2005年11月30日
えー、世間では契約の更新通知で誰が構想外となるのかということで盛り上がってる中、自分語りの最初が文字通りの自分語りで申し訳ないのですけど。
11月30日13時すぎ、子供が生まれました。
つってもオレが口からタマゴを生んでそのタマゴが孵ったとかガリクソンからガルベスが生まれたとかそういうわけではもちろんなく、普通にカミさんが柴犬のメス…じゃなくて人間の女の子を生みました。母子共々健康です。まだ草津戦は残っていますが、ほぼオフシーズン突入に生まれてくれるのはなんと親孝行な娘です。立派なコンサドーレサポーターに育てて他のゴール裏メイトの2世たちとゴール裏デビューでもさせる野望を今から抱いております。
まぁ、父親に似た場合はかなりの確率でアニメオタクに育つ可能性が高いのですが。
というわけでとりあえずアウェイ遠征はしばらく自粛かなぁと思っておりますので、ゴール裏メイトの皆さんにお会い出来るのも味スタなどの関東近辺での試合に限定されてしまうかもしれませんが、なんとか愛媛くらいには行きたいなぁ。それよりも孫を見せてあげるなどと甘い言葉で実家に娘を預けて、今年行けなかったホームゲームに…。
2005年11月30日
本当は別の人を書くつもりでいたのですが、現役を引退されるということで書いてみることにします。というわけで第4回は森下仁志です。
1972年和歌山県生まれ。帝京高校から順天堂大学を経て1995年にガンバ大阪に入団。2001年のシーズン途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。当時の札幌は右サイドの出来る選手が田渕龍二の他には2年目の中尾くらいしかおらず非常に手薄だった反面、ボランチはビジュ、今野泰幸、野々村芳和、瀬戸春樹と人数はそれなりに揃っていたため、ボランチをひとり交換要因として放出し、右サイドの出来る選手を獲得しようという、まるで野球のようなトレードで札幌にやってきました。その風貌は当時の岡田監督に「板前さんみたいだね」といわれ、サポーターからは「板長」と呼ばれます。ちなみに召還する生け贄として人身御供となったのは瀬戸でした。瀬戸は当時大分からのレンタルだったため、いったん札幌が瀬戸の大分からのレンタルを解除し、大分は再びガンバ大阪へ瀬戸をレンタル、そして札幌は板長をガンバからレンタルするという感じで、右サイドの選手をひとり引っ張ってくるのに人転がしのような複雑な経緯でまで獲ってきたわけですが、来た途端に野々村が膝にケガを負って長期離脱してしまい、「GK以外ならどこでもやった」という板長は結局ボランチをやることに。右サイドはそのままいつもの通り田渕が担当し、結果として状況としては何も変わりませんでした。
しかしそれでも板長は、アウェイ鹿島戦でいきなり退場するものの、その後は縦横無尽にピッチを駆けめぐり、なおかつ一試合を通してなお衰えないスタミナを武器に活躍し、札幌の(今のところただ1回だけの)J1残留に貢献。板長自身もこの年の暮れに父親が亡くなられた際、サポーターから花束を贈られたことにいたく感動し、2002年シーズン前には相思相愛の形で札幌に完全移籍を果たすことになります。
しかし、今から考えればこの時が一番お互いにとって幸せな時期だったのかも知れません。完全移籍を果たした翌年は、引退した野々村の跡を継いでキャプテンに就任。ところが、間の悪いことにこれは岡田監督退任を受けてコンサドーレが暗黒時代に突入してしまった時期とざっくりかぶってしまいます。もともと豊富な運動量とスタミナを除いては特に秀でた武器はなかったため試合でもパスミスを連発、「気合が空回り」という言葉がそのまま当てはまるような状態となります。すべてが悪い方向に突き進んでいたチームをまとめ上げることにも失敗し、次第にチームの不協和音が外部にも漏れ伝わるようになってしまいました。特に副主将でもあった守護神・佐藤洋平との不和はサポーターの間でもまことしやかに囁かれており、結局この年チームはJ1最下位でJ2降格となります。翌2003年も引き続きキャプテンとして今度はチームの立て直しを期待されましたが、状況としてはあまり変わったこともなく、親しみを込めて使われていた「板長」という呼称も、いつしかガンバ時代の「モリゲ」というものにグレードダウンしていき、その存在もすっかり単にネタ選手の1人として扱われるようになっていってしまいます。札幌にはもうひとりU-15監督のである森下仁之氏という同姓同名のスタッフがいますが、高円宮杯で2年連続準優勝という実績を作った森下監督が「いいほうの森下」と呼ばれていたことからも、その立場は随分微妙になっていたことが伺えます。
