべての車両で敢行したそうです。詳しくはこちらをご覧頂ければ、その様子がおわかりになると思います。
 この一件によって札幌サポーターはほぼ完全に臣民化。俺王様自身もそんな札幌のことをいたくお気に召したようで、忠誠を誓う臣民のために、ブラジル時代に使われていた応援歌を日本で初めて「解禁」。サポーターが渡されたそのデモテープ(?)を聴いてみたところ、歌っていたのはどう聞いても奥様の声だったそうです。ちなみに俺王様はほとんど日本語がしゃべれなかったようですが、奥様は練習場でサポーターとの世間話に興じることが出来るほど日本語が堪能でした。専用の応援歌を得た(というか与えた)俺王様は、その後も得点を量産。シーズン終盤の柏レイソル戦で受けた怪我のためフルシーズンの出場はならなかったにもかかわらず、最終的にJ1得点王となる24得点を叩き出し、2012年現在でわずか1度きりのJ1残留に大きく貢献しました。

 しかしそんな幸せな時間も長くは続きませんでした。J1最高レベルの能力を持つストライカーであることを証明した俺王様を他チームが放っておくなんてことがあるはずもないのですが、コンサドーレ札幌は大分からの期限付き移籍だった俺王様の去就をどうこうできる立場ではなかったこと、そして何よりも札幌に「J1得点王様」に見合うだけの給料を払えなかったことで、俺王様は翌年横浜Fマリノスへ移籍していきました。
 J1屈指の強豪チームへ移籍した俺王様ですが、しかし中村俊輔や奥大介といった日本代表クラスのスター選手を多く抱えるマリノスでは、札幌でのような王様扱いはチームからもサポーターからもしてもらえず、マリノスの練習場では、スター選手に群がるサポーターの横を、サインしてもらいたそうに歩く俺王様が幾度となく目撃されていたとも聞きます。1stステージこそ2位という好成績を挙げたものの、2ndステージになるとなかなか勝てなくなり、人一倍負けず嫌いな俺王様はフラストレーションがたまっていたのでしょう。10月27日の対ジュビロ磐田戦でちんたらプレイが目立っていた奥にブチ切れ、思い切り蹴り上げてしまいました。
 事態を重く見たらしいマリノスは直後に俺王様を解雇、リーグからも6試合の出場停止という厳しい処分が下されました。既に降格が決まっていた札幌はこのニュースを聞いてすぐさま俺王様の獲得打診をしたと言われておりますが、一連の事件を見てなお俺王様を使おうという奇特なチームは既になく、再び札幌でプレイすることになりました。もちろんオレも大歓喜。
 この年は俺王様のほかにも、ブラジル代表で10番をつけていたホベルッチや、同じくブラジル代表経験のあるベットらを獲得。ース山瀬功治が浦和レッズに移籍してしまったものの、他のレギュラークラスはもちろん新居辰基や今野泰幸ら有望な若手もそのまま残り、J1優勝経験を持つジョアン・カルロス監督の下、今でも史上最強とも言えるメンツを揃えて2003年シーズンに臨みました。
 ところが「キック奥事件」の出場停止が残されていた俺王様を欠いていた札幌は、なかなか守備が安定せずにセットプレイでの失点を繰り返し、スタートダッシュに失敗。それでも俺王様の出場停止が明けた第4節アルビレックス新潟戦、いわゆる「俺開幕」で勝利に貢献すると、続く大宮アルディージャ戦では起死回生の同点ゴールとなる復帰後初俺ゴールを決めます。臣民の眼前でゴールを決めた俺王様は、抱きつく平間を引きずったまま看板を超えて臣民たちに挨拶。サポーターからマフラーまでもらって大層ご満悦でした。カードはもらいましたけど(当時は看板を超えた時点でイエローだった)。そしてその翌節、ブラジルトリオが揃い踏みした室蘭でのアビスパ福岡戦ではハットトリックの大活躍で5-0の勝利に貢献。まさに俺時代の再来を予感させる大暴れでした。
 しかし、翌節のヴァンフォーレ甲府戦、荒れ放題の小瀬のピッチに足を取られたか、試合中に右足を痛めそのまま退場し、戦線を離脱。大黒柱を失った札幌はこの試合を含め3連敗を喫するなど再び低迷期に入ります。サポーターにはそれでも「俺王様が戻ってくればまだ戦える」という期待があったのですが…。俺王様は怪我で休んでいる間に深夜にススキノの飲み屋でトラブルを起こしてしまいます。詳しくは知らないのですがどうやら揉めた相手にちょっとヤバイ人たちがバックについていたらしく、コンサドーレはこのまま札幌に置いておくのはまずいと判断したのか、ほどなくして俺王様を解雇。形としてはアンドラジーニャと交換で大分に復帰となりましたが、復帰した大分では16試合で2ゴールと不甲斐ない成績に終わり、シーズン終了後に中国Cリーグの武漢に移籍。その後の活躍については記録が残っていないのでよくわかりませんが、アメリカFC(ブラジル)、アル・セイリヤ(カタール)、アトレチコ・カタラーノ(ブラジル)、アラピラケンセ(ブラジル)と渡り歩き、2008年シーズンを最後に現役を引退した模様です。

 ドリブル、シュート、プレースキック、ポストプレイ、ゴール嗅覚などいずれも高い技術を持っていた、札幌史上最高クラスのストライカーだったことは間違いないでしょう。いろんな意味で伝説の選手でした。