2012年05月30日
もうやめると思った? 残念、まだ続くのでしたー。 というわけで、忘れた頃に更新するサイト、サッカー百鬼夜行別館でございます。まぁ本館のほうも週一更新ペースになっちゃってますけど。そして既にこのために存在していると言っても過言ではない「スーパースター列伝」、今回取り上げるのは、今でも一部で根強い人気を誇るノナトです。 2007年に三浦俊也監督の下でJ2優勝を達成しJ1への昇格を果たした札幌でしたが、優勝したとは言っても並み居る敵を叩きつぶしてのものでは決してなく、むしろJ2でもそう恵まれていたわけではない戦力ながら、しぶとく守り少ないチャンスをものにしていく戦い方を徹底してきたのが功を奏した格好でした。J1に上がったからと言って大幅に収入が増えるわけでもなく、補強に使える資金もたかが知れている事情の中で、どこまでJ1で戦えるようにするか。リーグ最少失点を支えたCBブルーノ・クアドロスが退団してしまいましたが、札幌の採った策は単純にその穴を埋めるのではなく、攻撃力を上げることでした。 思いのほか活躍したFWダヴィもJ1では未知数でしたし、J2最少失点の守備とは言っても、強力なアタッカーの揃うJ1では1-0で勝つサッカーは難しい。かといってボールを支配する攻撃的なサッカーなんてどだい無茶な話。であれば、ヘタにブルーノの穴を埋めるよりも、2001年の俺王様のような少ないチャンス、少ない人数で確実に点を取れるストライカーを補強しよう、となるのは当然の成り行きです。そこで白羽の矢が立てられたのが、ノナトという選手でした。 本名をライムンド・ノナト・ジ・リメイラ・リベイロ。1979年7月5日生まれ、Wikipediaにはブラジルのパラー州ヴィセウの生まれとあります。1998年にバイーアでプロのキャリアをスタートし、以後韓国の大邱、ソウル、ブラジルのゴイアス、フォルタレーザでプレイ。バイーアでは通算133得点というクラブ記録を保持、韓国でも得点ランキング2位となる13ゴールを挙げ、アジアのサッカーでの実績をひっさげ、札幌にやってきました。 さて、この時は2008年。21世紀に入って各家庭にもブロードバンドが普及したことで、それまではテキストと画像が中心だったインターネットでも動画が使われることが多くなってきました。さらに2000年代も後半になるとYouTubeをはじめとした動画投稿サイトが出現。誰でも手軽に動画が公開できるようになったことで、世界中の様々な動画情報で手に入るようになりました。日本では放送されることなどないチームの試合映像なんかも見られるようになっていたのです。助っ人選手はいろいろな意味で未知数ですから、果たしてどんな選手なのか気になるのは当然のことですが、そんなサポーターたちにとって、インターネットは強力な武器となっていました。まぁそれでも(それこそ来日前のダヴィのような)マイナーな選手は探すのにも苦労するのですが、さすがにクラブ記録を持つ選手だけあって、少し探しただけでわんさかと関連動画が出てきました。 さて、札幌は確かによわっちいチームですが、それでも過去には何人もの優れたストライカーが在籍していました。ホルヘ・デリーバルデス、エメルソン、ウィル、フッキ…いずれも強力なストロングポイントを持ち、札幌でリーグ得点王か、もしくはそれに準ずる結果を残した選手たちを直に見ているので、ストライカーを見る目は割と肥えています。そんな札幌サポーターの目から見たノナトは、文字通りに肥えていました。タレントの松村邦洋さんのような体型です。サッカー選手とは思えません。 そしてプレイスタイルも、デリーのように高さがあるわけでもない、エメのように爆発的なスピードがあるわけでもない、俺王様のように正確無比なキックがあるわけでもない、フッキのように超人的なパワーがあるわけでもない。強いて挙げるならなぜかフリーになっているポジショニングか、というところですが…それを生かすには、味方のお膳立てが必要となります。うん、それって要するに、札幌に合わないんじゃないのカナ? というわけで、来日前からなんだか不安な感じがぷんぷん漂ってはいたものの、その一方でその関連動画からわかったのが、「応援チャントがやたらとかっこいい」ことでした。単純に盛り上がりそうというのもありましたが、何より日本でも自分の昔のチャントを聞けば、気持ちよくプレイしてもらえるに違いないと、サポーターは日本語にすれば「ノナト、恐怖の闘牛士」というポルトガル語の歌詞(?)を動画のコメントから拾い出し、しっかりものにしました。 結論から言いますと、それが報われることはありませんでした。 来日した直後に「オフの間はあんまり身体を動かしてなかった」と悪びれもせずにコメントし、85kgという明らかなウェイトオーバーでチームに合流、キャンプがスタートしてからもいっこうに体重が減らないこと、テストマッチでも点を取れていないことなど不安だらけで、熊本で行われた韓国Kリーグの水原サムスン戦を見に行った自分も<strong>これは本当にダメかもしれない</strong>と思ったものですが、それでも俺王様をはじめとした前例から、ブラジル人は練習の評価はあまりあてにならないことから、楽観視はしてたんですよ。ボールを蹴るのはうまかったですしね。きっと本番までにはコンディションを挙げてくるに違いない…と思っていたら、開幕直前に怪我。3月23日に行われたナビスコカップの川崎フロンターレ戦で復帰したものの、特にこれといった仕事もできないまま前半で交代。三浦監督からも散々な評価を賜ったノナトが次にサポーターの前に姿を現したのは、それから2週間後の4月5日。リーグ戦でのFC東京都のアウェイ戦でした。この試合にベンチ入りしたノナトは、1点を追う後半41分に中山元気との交代で登場。直後に右サイドのオープンスペースに出たパスに走り込んだノナトは、折り返しのクロスを上げようとしましたが…右足で蹴ったボールはものすごいアウト回転でゴール裏に置いてあるスポンサーの看板を直撃。 ………。 実際やってみるとよくわかるのですけど、前に転がっていくボールを90度もしくはマイナス方向に蹴ろうとするならば、ボールよりも先に踏み込んで、腰を回してかぶせるようにして打たないといけないのですよね。ああいう風にアウトにかかってしまうのは、ボールに追いつけていないか、または腰が回っていないかどちらかなんですけど、いずれにせよプロの試合ではほとんどお目にかかれないプレイです。思わず目が点になったのはオレだけではなかったようで、直後に映った三浦監督の怒りとも悲しみともつかない表情は、一生忘れることができないでしょう。 そして、その伝説のクロスを最後にノナトがトップチームの試合でプレイする姿を見ることはありませんでした。当時はまだ参加していたサテライトリーグでキレキレだったとか、華麗なるバイシクルを疲労としたとか、いくつかの都市伝説ともつかないレポートはありましたが、結局6月14日にノナトとの契約解除が発表されました。 コンサドーレを退団してからは、徳島ヴォルティスの入団テストを受けたりしたらしいですが、契約には至らずブラジルに帰国。Wikipediaなどによれば2012年現在でも現役を続けているようですが、札幌退団後5シーズンでのべ11チームを渡り歩いているようです。
2012年03月11日