2002年のナビスコカップ磐田戦で試合前にサポーターから渡された、サポーターの思いの丈が書き込まれたキャプテンマークをその後も大事に巻いてプレイしていたように、サポーターをとても大切にする選手でしたが、2004年には若返りの余波を受けて失意のままジュビロ磐田に移籍。磐田には既にシーズン途中に移籍していた佐藤洋平がいたのはどう考えても何かの縁だと思うのですが、伝統的にGKに恵まれなかった磐田に請われ、その通りに活躍した洋平と違い、何を目的にオファーしたのかはついぞ磐田のサポーターにも不明なまま。2004年にはリーグ・カップ計9試合に出場したものの、世代交代を推し進めた2005年はここまで1試合の出場もなく、今季いっぱいを以て現役を引退。今後は指導者としての道を進むとのことです。
板長にとって札幌でプレイしていた2年半について、本人がどのようにとらえているのかは知る由もありませんが、思えば今現在和波が苦しんでいる「キャプテンになると途端におかしくなるの法則」は、この人から始まったような気がします。
2005年11月27日
なんか書きかけの保存してたら更新してないのに新着リストに載ってしまった。「なんだよ、更新してねぇじゃん」と思われるのはシャクなのでなんか書こう。
というわけで今年も残すところあと1試合となりました。本館でも書きましたけど、この2試合は消化試合ではなく来季へ向けた足がかりとしなければなりません。我々の2006年はもう始まっているのです。今カッコいいこと言った。最終節の相手は最下位にあえぐザスパ草津。ここまで年間わずか5勝、まるで去年のどっかのチームのような成績。うちと対戦した時やスカパー!で試合を見てる限りでは、そう悪いサッカーをやってるとは思えないのですけど、やっぱり自信を失ってるんでしょうかね。こういったやっぱりお医者様でも草津の湯でも治らないものなんでしょうか。まぁ温泉で治るようなもんなら、有名な温泉どころを抱える北海道にあるコンサドーレだって去年もう少し勝ってたはずですからね。だからといって同情は無用。次節はリーグ最終戦であると同時にホーム最終戦でもあります。実はここ数年札幌のホーム最終戦はそんなに成績が悪くはなく、去年は負けましたけど降格した2002年ですら勝利しています。この時は5-4という大味な試合だったのですが、相川が林にシャイニングウィザードをくらい、森くんがFWで起用され、そしてその森くんのアシストでソダンがハットトリックとなるVゴールを決めるという見所満載の試合でした。2003年も山形を相手に4-1で大勝しています。その代わりホーム開幕戦はここ数年勝ててないですけどね。
まぁそんなわけでやっぱり勝って終わるのとそうでないのでは大きく違うと思いますので、スッキリ勝って終わりたいものです。勝負は時の運とはいえ、最下位の草津に負けたりしたらサンクスウォークがお通夜みたいになりかねませんからね。
2005年11月23日
好評なのか不評なのかあんまりよくわからないスーパースター列伝、第3回の今回はアウミールです。田渕、先生と大塚製薬出身の選手を書いたら、すっかり大塚づいてしまいましたので今回もやっぱり大塚製薬です。「じゃあ次回は磯山和司だな!」と思われるかも知れませんが、書きません。だって半年もいなかったしな。