先日、かつて札幌でもプレイしたFWエメルソンが、高級車の密輸疑惑で逮捕か、なんてニュースが流れていましてね。それ自体は別段今更驚くことではないっていうか、むしろエメにしてはしょぼい罪状で残念ですらあるんですけど、それを伝えるYahoo!の記事で、なぜかここの「スター列伝」のエメルソンのエントリが関連リンクとして貼られてしまいまして。まぁそれはいいんですけど、ポータルサイトとしてはおそらく日本で一番利用者が多いと思われるYahoo!からリンクされた影響で、既に2年半も更新しないまま腐敗させていたブログがアクセスランキングでダントツトップになってしまいまして。今でもまめに更新していらっしゃる九州サポの独り言さんを差し置いて…というのもあまりにも申し訳なさ過ぎるので、図らずもトップをいただいた記念として久方ぶりに沈黙を破ってみることにしました。 それにしても、なんで6年以上も前に書いた記事が今更衆目に晒される羽目になったのか今を以て理解できないのですが、「エメルソン」でググるとWikipediaやニュースなんかを除いては、スター列伝のエントリが一番トップに来るんですよね。Yahoo!の中の人もそれでリンク貼ったんだと思いますけど…。ちなみにエメに限らず、選手名でググるとスター列伝の記事が高確率で検索上位に来ちゃうみたいなので、お気をつけください(何を)。 そんなわけで久方ぶりのスター列伝。腐敗させている間に様々な選手が出たり入ったりしているので、図らずもネタには困らなくなっています。が、ここはやっぱり…「あのお方」を置いてあるまいということで俺王様。今までも「なんで俺王様出てこないんだろう」と思われた方も多くいらっしゃると思います。実は、俺王様はトリを飾る人物として、スター列伝の最終回で取り上げようと思っていたのです。締めとしては最適じゃないですか。まさか終わりを迎える前に腐敗することになるとは自分でも思ってなかったのですよ。で、この先もいつまた腐敗するかわかったモンじゃないので、ここいらあたりでご登場願おうと思った次第です。 「俺王様」こと本名ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラーデは、1973年12月15日サンパウロ生まれ。1992年にアトレチコ・パラナエンセでプロ生活をスタート、1998年にウニオン・バルバレンセから当時旧JFLだった大分トリニータに加入しました。当時大分の指揮を執っていたのが現在札幌の監督を務める石崎信弘監督でしたが、以後、2000年までの3シーズンの間、カップ戦、天皇杯含む95試合出場で50ゴールという驚異的な成績を記録。正確無比なキック、類い希なるキープ力、屈強なフィジカルを誇り得点を量産する一方、気性の荒さによるカードの多さ、すがすがしいまでの俺様っぷりから「俺王」の名がつけられました(名付け親は当時一世を風靡した「鳥日新聞」というサイト)。そんな「能力は高いが扱いにくい」ともっぱらの評判だったストライカーに目をつけたのが、2000年に圧倒的な成績でJ2優勝を果たしたものの、その原動力となったJ2得点王エメルソンに逃げられてしまったコンサドーレ札幌でした。 すでにJ2チームのサポーターにはどんな選手か知れ渡っていたウィルでしたが、開幕前のキャンプでやっぱりウェイトオーバーで合流したり、戦術指導を「俺様のプレイに対する批判だと思っていた」という斜め上すぎる発言があったりする「らしい」話も聞こえてくる一方で、高所恐怖症が発覚したり、ウクレレが趣味だったりと、それまでの「怖い」イメージとはかけ離れたエピソードも伝わってきて、ウィルの実力に懐疑的だったサポーターもいつのまにか注目せざるを得ない状況に。 そして迎えた開幕戦。セレッソ大阪とのアウェイゲームにおいて、1ゴール1アシスト1イエローという獅子奮迅の大活躍で勝利に貢献。続く高知でのホーム開幕戦(対柏レイソル)でも2ゴールを挙げ、まさかの開幕連勝に導きました。すでにこの時点で彼の実力に疑問を抱く者はいなくなったどころか、自ら「臣民」を名乗り絶対の忠誠を誓うサポーターも続出、「俺王」などと呼ぼうものなら「様をつけろよデコスケ野郎」とまで言い出すものすらいました(主にオレ)。そしてそんな臣民たちの存在に俺王様もたいそうご満悦で、札幌の街とサポーターをいたく気に入ったようです。そしてそんな中、伝説の「スーパー北斗21号事件」が起こりました。 函館での初めての開催となった、ガンバ大阪との試合の後でした。函館を出発したスーパー北斗21号は、この試合のために札幌から遠征してきたコンサドーレサポーターをたくさん乗せて札幌へ向かっていました。FW播戸竜二(現セレッソ大阪)が挙げた虎の子のゴールを守りきって勝利した後だけに、サポーターはみな上機嫌。しかしその同じ列車には、チームから離れて別行動を取っていた俺王様ご一家も乗っていらしたのです。 一説によれば函館のブラジル料理屋さんに行っていたと言われていますが、とにかく俺王様はお酒を召しておられたらしく、大層な上機嫌でサポーターの乗る車両に突然乱入。ひとしきり臣民との戯れをすべての車両で敢行したそうです。詳しくはこちらをご覧頂ければ、その様子がおわかりになると思います。 この一件によって札幌サポーターはほぼ完全に臣民化。俺王様自身もそんな札幌のことをいたくお気に召したようで、忠誠を誓う臣民のために、ブラジル時代に使われていた応援歌を日本で初めて「解禁」。サポーターが渡されたそのデモテープ(?)を聴いてみたところ、歌っていたのはどう聞いても奥様の声だったそうです。ちなみに俺王様はほとんど日本語がしゃべれなかったようですが、奥様は練習場でサポーターとの世間話に興じることが出来るほど日本語が堪能でした。専用の応援歌を得た(というか与えた)俺王様は、その後も得点を量産。シーズン終盤の柏レイソル戦で受けた怪我のためフルシーズンの出場はならなかったにもかかわらず、最終的にJ1得点王となる24得点を叩き出し、2012年現在でわずか1度きりのJ1残留に大きく貢献しました。 しかしそんな幸せな時間も長くは続きませんでした。J1最高レベルの能力を持つストライカーであることを証明した俺王様を他チームが放っておくなんてことがあるはずもないのですが、コンサドーレ札幌は大分からの期限付き移籍だった俺王様の去就をどうこうできる立場ではなかったこと、そして何よりも札幌に「J1得点王様」に見合うだけの給料を払えなかったことで、俺王様は翌年横浜Fマリノスへ移籍していきました。 J1屈指の強豪チームへ移籍した俺王様ですが、しかし中村俊輔や奥大介といった日本代表クラスのスター選手を多く抱えるマリノスでは、札幌でのような王様扱いはチームからもサポーターからもしてもらえず、マリノスの練習場では、スター選手に群がるサポーターの横を、サインしてもらいたそうに歩く俺王様が幾度となく目撃されていたとも聞きます。1stステージこそ2位という好成績を挙げたものの、2ndステージになるとなかなか勝てなくなり、人一倍負けず嫌いな俺王様はフラストレーションがたまっていたのでしょう。10月27日の対ジュビロ磐田戦でちんたらプレイが目立っていた奥にブチ切れ、思い切り蹴り上げてしまいました。 事態を重く見たらしいマリノスは直後に俺王様を解雇、リーグからも6試合の出場停止という厳しい処分が下されました。既に降格が決まっていた札幌はこのニュースを聞いてすぐさま俺王様の獲得打診をしたと言われておりますが、一連の事件を見てなお俺王様を使おうという奇特なチームは既になく、再び札幌でプレイすることになりました。もちろんオレも大歓喜。 この年は俺王様のほかにも、ブラジル代表で10番をつけていたホベルッチや、同じくブラジル代表経験のあるベットらを獲得。ース山瀬功治が浦和レッズに移籍してしまったものの、他のレギュラークラスはもちろん新居辰基や今野泰幸ら有望な若手もそのまま残り、J1優勝経験を持つジョアン・カルロス監督の下、今でも史上最強とも言えるメンツを揃えて2003年シーズンに臨みました。 ところが「キック奥事件」の出場停止が残されていた俺王様を欠いていた札幌は、なかなか守備が安定せずにセットプレイでの失点を繰り返し、スタートダッシュに失敗。それでも俺王様の出場停止が明けた第4節アルビレックス新潟戦、いわゆる「俺開幕」で勝利に貢献すると、続く大宮アルディージャ戦では起死回生の同点ゴールとなる復帰後初俺ゴールを決めます。臣民の眼前でゴールを決めた俺王様は、抱きつく平間を引きずったまま看板を超えて臣民たちに挨拶。サポーターからマフラーまでもらって大層ご満悦でした。カードはもらいましたけど(当時は看板を超えた時点でイエローだった)。そしてその翌節、ブラジルトリオが揃い踏みした室蘭でのアビスパ福岡戦ではハットトリックの大活躍で5-0の勝利に貢献。まさに俺時代の再来を予感させる大暴れでした。 しかし、翌節のヴァンフォーレ甲府戦、荒れ放題の小瀬のピッチに足を取られたか、試合中に右足を痛めそのまま退場し、戦線を離脱。大黒柱を失った札幌はこの試合を含め3連敗を喫するなど再び低迷期に入ります。サポーターにはそれでも「俺王様が戻ってくればまだ戦える」という期待があったのですが…。俺王様は怪我で休んでいる間に深夜にススキノの飲み屋でトラブルを起こしてしまいます。詳しくは知らないのですがどうやら揉めた相手にちょっとヤバイ人たちがバックについていたらしく、コンサドーレはこのまま札幌に置いておくのはまずいと判断したのか、ほどなくして俺王様を解雇。形としてはアンドラジーニャと交換で大分に復帰となりましたが、復帰した大分では16試合で2ゴールと不甲斐ない成績に終わり、シーズン終了後に中国Cリーグの武漢に移籍。その後の活躍については記録が残っていないのでよくわかりませんが、アメリカFC(ブラジル)、アル・セイリヤ(カタール)、アトレチコ・カタラーノ(ブラジル)、アラピラケンセ(ブラジル)と渡り歩き、2008年シーズンを最後に現役を引退した模様です。 ドリブル、シュート、プレースキック、ポストプレイ、ゴール嗅覚などいずれも高い技術を持っていた、札幌史上最高クラスのストライカーだったことは間違いないでしょう。いろんな意味で伝説の選手でした。
2009年08月17日
突然思い出したように更新してみると何かあったのではないかと勘ぐられるのがこの別館。久しぶりの更新のスーパースター列伝は、選手ではなく監督にスポットを当ててみようかと思います。取り上げるのはラドミロ・イバンチェビッチ監督です。 前年のJ1残留に大きく貢献した主力選手を何人も失ったチームを、S級ライセンスを取ったばかりで監督経験はおろかJリーグでのコーチ歴すらない新人監督の柱谷哲二監督に任せるという、これで勝てるほうが不思議というような陣容で戦った2002年、そんなギリギリのチームが大方の予想を覆して快進撃を重ねる、なんてマンガみたいな話が実際あるはずもなく、頼みの助っ人も大ハズレと来た日には全然勝てるはずもなく開幕から負けを重ね、「やっぱり監督は経験豊富な人じゃないとダメだよね」などと今更のように思ったのかどうかはわかりませんが、協会に無理を言ってまで就任させた柱谷監督を6月に解任した後、J1残留の命運を託すべくユーゴスラビア(当時)からやってきたのが、このイバンチェビッチ監督でした。 過去いくつものチームを降格から救った「サルベージの名人」という触れ込みで、スペインのレアル・オビエドからやってきたイバンチェビッチ監督は、初めて見た時はセルビア人とは思えない下町のオッサン的な風貌に度肝を抜かれたものですが、その練習メニューの豊富さから、「千のメニューを持つ男」と言われており、「千の顔を持つ男」といえばミル・マスカラスであり、「千の風になって」といえば「おっと、ここは用心しなければならない」であり、「千と千尋の神隠し」といえばそのパヤオワールド全開っぷりに最後まで何が言いたいのかさっぱり理解できなかったのであり、「崖の上のポニョ」はPV見てあまりの声優陣のへたくそさに見る気を失ったわけですが、そしてそれらはイバンチェとは全然関係はなく、新たな監督のもとでわずかな望みに賭けての崖っぷちからの立て直しが始まりました。 幸か不幸か、この年はワールドカップによるJリーグ中断期間があり、札幌のようにワールドカップの喧噪をよそに選手の誰1人も代表に送り込んでいない蚊帳の外チームにとっては、再び鍛え直すチャンスとなります。ただそれでも就任から1ヶ月足らずという時間は決して充分とは言えなかったはず。事実、御殿場で行われた臨時キャンプでのトレーニングマッチでは、当時J2だった川崎フロンターレにいいところなく破れる体たらくでした。これはどうにもならんかもなぁと思いつつ迎えたJリーグ再開後の最初の試合は、7月13日のヴィッセル神戸戦でした。この試合、トレーニングマッチとはうって変わってやたら強気なラインとアホみたいなプレッシングサッカーを繰り広げます。まるで生まれ変わったようなパフォーマンスを見せたこの試合で勝っておけば、もしかしたら歴史は変わっていたかもしれません。しかし札幌は攻めながらも1点を奪うことができず、逆にコーナーキックから土屋征夫に決められて敗戦。その後も運動量の求められるサッカーの代償なのか、いい試合は見せるのですが最後まで守りきれず、思うように勝ち点を上乗せできない試合が続きました。 いくら「サルベージの名人」といえども限られた時間の中でできることはそう多くはありません。そんな中でJ1残留という使命を果たすためには、とにかくメンバーを固定してレギュラー組を鍛えることが最優先で、それでも結果が出ていればよかったのでしょうが、いよいよJ2降格が現実味を帯びてくると、チーム内外から「どうせ落ちるなら来季以降を見据えて若手を育成すべき」という声も囁かれるようになりました。当時サテライトリーグには参加していなかった札幌は、張外龍コーチに任せっきりだったサブ組に対してイバンチェビッチ監督とともに他クラブのサテライトチームとのテストマッチツアーを行うようになりましたが、それでも若手を使おうとはしないイバンチェビッチ監督への風当たりは次第に強くなってくるようになりました。まぁ素人ながらほとんどの試合を見た自分の目からも、「こいつは今すぐレギュラーで使うべき」と思えた選手は新居以外には(私情込みで)いなかったんですけどね。かといってレギュラー組の選手も大差ないと言えば大差なかったんですが。 そして2002年9月15日、残留を争うライバルだったヴィッセル神戸とのホームゲームに1-2で敗戦した翌日、かの有名な「No Idea.」、早い話が「もうダメぽ」というセリフを残してイバンチェビッチ監督は辞任(クラブは解任と発表)。名人を以てしてもサルベージ不可能なほど深海に沈んでしまった札幌は、当時の史上最速記録で降格しました。 さて、コンサドーレ札幌を退団してからのイバンチェの足取りですが、2004年までキプロス共和国のAEPパフォスFCの監督を務めた後、セルビア・モンテネグロのFKオビリッチの監督に就任。2006~2007年シーズンはマケドニアのFKマケドニアの、2007~2008年シーズンにセルビアのFKスメデレヴォの監督を務め、2008年にはクウェートのアルクウェートで指揮を執っていたようです。2009年現在どこで何をしているのかは不明ですが、FKマケドニアの公式サイトの英語ページはなぜかイバンチェ時代で時が止まっているらしく、コーチングスタッフ紹介ページやフォトギャラリーなどで、その懐かしい姿を目にすることができます。 http://www.fcmakedonija.com.mk/en/
2006年03月01日