というわけでアウミールです。本名はアウミール・モライス・アンドラーデ。1973年ブラジルのミナスジェライス州ラブラス市生まれで、1990年にマツバラでプロ選手としてのキャリアをスタート。1994年にアトレチコ・パラナエンセに移籍し、1995年に来日して1996年までの2シーズン大塚製薬でプレイしたあといったんブラジルに帰国。その後パルメイラス、ゴイアス、アメリカ・カリを渡り歩き、1999年に再来日してFC東京のJ1昇格に貢献した後、2000年にコンサドーレ札幌に東京からのレンタルで移籍してきました。通称は「ミールさん」で、東京時代はボランチのポジションを務めることが多かったのですが、札幌時代は10番を背負い、主にトップ下か左サイドでプレイしていました。札幌のこれまでの9シーズンで「10番」をつけていた選手はミールさんの他にはオテーロ、ウーゴ・マラドーナ、アシス、山瀬功治、ホベルッチ、ウリダ、中尾康二、三原廣樹と8人の選手がいますが、このミールさんはそんじょそこらの10番とはわけが違う。何しろ、単純にテクニックだけを取るならばおそらく歴代の10番の中でも一番ヘタな10番。長い足で相手からファウルせずにひょいとボールを奪う様はとっても見事だったのですが、そのボールをドリブルしようとすると今度はその長い足を持て余し、FC東京時代はサポーターからドリブルをすると何処に行くかわからないことから「糸の切れたタコ」と呼ばれていたほどです。かといってパサーというわけでもなければプレイスキックが得意なわけでもなく、魅力的な武器といえばそのつぶらな瞳くらいという感じでした。
しかしミールさん、1年半という10番期間の長さと出場試合数の多さはウーゴ・マラドーナ(1997~1998)に次いで2番目です。2000年のJ1昇格時には、チームでただ1人ケガもなければ累積警告もなく全40試合に出場しました。加えて、敬虔なクリスチャンのミールさんはブラジル人選手としてはかなりマジメな選手で、日本での経験も長く多少の日本語も理解できたため、他のブラジル人選手の間に入ってそのとりまとめ役となっていました。とりわけミールさんがいた頃の札幌はやんちゃ盛りだったエメルソンや、日本語はもちろんポルトガル語ですら通じるかどうか怪しいビジュ、俺の俺による俺のためのウィルという問題児ばかりを抱えており、そのお守り役としてのミールさんの貢献度は高かったと思います。まぁ、どっちかというと俺王様にとっては手下みたいなものだったかも知れませんけど。
そんな感じで徹底的に地味な10番だったミールさんですが、彼は同時に悲劇の人でもありました。複数のポジションをこなせるユーティリティプレイヤーではあったものの、やはり「助っ人としてはJ1ではちと足りない」という部分もあったため、2000年のオフにエメルソンの引き留めに失敗した当時の岡田武史監督が「お守り役は必要ない」という判断で構想外となってしまいます。ところが、エメルソンだけでなくビジュまでも移籍をほのめかしたため、「助っ人総取っ替え」の危険に晒されたクラブは一転ミールさんに残留を要請。端から見れば身勝手とも受け取れるこの仕打ちにもミールさんはあっさりと再契約を結びました(この決定を受けてかどうかは不明ながらも、ビジュも結局残留)。ちなみに、この後に行われた第80回天皇杯の第4回戦・対横浜F・マリノス戦で、1-1で迎えた延長戦でゴール前どフリーのシュートをミールさんがあり得ない外しっぷりを見せました。岡田監督は「勝つとブラジルに帰るのが遅れるからワザと外した」と言っていたそうですが、ミールさんなりのささやかな仕返しだったのかも知れません(試合はその後前園顔木島にVゴールを決められ1-2で敗退)。そうまでして残った翌2001年ですが、やはり力不足と判断されたのか、新助っ人アダウト獲得の煽りを受けて再びシーズン途中で解雇。つぶらな瞳の鉄人は赤黒のユニフォームを脱ぎました。
札幌を退団した後はどこのチームにも所属した形跡が見られなかったためその消息がつかめず、「札幌で料理屋をやっている」「群馬でフットサルをやっている」「浅草でサンバを踊っているのを見た」「ティターンズの一員としてジオンの残党狩りをしている」など真偽不明の目撃談も飛び交いましたが、2003年にコリチーバに入団し、今はブラジルのポルトゲーザでボランチとして元気にサッカーを続けています。
2005年11月16日
第2回は「先生」こと古川毅です。1972年生まれ、青森県五戸市出身。五戸高校から1991年に仙台大学に入学、大学卒業後の1995年に大塚製薬に入団し、1997年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。第1回で紹介した田渕とは同い年で、共に同じ大塚製薬でプレイ(ただし学年は田渕のほうがいっこ上で、高卒で入団した田渕のほうが大塚では先輩)、コンサドーレに移籍してきた年も同じならば、さらには退団した年も一緒という一心同体少女隊(知ってる人は30代以上)。ちなみに「先生」と呼ばれている理由は実はオレも確かなことは知らないのですが、教職員免許を持っているからというのが由来のようです。今でこそJリーガーで教員免許を持っている選手も少なくないのかも知れせんが、当時は珍しかったのでしょう。