現在Jリーグの各クラブでレギュラークラスとして活躍しているプロ選手というのは、そのほとんどが過去何人もJリーガーを輩出しているような名門校の出身か、あるいはJリーグのクラブユースの出身の、いわゆるサッカーエリートたちです(超人でいえばロビンマスク)。トレセン制度やスカウト網が発達した昨今では、プロで通用するような選手が無名のまま埋もれているということはほとんどなくなったと言っていいかもしれません。しかしそんな中でも高校時代まで全国的に全く無名でありながら、プロになって活躍したという選手はごくわずかながらいます(超人でいえばジェロニモ)。代表例としては、今の札幌サポーターにとっては文句なしに上里一将なのでしょうが、筆頭格とも言えば今回取り上げる播戸竜二ではないでしょうか。
1979年8月2日、兵庫県姫路市の生まれ。香寺町立香寺中学校から姫路市立琴丘高校に進みましたが、高校時代は国体選抜の経験がある程度で全国的には無名の存在でした。1998年にガンバ大阪へ入団しましたが、入団とは言っても給料はほとんど出ない練習生契約で、実家のある姫路から毎日2時間半かけて練習に通っていたそうです。プロ契約の条件は「2試合に出場すること」。当時のガンバにはエムボマや松波正信、小島宏美らがおり、FWの選手層は決して薄いものではありませんでしたが、数少ないチャンスをつかんでこの条件をクリアしプロ契約を勝ち取った播戸は、持ち前のスピードと溢れんばかりの闘争心を生かしてこの年13試合に出場し2得点。翌1999年にはユース代表にも選出され、ナイジェリアでのワールドユース準優勝に貢献。所属チームでも途中出場が多かったものの25試合に出場して1得点を挙げ、この年のオフにガンバ大阪に移籍した吉原宏太との「交換レンタル」という形で2000年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。
ワールドユース準優勝メンバーとはいえ、高原直泰、永井雄一郎、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、本山雅志ら錚々たるメンバーが並ぶ中、スーパーサブとしての出場が多く本大会で無得点に終わっていた播戸の知名度は決して高いものではなく、むしろ「そんな人いたっけ?」的な扱いで、同じ年に加入したエメルソン同様、必ずしも大きな期待を持って迎え入れられたわけではありませんでした。その上、やってきた経緯に加えて、吉原とは似たような背格好でプレイの特徴も似ており、さらにガンバでつけていた番号も同じ18番だったため、どうしても吉原と比較されてしまうのは仕方がない話で、前のシーズンにJ2で15得点を挙げた得点源と同時に人気No.1選手だった吉原の穴を埋められるかどうかという見方が強かったように思います。
しかし、札幌にやってきた播戸竜二はその予想をいいほうに裏切ります。サガン鳥栖との開幕戦で先制点を叩き込み、サポーターに向けて最高のアピールを見せました。ところが、この名刺代わりの一発も束の間、この試合で相手DFのタックルを受けて腰椎横突起骨折という重傷を負ってしまい早々に離脱を余儀なくされます。奥ゆかしく名刺だけ置いていった播戸が戦列に復帰したのは5月のサガン鳥栖戦。まるまる1クールを棒に振る格好となってしまいました。しかし復帰3戦目のアルビレックス新潟戦で決勝ゴールを叩き込むと、その後も持ち前のスピードとどんなボールにも食らいついていく執着心を武器にコンスタントにゴールを挙げ続け、エメルソンとの「すばしっこいちびっ子2トップ」は他のJ2チームの脅威となりました。この年の播戸の成績はシーズン合計で32試合出場16ゴール。エメルソンの34試合31ゴールという異常な成績に隠れてしまったのは不幸でしたが、前年の吉原と比べても全く遜色ない数字を残しました。また、人気面においても端正な顔立ちの吉原とは系統が違うながらも、やんちゃ坊主がそのまま大きくなったような、人当たりがいいわけではないけどどこか憎めないキャラクターで、地元出身の期待株だったルーキー山瀬功治(現横浜F・マリノス)を凌いでチーム一の人気を集めるようになっていきました。
というわけで期待以上の働きを見せた播戸ですが、ネックだったのは他の主力選手同様彼もまたレンタル選手だったこと。レンタル依存体質からの脱却は急務であり、幸か不幸かエメルソンの完全移籍に失敗したチームには、まだそのための資金が3億円近く残されていました。サポーターからも播戸の完全移籍を望む声が圧倒的でしたし、ガンバへレンタル移籍中だった吉原宏太が4000万円で完全移籍となることが決定的とされておりましたので、当然その吉原と交換でレンタルされていた播戸の完全移籍は確実だろうと思われていました。ところが結末は、吉原が完全移籍し播戸はレンタル延長。本人が完全移籍を拒否したのかそれともチームの事情なのかはわかりませんが、いずれにしても播戸は2001年もレンタルのままプレイすることになりました。
J1での播戸は相方がエメルソンからウィルに替わったものの、開幕戦から息の合ったコンビネーションを見せ、開幕戦の決勝ゴールやホーム開幕戦でのヴェルディ戦でのゴール、古巣ガンバ大阪戦での決勝ゴールなど重要なゴールを次々と挙げ、大量失点を喰らった清水戦ではチーム全体の気持ちがキレてしまっていた中、1人だけ気を吐いて意地のゴールを決めるなど、勝負強さに加えて負けん気の強さも発揮。また、「無名の苦労人のサクセスストーリー」という少年マンガさながらのサッカー人生が実際マンガになったり(「播戸竜二物語・少年サンデースーパー2001年12月号掲載)、コンサドーレの選手として初めて自身の公式サイトを開設して情報発信したりと、徐々に北海道以外にもその存在感をアッピールしていきました。
ところがシーズンも終盤になると、そのパフォーマンスは目に見えて落ちていきます。J1残留という目標がほぼ見えてきた頃はチーム全体に倦怠感が漂っており、特別に播戸だけが悪かったというわけではないのですけど、持ち味である裏への飛び出しはすっかり影を潜め、足元でボールを欲しがって何度もボールを奪われるシーンが多く見られるようになりました。今にして思えば、彼は彼なりに「ただ速いだけのストライカー」からの脱却を目指し、プレイの幅を広げようと必死だったのかもしれません。しかし、(少なくともこの時期は)スピードを忘れた播戸なんてベアークローのないウォーズマンみたいなモンです。1stステージでは6得点を挙げながらも、10月17日のサンフレッチェ広島戦の2ゴールを最後にゴールはぱったりとなくなり、2ndステージではわずかに3得点。もっとも、チーム全体でもそれ以降は6試合で2点しか取れなかったのですけど。結局この年はシーズン通算で29試合9得点という成績でした。
そしてこの年のオフ、当然のようにレンタル選手であった播戸の去就が注目されますが、結局サポーターの慰留も虚しく生まれ故郷である兵庫県のヴィッセル神戸にレンタル移籍。今にして思えば沈む船から逃げるネズミみたいなものだったのかも知れません。彼がもし残っていれば、翌年は…やっぱり降格していただろうな。
その後2003年に神戸に完全移籍を果たし、2004年には名古屋のマルケスと並んでJ1得点ランキング3位となる17ゴールを挙げ、シーズン通算では32試合で20ゴールという大活躍を見せました。ちなみにこの年の得点王はエメルソン(浦和・27ゴール)、2位に大黒将志(ガンバ・20ゴール)。得点ランキングトップ3を元札幌選手が占めるという、逃した魚は大きいシーズンでした。しかし昨年は怪我もあってあまり試合に出られず、2得点に終わりチームもJ2降格。今年からガンバ大阪に完全移籍し、7シーズンぶりに古巣でプレイすることになっています。
公称171cm65kgと決して恵まれているとは言えない身体で、サッカー選手としては裏街道を通りながらも日本有数のストライカーに上り詰めたのも、「火の玉小僧」と呼ばれた負けん気の強さがあってこそでしょう。ルーキー時代に、紅白戦で危険なファウルをしてきたダンブリーに右ストレートを食らわしたという逸話も残っていますが、そんな播戸も気がつけば今年で27歳。実はソダンと1歳しか違わないという事実が意外に感じられる辺り、播戸竜二という選手はやっぱりこの先も「永遠の小僧」で有り続けるのかも知れません。
2006年02月15日
サッカー選手にも「ファッション」があります。といってもダンディズムな某キングとか有名ブランドの長マフラーとか黒ポンチョで成コレとかの私生活上のファッションではなく、あくまでピッチ上のサッカー選手でのファッションの話です。ただし、当然のことながら基本的にサッカー選手というのは決められたユニフォーム以外着用できません。まぁ世の中にはホルヘ・カンポス(元メキシコ代表)やホセ・ルイス・チラベルト(元パラグアイ代表)のような傾奇者なゴールキーパーもいますけど、少なくともJリーグではそれもダメっぽいですし、フィールドプレイヤーは言わずもがな。なので選手たちは、ルールに抵触しない範囲の限られたポイントで「こだわり」を見せなければいけません。ですから、たとえば髪を染めたりユニフォームの襟を立てたりと、数少ないポイントで精一杯のこだわているわけですが、その中で半袖への異様なこだわりを見せる「半袖プレイヤー」というのが存在します。半袖プレイヤーとは、年がら年中半袖ユニフォームだけでプレイする選手のことです。それをファッションと呼ぶのかどうかは意見の分かれるところでしょうが、暑かろうがが寒かろうが常に半袖というのは、ある意味漢らしさを前面に押し出したファッションということができると思います。
さて、半袖プレイヤーとしては、昨季限りで現役を引退してフロント入りした柏レイソルの薩川了洋氏が有名で、その他にもヴァンフォーレ甲府の杉山新(この選手も元柏)、マイナーなところでは日テレベレーザの中地舞といった選手もいますが、コンサドーレサポーターとしては、こちらも昨季限りで現役を退いた「板長」こと俺達のモリ…いや森下仁志氏と、そして何より今回取り上げる関浩二が思い出されます。というか、「コンサドーレの半袖」といえば真っ先に関を思い出す人のほうが多いのではないでしょうか。何しろ12月の室蘭での試合ですら半袖でプレイしていたという剛の者。男らしさを通り越して命まで顧みない、まさしく富樫源次の油風呂です。
というわけで関浩二は1972年6月26日東京都青梅市の生まれ。読売日本SCユース(現東京ヴェルディユース)から1991年に読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)へ進み、1994年に東京ガス(現FC東京)に移籍。1996年から1997年までベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に移籍したあと1998年に再び東京ガスにレンタル移籍(所属元は平塚)し、同年途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。
途中とはいっても、関が移籍してきたのが移籍登録期限ギリギリの10月21日。当時のコンサドーレはもともとシーズンはじめの登録人数が26人と少なかったこともありますが、同じ日に移籍してきた埜下荘司(横浜フリューゲルス)、その少し前に加入した棚田伸(柏レイソル)ともども、もはや出場が濃厚となっていたJ1参入決定戦回避、あるいは最悪参入戦「勝ち抜け」に向けての戦力補強であることは明確でした。しかし、移籍してきた半袖の関は、参入決定戦4半袖を含む8半袖に出場しましたがゴールを挙げることは出来ず、チームもあえなくJ2降格。結果だけを見れば、残留するためにやってきた選手としてはサポーターの期待には添うものであったとは言い難い出来でした。とはいえ、この年半袖の関は移籍前から古傷の膝を痛めており半袖以外は決して万全の状態ではなかった上、半袖の関が移籍してくる直前にウーゴ・フェルナンデス監督がフロントとの確執から解任され、事実上崩壊していたと言っていいチームにあって、移籍してきたばかりの半袖の関がどうこう出来る状況ではありませんでした。逆に、チーム全体に漂うあきらめムードの中、それでも何とかしようという熱いプレイはサポーターの半袖をつかんで離さなかったのです。参入決定戦の最終戦のアビスパ福岡戦でも12月の室蘭で半袖姿で登場。試合に敗れJ2降格が決定した時、人目もはばからず号泣していた半袖の関の姿に半袖を打たれた人も多かったと聞きます。
その半袖が認められたのか、翌1999年にはコンサドーレに完全移籍し、この年も関は当然のように半袖でプレイし続けました。しかし、シーズン通算で28半袖(リーグ・カップ・天皇杯合計)に出場したものの、途中出場や途中交代が多くフル出場はわずかに6半袖のみ。得点もシーズン合計で7得点に留まりました。チーム自体の出来がアレだったというのもありますが、オフには構想外となってしまいました。
ところでオレのフットサル仲間に、青梅で小学生時代の関と対戦してきた人がいます。その人が言うには「関は本当にうまかった。うちのチームでは『他のヤツにはやられてもいいから関だけにはやられるな』が合い言葉だったけど、それでも止められなかった」そうです。ちなみにその人もオレから見ればめっちゃくちゃうまい人なのですが、その人に言わせれば「レベルが違った」ということらしいです。まぁそうでなければテクニカルな選手が揃う読売ユースに入れるわけもないはずですけど、サポーターが評する関という男は、「半袖」という以外では「うまくはなかったが、熱い男」というもので、なんだかイメージが全く違います。まぁ、プロ選手というのはそういう人たちの集まりですから、関はその中では「普通」レベルということなのでしょうか。ただ、札幌にいた当時は既に彼の膝はとうに限界を超えていたようで、その辺りの影響もあったのかも知れませんね。ちなみに、小学生当時から半袖だったかどうかは聞いてません。
札幌を退団したあとの関は、半袖のまま地元青梅に戻り、JFL入りを目ざしていた関東リーグの青梅FCに元FC東京の奥原崇と共に加入しました。青梅FCでは2002年まで在籍していたようですが、結局JFL入りすることは出来ませんでした。その後、2003年にコンサドーレのジュニアサッカースクールのコーチとして札幌に再び戻り、小学生の指導をする傍ら北海道リーグのトヨタ自動車北海道で現役を続けていたらしいですが、結局この年を最後に現役を引退し、2004年のU-12チームの誕生に伴いU-12のコーチに就任しました。今年はU-15チームのコーチとなり順調に指導者としてのキャリアを半袖で積み重ねています。いや半袖はウソ。
2006年02月04日
昨季までの過去10シーズンにおいて、これまで札幌に在籍したことのあるコーチングスタッフ以外の外国籍選手は全部で31人。様々な国籍の選手たちが札幌でプレイしてきました。この31人の中には吉成大や徐暁飛らの立場上は助っ人ではない選手も含んでいますので、単純に「外国人選手=助っ人」と考えるわけにもいかないのですが、「外国人は宝くじみたいなもの」という岡田武史元監督の言葉通り、いわゆる「助っ人」として入団して期待通りに活躍した選手もいる一方で、全く役に立たなかった選手も決して少なくありませんでした。その「期待はずれ」の代表格といえば、古くからのサポーターは1999年のリカルジーニョ、ジネイ、クレーベルの3人が思い浮かぶでしょう。しかし、何しろ彼らの試合出場は最も多いリカルジーニョでさえ5試合で、クレーベルに至ってはたったの1試合しか出ていないというスーパーブラジル人です。6月を迎える前に退団したリカルジーニョの代わりにやってきたジネイも、加入直後の3試合でそのへっぽこっぷりを遺憾なく発揮したっきり二度と姿を見せなくなったため、1999年の後半からスタジアムに通い始めたオレは彼らを生で見たことがありません。そんなオレにとってもっとも印象深い「期待はずれ選手」が、今回取り上げるロブソンです。