さて、この古川先生、ポジションは札幌では主に3バックの中央を務めていたのですが、とてもふしぎなプレイヤーでした。ソダンのように空中戦に強いわけでもなく、カガケンのようにスピードがあるわけでもなく、池内アニキのように読みが鋭いわけでもなく、西澤画伯のように対人に強いわけでもなく、名塚のように統率力に優れているわけでもなく、ホンコンのようにフィードがうまいわけでもない。強いて長所を挙げるならカバーリングがうまいと言えるくらいで、よく言えばトータルとしてバランスの取れたディフェンダー、悪く言えば普通の人。じゃあ全然特徴がないのかと言われればそういうわけではなく、むしろ特徴ありまくりでした。その他にも、腕を水平に振って走る「先生走り」、前ではなく真上にクリアする「先生クリア」、ヒジと手を水平にして叩く「先生拍手」など数々の「先生技」を編み出しました。いずれもプレイとはほとんど関係ありませんけど。
しかし先生の最大の特徴、それは「スペクタクル」でしょう。1試合に1度は必ず何かやらかします。そのやらかしっぷりは今のソダンなど比較になりません。しかし特筆すべきことは、たとえやらかしてもそれがなぜか直接失点には結びつかないところ。といってもそれは当時守護神だった佐藤洋平の神セーブによるところが大きかったのですけど、それでも相手が勝手にミスしてくれることも多く、古川先生の周囲には異次元ワールドが広がっていたに違いありません。その数々のスペクタクルの中でも特に印象深いのが2001年9月22日の万博でのガンバ大阪戦。札幌のペナルティエリア内で古川先生がクリアできず、ボールはガンバのFW松波正信の前にぴたりと止まったのですが、お互いビックリしたのか止まったボールを挟んだまま先生と松波が硬直したままお見合いしていたという爆笑シーンは今でも鮮烈に憶えています。
というわけで、これといった得意技を持たないかわりに、かといって特に大きな欠点もなく(スペクタクルはむしろ長所)、ベンチに置くには格好の選手だったためか、札幌に在籍していた7シーズンの間、開幕当初は必ずサブかもしくはベンチ外でした。しかしシーズンが進むといつの間にかしっかりスタメンに名を連ねており、定位置を確保しかと思えば翌年開幕するとやっぱりスタメンにはいないという不思議な選手でした。
とはいえそれでもまたいつの間にかスタメンに入っているということは、たとえ試合に出られなくても腐らずに常にコンディションを整え、いつ来るかもわからない出番に備えていたからでしょう。決してスーパーな選手ではなかったかも知れませんが、そのプロ意識は一流でした。
そんな感じでサポーターから愛された先生でしたが、J2降格となった2002年シーズンを最後に残念ながらチーム構想外となり、モンテディオ山形に移籍。山形ではその経験を買われてキャプテンマークを巻いてプレイすることも多く、2004年に現役を引退するまでリーグ戦と天皇杯計64試合に出場、2得点を挙げました。現在は京都パープルサンガ育成普及コーチを務め、文字通りの「先生」としてU-15チームを指導しています。
古川先生がコンサドーレに戻ってくることはないかも知れませんけど、先生がつけていた背番号14は、これからも「スペクタクルの象徴」として受け継がれて行くに違いありません。がんばれタバタン(何を?)。
2005年11月11日
Amazonにログインすると新作のアニメやらコミックやらゲームばかりをお薦めされるchooです。こんばんは。恐るべきデータマイニングに思わずクリックしてしまい、そしてカミさんに白い目で見られるわけです。
というわけでなんだか本館とここ、日替わりで更新してるような気がしますけど、まんまとHFCの策略にのせられているんですかねこれは。書けば書くほどクラブが儲かる(たぶん)かわりに、書けば書くほどオレの寝る時間が減る。ある意味これは試されてるわけですね。チーム愛を。試されるサポーターですね。寝る間も惜しんでクラブのために更新しろと。この1文字が糧となり、この1文字が糧となる。迷わず書けよ書けばわかるさ。そんで今日もこんな時間。いや、アニメ見てたからなんですけど。