本名ロブソン・ルイス・ペレイラ・ダ・シウバ。1974年9月21日生まれで、1992年マツバラで選手生活をスタート。コリンチャンス、ゴイアス、ウニオン・レイリア(ポルトガル)など複数のクラブを渡り歩いたあと、1997年にロシアリーグ1部の強豪スパルタク・モスクワに移籍しました。そして2001年までの4シーズン半の間にリーグ戦102試合で32ゴールという成績を残し、2002年にコンサドーレ札幌にやってきました。経歴が間違っていなければ、マツバラでミールさんと一緒にプレイしているはずですね。
ウィルという強力なストライカーの活躍でJ1残留を果たしながらも、そのエースの引き留めに失敗した札幌にとって、ウィルに替わる助っ人ストライカーの獲得は至上命題でした。その期待を負うべくやってきたのがこのロブソン。前年のロシアリーグで15ゴールを挙げ得点王に輝き、またクラブチーム最高峰の大会であるUEFAチャンピオンズリーグにも出場して2得点と実績充分。Jリーグに各国リーグの得点王がやってくるのは特に珍しい話ではないですけど、「チャンピオンズリーグ出場経験者」というのはそれほど多くありません。さらには当時ロシア代表の監督も兼ねていたスパルタク・モスクワのロマンツェフ監督が、ロシア代表のためにロブソンの帰化を要請していたという報道もあり、いわば「ロシア代表監督お墨付き」と言えるだけに、ロブソンはサポーターのみならずマスコミからも「大物」という扱いを受け、道内メディアはもちろん全国誌である「サッカーダイジェスト」でも、まだ開幕前だというのにインタビュー記事が組まれるほどの騒ぎでした。
そんな感じですから、サポーターの期待はが高まるのも無理もない話でした。開幕前の練習試合で不発が続いても、ウィルがそうだったように太りすぎでコンディションが悪いためであり、コンディションさえ上がれば活躍するだろうと楽観視され、開幕前の宮崎キャンプでの阪南大学戦での初ゴールと、次の韓国チャンピオンの城南一和戦での計2得点だけで眠れる獅子が目覚めたと思ったものです。大きな希望はいつしか未だ見ぬロブソンを「ものすごい選手だ」と脳内補完してしまっていました。
そのロブソンが、いよいよサンフレッチェ広島との開幕戦でヴェールを脱ぎました。183cm79kgという堂々たる体躯から繰り出される競り勝てない空中戦、2歩目の時点で相手DFに先回りされる一瞬のスピードを持ち、その黄金の右足から放たれるシュートは出し惜しみする奥ゆかしさ、磁石のN極とN極のような正確なトラップ…。ロブソンのあらゆるプレイに目を奪われたサポーターは、「なぁ、なんかあいつスゴくね? 別の意味で」「全ての能力が秀でてるぞ、マイナス方向に」「なんていうか、ゾック?」「いや、あれはザクタンクだ」などと大絶賛でした。
開幕戦で広島の大勝の立役者となったロブソンは、次のベガルタ仙台戦でも90分間試合から消え続けるという、まさに1人だけ別次元のプレイを見せて仙台の勝利に貢献すると、第3節のジュビロ磐田戦でも異議と故意のハンドによる合わせ技一本で退場し、ここから一気に3点を奪って試合を決めた磐田へのナイスアシストを見せました。出場停止となった第4節の名古屋戦はロブソン不在の穴が大きく札幌が勝ってしまいましたが、出場停止明けの柏戦ではさすがのパフォーマンスで柏の快勝をお膳立てし、続く京都パープルサンガ戦でも京都のVゴール勝利を導きました。
この間、ロブソンの能力に疑問を持ち始めていたあるサポーターが、海外のサイトでロブソンの経歴を調べてみると、「ロシアリーグ得点王」というふれこみは真っ赤なウソと判明。札幌にやってくる前年に挙げたゴールも15ゴールではなく11ゴールで、チーム得点王ではあるもののリーグ得点王を獲得した記録はありませんでした。オレも独自で調べてみたところ、練習しないロブソンにロマンツェフ監督がブチギレしたとか、相手選手にヒジ打ちをお見舞いして5試合出場停止を喰らったとか、相手選手と乱闘をおっぱじめたとか、その黒歴史が出てくる出てくる。素行に問題があるのはまぁいいとしても、それはきっちり結果を残してこその話。結局、京都戦のあとの柱谷哲二監督の「ロブソンには責任を取ってもらう」というあまりにも有名なセリフを最後に試合に出ることはなくなり、結局Jリーグでは1点も上げることができないまま、同年入団したDFマクサンドロと共に5月末にひっそりと退団しました。ロブソンに責任を取ってもらった柱谷監督も、後を追うように6月始めに解任されています。過去の経歴や肩書きがいかに無意味なものであるか、我々サポーターに教えてくれた選手でした。
札幌を退団したあとのロブソンは、スパルタク・モスクワからのレンタル移籍だったにも関わらず、なぜかロシアには戻らずにフランス2部リーグのロリアンというチームに移籍しました。後日談として、札幌で活躍できなかったのはケガをして万全の状態じゃないまま試合に出ざるを得なかったからという話もありますが、そのロリアンでの成績は、3シーズン合計で72試合16ゴール(カップ戦含む)。助っ人としては少々物足りない成績と言わざるを得ず、あのまま札幌に残っていたとしても我々が期待していたような「エメやウィルと同じくらいの活躍」は望めなかったでしょう。Jリーグ1部とフランス2部リーグ、そしてロシア1部リーグの間にどのくらいのレベル差があるかはわかりませんが、スパルタクで活躍できたのは、イゴール・ティトフという優れたゲームメーカーがいたからかもしれませんね。ちなみに腹黒な元主将はロブソンについて、シーズン開幕前の時点で既に「ハズレ」と断言していたそうです。
ところでロブソンは、どうやら昨シーズン限りでロリアンを退団しているようです。その後の行方は不明ですが、もし今季もプレイしていればグルノーブルに移籍した大黒将志との対戦があったかもしれないだけに残念ですね。
2006年01月26日
不定期更新のスーパースター列伝、第9回目の今回は「元祖アイドル」吉原宏太を書きます。
1978年2月2日大阪府藤井寺市生まれ。小学校2年生の時に藤井寺サッカー少年団でサッカーを始め、道明寺中学校から和歌山県の初芝橋本高校に進学。3年生の時(1995年)の高校選手権で7得点を挙げて得点王を獲得して同校をベスト4に導き、この活躍が認められて翌年から旧JFLを戦うできたてホヤホヤのコンサドーレ札幌に入団しました。
通常、プロになれるような実力を持つ選手というのは、そのほとんどが選手権の時点で卒業後の行き先が決まっているパターンが多く、高校選手権で「プロへ就職活動」となるパターンはそれほど多くありません。また、この「選手権ルート」でプロ入りした選手は岐阜工の片桐淳至(→名古屋グランパスエイト)や国見高校の松橋章太(→大分トリニータ)などあまり活躍した印象ないのですが、吉原の場合はルーキーイヤーの1996年に開幕スタメン(1996年4月21日・福島FC戦)に名を連ねただけでなく、先制ゴールを含む2得点を挙げてチームの開幕戦勝利に貢献。その後も公称170cmと小柄ながらも裏へのスピードと思い切りの良さを生かして試合出場を重ねていきました。当時のJFLがプロアマ混成リーグで、対戦相手のレベルにばらつきがあったとはいえ、それでもリーグ戦・天皇杯で27試合7得点は申し分のない活躍と言えるでしょう。さらにプレイヤーとしての活躍のみならず、その甘いマスクは女性ファンのハートをがっちりキープ。コンサドーレのメインスポンサーである石屋製菓の主力商品「白い恋人」のテレビCMにも抜擢されるなど、その人気は鰻登りでした。
翌1997年は試合出場こそ18試合に留まりながらも、自身初のハットトリック(5月18日・大塚製薬戦)を含む10得点(リーグ戦・天皇杯合計)を挙げJFL優勝・Jリーグ昇格に貢献。1998年に開幕スタメンとしてJリーグデビューを飾る(3月21日・清水エスパルス戦)と、4月25日のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でJリーグ初ゴールをマーク。この年リーグ戦、カップ戦、天皇杯計41試合に出場し13得点を挙げ、人気・実力共に「コンサドーレのエース」となりましたが、残念ながら入れ替え戦では不発に終わりチームはJ2降格となりました。
J2での再スタートとなった1999年は、チームとしては散々なシーズンでしたが、吉原個人にとっては大きな飛躍の年となりました。FC東京サポーターに「色白おかま」呼ばわりされながらも、5月2日のヴァンフォーレ甲府戦でJリーグ初のハットトリックを達成するなど順調に得点を重ねてきた吉原は、日本代表のフィリップ・トルシエ監督に認められてシドニーオリンピックを目指すアジア一次予選のメンバーに招集されました。そのアジア一次予選の香港ラウンドでのフィリピン戦で、交代出場ながらもハットトリックを達成すると、続くネパール戦でも2得点、3戦目のマレーシア戦で1得点、最終戦の香港戦でも1得点。相手は格下ばかりとはいえ、4試合で7得点を決める大活躍を見せました。トルシエ監督の期待に見事に応えた吉原は、今度はなんとフル代表に招集されます。日本代表がパラグアイで行われるコパ・アメリカに招待国として出場した際、アルゼンチンでの直前合宿中にFWの中山雅史(ジュビロ磐田)がケガをしてしまったため、急遽呼ばれたのです。当時の五輪代表には吉原ではなく高原直泰(ジュビロ磐田)や柳沢敦(鹿島アントラーズ)、平瀬智行(鹿島)といったFWが主力でしたし、久保竜彦(サンフレッチェ広島)などフル代表経験を持つストライカーも残っていた中で、誰もが驚いたフル代表招集。まぁ、トルシエ監督にとっては、「あぁもうこんな時にナカヤマ怪我しやがって代わりを呼ぼうにも地球の裏側まで選手を貸してくれるようなクラブなんてねぇだろうなああそうだだったらヨシハラを呼ぼうどうせ札幌はJ2だし昇格無理だろうし」といった感じだったのかもしれませんけどね。それでも吉原が代表に選出されたことは事実であり、パラグアイ戦で途中出場ながらも代表キャップを記録したことで「吉原宏太」の名は全国区となったわけです。
当然サポーターにとっても、コンサドーレから初の現役代表選手が出たことは誇らしいことでありました。しかしそのサポーターの喜びの裏側で、「トップレベル」を実際に肌で感じた吉原本人は、翌年に控えていたシドニー五輪のメンバーとして名を連ねるため、その先に待つワールドカップのために、より高いレベルの環境でプレイすることを望むようになっていったのでしょう。札幌がJ2残留となったこの年のオフ、36試合出場15得点(リーグ・カップ・天皇杯合計)という成績を残し、ガンバ大阪へレンタル移籍していきました。
今でこそ主力選手の移籍(引き抜き)は珍しい話ではないですけど、名実ともに札幌の顔だった選手が移籍していったのはこの吉原が初めてであり、当時のオレも含めたほとんどのサポーターはそれをどう受け止めていいかわかりませんでした。チームが彼を「戻ってくる可能性の残る」レンタル移籍としたのも、エースを失うショックが大きかったサポーターへの影響を考えれば仕方がなかったのかも知れません。今であれば、中途半端にレンタル移籍させるくらいなら完全移籍にして移籍金満額取れという声のほうが強いでしょうから、サポーターも随分免疫がついたものです。いやまぁ、出来ればこんな免疫なんていらないんですけどね。結局吉原は2000年オフにガンバへ完全移籍となり、移籍した当時にサポーターが抱いていた「1年後に戻ってきてほしい」という希望は叶うことはなかったのですが、どっこいその頃のサポーターは既にバンバンとエメに夢中でした。人間は忘れる生き物です。
ガンバに移籍した後の吉原は、しばらくはそれなりの活躍を見せていたものの、西野体制となってからは監督との折り合いもあまりよくなかったようで次第に出番も減っていき、より多くの出場機会を求めての移籍志願話がオフの恒例行事となっていました。昨季の終盤はベンチからも外れるようになり、ついに移籍を決断。今年から大宮アルディージャでプレイすることになっています。
表面上は「札幌を捨てた」という形での移籍となり、「かわいさ余って憎さ百倍」というサポーターもいる一方で、「初代生え抜きエース」としての吉原を特別な存在として感じているサポーターも決して少なくありません。プロ2年目以降から彼が好んで背負っていた「18番」の背番号は、札幌でも特別な番号として認識されていました。まぁ実際、吉原の他に18番を背負って、それに見合う活躍をしたのは山瀬功治くらいしかいませんけど。また、吉原自身もプロのキャリアをスタートし、最初の4年間を過ごした札幌は特別な場所で、移籍後もいろいろなところで札幌について触れることが多く、「第二の故郷」と考えているようです。それだけに、今でも毎オフになると吉原宏太札幌復帰話がまことしやかに囁かれたりもしますが、1996年のチーム創設時のメンバーで現在もJリーグで現役を続けているのはこの吉原ただ1人だけですから、キャリアの最後は札幌で過ごして欲しいなぁと少しだけ思ったりもしています。
2006年01月18日
なんのかのといって子育てに忙しい日が続き、なかなか思うように更新できない今日この頃。実は今年初めての更新なのですが、今日は名塚善寛を取り上げてみようと思います。
名塚は1969年10月7日千葉県船橋市生まれのディフェンダーで、習志野高校から1988年にJSL1部のフジタ工業に入団。以後1998年までの11シーズンに渡ってプレイし、1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。フジタ時代の1992年にはバルセロナ五輪代表にも選ばれ、1993年にチームがプロ化してベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)となってからも、Jリーグ昇格や天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ制覇に貢献し、また個人としても1994年にJリーグベストイレブンに選出され、またファルカン監督の下で日本代表として11試合に出場、同年のキリンカップではほぼベストメンバーを揃えたフランスにチンチンにやられ、ワールドカップに出られなかった腹いせをされましたが、7月8日に瑞穂陸上競技場で行われた対ガーナ戦で決勝ゴールを挙げています。まぁ、この時のガーナ代表は平均年齢18.5歳と実質オリンピック代表だったのですが。名塚が代表に名を連ねていた頃は「ドーハの悲劇」以降の代表混乱期にあったせいか、代表での成績自体はあまり芳しいものではありませんが、それでもベルマーレの黄金期を支えた選手の1人であったことは確かです。