さて、今回はそろそろ自分語りというのをやってみましょうかなぁなんて思ったんですけど、いざやろうとするとこっぱずかしくてなかなか出来んものですね。そもそも本館でなんで今まで自分語りやらなかったのかといえば、「サッカー百鬼夜行」を訪れてくれる方は、文章を読みに来ているのであってオレ本人に興味があるから来ているのであって、簡単に言えば「別にオレのことなんて興味ないっしょ?」という話ですしね。ここのオフィシャルブログは、札幌のサポーターが「consadole.net」というドメインのもとに集まってブログを構えるという、いわば竪穴式です。ですから何となくいい意味で垣根が低いというか、同じ旗印を掲げることの親近感がありますけど、そうは言ってもここでブログやってる人たちの全員を知ってるわけじゃない、というかむしろ知らん人のほうが多いわけですから、まぁ若干の気後れがないわけでもないのですよね。こう見えてシャイなんですよ。うん、シャイボーイ。断固としてボーイだ。あとシャアでもない。どっちかというと通常の1/3の脳力です。明らかに脳足りてません。みんなオラに人間力を分けてくれ。
で、何の話でしたっけ。ああ、自分語りの話ですね。まぁそんな感じですからなんか書くネタさえあれば特に自分語りは必要ないのかなぁなんて思い始めてきてもいるわけで。需要があればサポーターになったきっかけとかいろいろと書けることは書けますけど、ぶっちゃけ大したきっかけでもような気もする。まぁ世間には朝起きたらいきなり自分が1匹の虫になってるのを発見したり、普通の中学生がある日突然神様になっちゃってたり、ある日いきなり家に元戦闘アンドロイドなメイドさんがやってきたりしますので何があったって不思議じゃないんですけど、そんなドラマチックなプロローグがあるはずもなく、今日も今日とて午前3時。
あ~きのとやのチーズケーキが食いてえ。
2005年11月09日
すっかり忘れていましたが、実は本館が先月1日をもって満5周年を迎えています。さっき気づいた。
「サッカー百鬼夜行」は2000年、J1昇格を目前としていた10月1日に誕生、正確に言うとホームページ自体はそれより1年以上前からやっていたのですが、今のコンサドーレのサポーターサイトの形式で生まれ変わってから5周年ということになります。ちなみにその前のサイトの内容は、今から考えると信じられないことながら日本代表についてのサイトでした。つっても内容自体は「日本代表のユニフォームが青なんて信じられん! 日本は黄金の国なんだから金色にしてついでに写楽の絵でも入れてしまえ!」とか、当時は「日本が世界で戦うにはマリーシアとフィジカルが足りない」なんて言われていた時代でしたが、「だったら並び列に平気で割り込むしタイムバーゲンの押し合いで負けないおばちゃんを日本代表にするべきだ」とか、書くネタは変わっても全く進歩してないのが伺えますね。
まぁそんなわけで何というか気が付いてみれば「サッカー百鬼夜行」もう6年目に突入しました。実は先日、Wikipediaの「コンサドーレ札幌のページ」をつらつらと更新してみて、ホント10年の間いろいろあったんだなぁと改めて思ったわけなんですが、その中でも後半の5年間はこの間のチームはJ1昇格&J2優勝、J1残留、J1最下位、J2最下位とありとあらゆる体験をしてきてるんですよね。まぁしたくもない体験も多いんですけど、その波瀾万丈な歴史をそのまんまつづってきたわけです。去年くらいにいったんサイトを閉めてブログとして生まれ変わったのですけど、今までのログも全部ブログのエントリとして入れ直したら、今では670以上のエントリ数になっておりまして、よくもまぁこんだけ書いたもんだと自分のことながらビックリするやらあきれるやら。何事においてもそうですが、ホームページというのも作るのは簡単ですが続けることが一番難しい。どっかのジネイブログみたいにすぐ腐敗するのは、別段珍しいことではないのです。あ、ジネイブログはまだ腐敗してませんね。吉田ブログのほうか。一部の人しかわからんネタですが。
で、話を元に戻しますと、自分自身今は普通のサラリーマンやってますけどいつかは物書きで生計を立てられればいいなぁと思うくらい文章を書くのが好きなので、それなりに続けてこられているのだと思います。でも一番大きいのは「見てくれている人が多い」ということでしょうかね。本館のほうもおかげさまで平均で1日約1800くらいのアクセスがありますし、先日販促企画営業部のブログで発表されたアクセスランキングでは、アクセス数は不明ながらもこの別館も7位にランクインされ、サポーターブログでは2位と多くの方に見ていただいているようです。まぁ「読者が多い」というのは一歩間違えればそれがプレッシャーになる可能性もあるわけですが、今のところは更新意欲に繋がっていまして、特に重荷にはなっていませんので、本館・別館ともこれからもライフワークとしてやっていくつもりです。ゆくゆくはマイスター乙HiMEを目指して頑張っていくんだってばっちゃが言ってた。
2005年11月08日
というわけで「スーパースター列伝」、記念すべき第1回目を飾る選手といえば、この人しかいないでしょう。田渕龍二です。「どーせ1発目は俺王様なんだろ?」とか思っていた方もいらっしゃるかと思いますが、田渕です。なぜ田渕かって言われても、だって好きなんだもん。
徳島県出身で徳島商高から1991年に大塚製薬(現徳島ヴォルティス)に入団し、1997年にコンサドーレ札幌に移籍してきた田渕は、2003年にヴィッセル神戸に移籍するまでの7年間、右サイドのレギュラーとして出場し続けました。そのプレイスタイルはまさしく「いぶし銀」という言葉がよく似合い、そのプレイスタイル同様本人も一言で言えば「職人」。それも、ススキノの雑居ビルで炉端焼き屋を営み、無口で客には愛想がないが腕は一流、普段は頑固だが家族には優しい父親ってタイプの職人でした。ここまでいってすんなりと「コロポックリ」という単語が頭に浮かんだ方、そんなあなたはけっこうトシですので気をつけてください。ちなみにオレは東京に出てきた時、高田馬場の栄通が実在したことに感動して「ルブラン」という店を探したりしましたけど当然田渕とは関係ありません。
さて、田渕の最大の武器といえば、やはり「トラップ」でしょうか。マジでこの田渕のトラップは芸術品でした。オレがサポーターとして札幌の試合を見始めた1999年から田渕が退団するまでの4年間、田渕がトラップミスをしたシーンなんてほとんど見たことがありません。マジでトラップだけなら日本代表クラスと言っても過言ではなかったと思います(どっちかというと過言)。田渕のもっとも印象に残るゴールといえば、やはり2000年7月29日、厚別での浦和レッズ戦の同点ゴールなんですが、このゴールもエメルソンからの鬼のような愛のないサイドチェンジパスをぴったり止め、トラップ後のボールを狙っていた浦和DFが飛び込めずにいたところ一瞬で交わして左足で叩き込んだというものでした。終了間際の大森健作のゴールと共に伝説となったこのゴールも、そのトラップが生んだようなものです。まぁ、結局このゴールがプロ最後のゴールとなったんですけどね。
あと印象に残っているプレイといえば、2001年5月19日の磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)でのジュビロ磐田戦でしょうか。この試合、当時無敵を誇っていた磐田に対し、後半に和波智広のゴールで先制した札幌がロスタイムまでそのリードを守っていたわけですが、その和波のゴールをアシストしたのが田渕でした。アウミールからの「行ってこいロングパス」に追いつき、そのまま上げたクロスが逆サイドからぶっ飛んできた和波がヘディングで決めています。直前まで自陣で守備をしており、「いるはずのない場所」に現れた和波も見事だったのですけど、田渕のクロスももう「ここしかない」という見事なものでした。ただこれ以外にも多くのアシストを決めているハズなんですけど、何でか知らんけどこれ以外のアシストが記憶にないくらい守備的なイメージの強い選手なんですよね。
しかしその後は年齢的な衰えもあったのかスピードに陰りが見え始め、得意だったはずのディフェンスでも1対1で置いて行かれるシーンが多く目に付くようになります。結局2002年シーズンを最後にコンサドーレを構想外となったのを最後にいったんは現役を退きます。しかし翌2003年に路木龍次が引退して右サイドの出来る選手が足りなくなったヴィッセル神戸に入団。リーグ戦、カップ戦計16試合に出場しましたがオフに構想外となり、プロ生活にピリオドを打ちました。
その後は故郷徳島で自動車教習所の教官を務める傍ら、大塚クラブというアマチュアクラブでサッカーを続けており、今年の国体にも徳島県選抜として出場していました。東京都選抜に6点喰らって負けちゃったみたいですけど。
その在籍期間の長さや浦和戦での一世一代の大仕事もあってかその存在感は絶大で、オレは今でも「コンサドーレ札幌の背番号2」といえば真っ先に俺達のモリ…いや田渕を思い出してしまいます。
2005年11月05日
百鬼夜行本館のトップページのサイドバーにここのRSSフィードを表示してみました。これで本館からこっちの更新状況を把握することができますし、懸念だった「入り口が2つあることの不便」もだいぶなくなると思います。欲を言えばこっちからも同じように本館のRSSを表示させたいのですが、いろいろといじりまくらないといけないので無理ですね。
さて、こっちで書くネタですが、今のところは前回も書いた「自分語り」の他に、もう一つ「コンサドーレスーパースター列伝」なんてものもやってみようと思っています。残りわずかですけど今季は実はコンサドーレ札幌が出来てから10年目にあたります。10年という歳月は意外と長いもの。オレは10年前もハタチでしたが、ジオンがネオジオンになるのに充分な時間です。今のサポーターの皆さんの中には前のJリーグ時代やJ2時代はもちろん、J1時代すら知らない方もいます。そういう方にとっては昔のことはわかりませんし、自分たちもともすれば昔のことは忘れてしまいがちです。まぁ出来れば忘れてしまいたいことも多いんですけど、そのうち思い出したくても思い出せなくなる時期が来るかも知れませんから、節目の10年はこれまでを振り返るにはとてもいいタイミング。Ultras' Sapporoも非公式で記念本を出すそうですが、実はオレも10年目の記念行事として、かつてコンサドーレに所属していた選手たちを自分なりに紹介していこうと思っていたんですよね。ただ、月コンではちょっと無理ですし、関東での開催の時にゴール裏で配っているCWPも、関東での試合が減ってしまったため事実上休刊状態。本館はチームのネタを追うのに忙しく、選手どころか最近は観戦記すらも絶賛さぼり中。そんな感じなので、ちょうどいい機会だからこっちでちょこちょこ書いていこうかなぁと思っております。つってもオレが本格的に試合を見始めたのは1999年くらいからですので、それより以前はあまり詳しくはないんで、1999年以降からの選手が中心になると思いますが、ともかく「スーパースター列伝」お楽しみに。
2005年11月04日
オフィシャルブログということで作ってみました。
いやもうおまえ独自ドメインでブログ運用してるじゃんと言われそうなんですが、昨晩ここにもブログを作れと夢枕に出てきたご先祖様に言われてしまったので、何か書かないといけないような感じなのです。で、移転も考えたんですけど、ドメイン捨てるとメールアドレスとかいろいろと面倒なので今んとこ本家「サッカー百鬼夜行(http://www.kingofsapporo.com/)はそのまま続ける予定です。で、こっちはその本家のミラーサイトにしようかと思ったんですけど、よく考えてみれば別にミラーおくほどアクセスあるわけでもありません。ここまで本家百鬼夜行ではあえて「自分語り」はしてこなかったので、こっちではサポーター個人としてのことをいろいろと書いていこうかなぁと思っております。どこまで棲み分け出来るかわかりませんけどね。気づいてみれば「勝手に改蔵」と「さよなら絶望先生」の違いくらいしかなくなるような気もしますけど、とりあえずはよろしくお願いします。
プロフィール
なまえ:choo コンサドーレ札幌応援?サイト「サッカー百鬼夜行(http://www.kingofsapporo.com/)」管理人。「月刊コンサドーレ」でもコラム書いてたこともあります。札幌出身、現在東京都練馬区在住。北海道を愛する20歳。一児の父。
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