しかし、1998年オフにベルマーレ平塚はフジタ工業が経営から撤退し、高年俸の主力を軒並み放出せざるを得なくなってしまい、主力選手が各チームへちりぢりに移籍していきました。そんな中で名塚はなぜか1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。まぁそうでもなければ日本代表キャップを持つJ1チームの主力だった選手が、J2落ちした北の僻地チームに移籍してくるなんて通常考えられないんですけどね。割とドサクサ紛れっぽく札幌は優秀なDFを手に入れたわけですが、小島伸幸がアビスパ福岡へ、田坂和昭が清水エスパルスへ、洪明甫が柏レイソルへ、呂比須ワグナーが名古屋グランパスエイトへと、代表キャップを持つ他の主力がみな他のJ1チームに移籍していく中、なぜか名塚はJ2。
ともあれ、札幌に移籍してきてからもその統率力と読みの鋭さで守備陣を統率。移籍してきた初年の1999年こそチームとしての戦い方が定まらなかった影響で昇格は逃しましたが、この年の4バックの相方センターバックがめまぐるしく変わりながらも年間失点数は35点(36試合)。これは1位の川崎フロンターレにわずか1点差の2位タイの少なさでした。そしてチームキャプテンに就任し、3バックの中央となった2000年は40試合で失点数わずか22失点、1試合平均で0.55点という鉄壁の守備陣を支え、J2優勝・J1昇格に貢献しました。また、どっちかといえば岡田武史監督(当時)好みのいぶし銀な地味目の選手でしたが、1999年から2000年の2シーズンで計6得点を挙げているように、特にセットプレイの時の得点能力もありました(得点能力という観点において1年で11点取った池内を出してはいけません)。もちろんJ1に昇格した2001年も、キャプテンマークこそ野々村芳和に譲ったもののDFリーダーとして守備陣を統率しコンサドーレの開幕ダッシュの原動力となり、名塚、森、大森の3バックは「精密機械」とまで言われました。
しかしこの頃には既に慢性的な両足首痛に悩まされており、フル稼働は難しい状態になっていました。それでも当時の札幌は「組織的守備」といえば聞こえはいいものの、レギュラーが1人でも欠けると途端に機能しなくなる、いわばギニュー特戦隊のスペシャルファイティングポーズみたいなものでした。実際名塚が欠場した清水エスパルス戦ではいきなり5失点も喰らう大惨敗を喫してしまい、急遽北海道から遠征先に呼び出されるということもあり、休むに休めない状況だったのです。チームに欠かせない選手なのはいいことですが、藤子アニメの肝付兼太じゃあるまいし、出ずっぱりにもほどがあるってモンです。この無理がたたったのかどうかはわかりませんが、結局この年を最後に現役を引退。Jリーグ通算238試合(J1:177試合、J2:61試合)出場という偉大な記録を残しながらも、最後まで「義寛」と書かれることが多かった悲劇の人でした。
現在はそのまま札幌に残り、コンサドーレ札幌ユースU-12のコーチとして将来のトップチームの卵たちを温め続けています。
2005年12月30日
長いことほったらかしにしてしまいましたが、生意気にも明日からしばらく更新出来ないので、今年最後の更新をしようと思います。今年最後のスーパースター列伝は、平間智和です。
平間は1977年6月30日生まれ。宮城県柴田郡出身で、東北高校から1996年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。横浜3シーズンを過ごしたあと1999年にモンテディオ山形へ、2000年にベガルタ仙台へレンタル移籍し、2001年に横浜F・マリノスへ戻り1シーズンプレイしたあと2002年にコンサドーレ札幌へレンタル移籍してきました。攻撃的なドリブラータイプのMFで、基本的には右利きですが左足も特に苦手としていないため、トップ下はもちろん左右両サイドもこなす、非常にテクニックの高い選手でした。決して層が薄くなかったマリノスでルーキーの頃から試合に出ていたことからも、そのスキルがいかに高かったかがわかるでしょう。つってもまぁ、マリノス時代の平間がもっとも脚光を浴びたのは、アトランタで一躍時の人となった川口能活の手を骨折させた時なんですけどね。チームメートなのに。ちなみにこれで逆上したヨシカツが別の味方選手のケツを思い切り蹴り上げたのですが、この蹴られた選手が大森健作だったのは有名な話。そんな感じでマリノスでそれなりの結果を出していた平間ですが、1998年の横浜フリューゲルスとの合併に伴って保有選手が大幅に増えた横浜F・マリノスからあぶれてしまいます。そして「若手はレンタルで他のチームに育てさせる」というF・マリノスお得意のカッコウ政策によって、1999年は山形に、2000年には仙台に期限付きで移籍しました。それぞれのチームでレギュラーとしてほぼフル出場を果たし、2001年に横浜に帰還。凱旋帰国となったこのシーズンもそれなりの実績を残し、2002年にコンサドーレ札幌へ期限付き移籍となります。うん、まぁ、期限付きでの獲得が発表された時点で、2000年に山形から仙台に移籍した時、2001年に仙台からF・マリノスに戻った時、いずれの場合においても移籍元のチームのサポーターからは惜しむ声があんまり多くなかったことが気になってはいたんですがねぇ。札幌に移籍してきて最初のシーズンのお披露目会で、自分の紹介になった時にいきなり「コマネチ」をやっていろんな意味でサポーターの度肝を抜き、開幕前から既に「ネタ要員」としての評価を確固たるものにしたものの、その後ネタ要員以上の評価を与えられることはありませんでした。
誤解のないように言っておきますけど、本当にうまかったんですよ。練習でも平間のプレイはひときわ目立ってましたし、この当時はまだ札幌はサテライトリーグには参加していませんでしたけど、たまに行われる練習試合では、相手も控えクラスとはいえ別格な感じでしたしね。こりゃ誰が監督でも使いたくなるわと思うほどの貫禄なのですが…それが本番になるとてんでダメになっちゃうんですよね。それで付いたあだ名が「宮の沢の帝王」。もっとも、彼の場合は「練習で出来ているのことが本番で出来ない」というアガリ症の人なのではなく、本番だといいところ見せようと思ってしまうのか、その場その場で一番やっちゃダメなプレイを一番最初に選択することが多かったわけなんですが。その他にも、試合前の練習でサブ組だった平間が延々とシュートをクロスバーに当て続けるという脅威のキック精度を見せたこともあり、なんというか有り余るスキルをすべて全力で間違った方向に使う選手でした。
しかしそんな平間も、その持てる力をフルに発揮した試合があります。それは2002年の9月29日の札幌ドームでのジュビロ磐田戦。この試合で久しぶりにスターティングメンバーに名を連ねた平間は、この年両ステージを制覇して完全優勝を果たすことになる磐田を1人で蹂躙し続けました。もし前半早々に放ったシュートがゴールポストに嫌われていなかったら、彼は生きながらにしてもっとも神に近い男となっていたでしょう。もっとも、この時同じピッチには、後に生きながらにして神になった男がいたのですけど。最強・磐田を以てしても止められない、まさに鬼神のようなプレイ。これこそが平間智和の真骨頂…と思いきや、前半で体力を使い果たした平間は後半抜け殻のようにしおしおになってしまい、この試合もVゴールで敗れてしまいました。2003年には札幌に完全移籍をして退路を断ったものの、結局これ以降この磐田戦のような輝きを平間が見せることはなく、刹活孔を突き一瞬のみの剛力を得て命を散らせたトキのごとくこの年を最後にコンサドーレを退団しました。
その後は2004年の後半からアルビレックス新潟に加入したもののほとんど出番はなく退団、現在はJFLの群馬FCホリコシで現役を続けています。
2005年12月15日
今回は札幌サポーターなら誰もが知っているであろう"永遠のアニキ"、「ノノ」こと野々村芳和について書こうと思います。
野々村芳和は1972年5月8日静岡県清水市(現在の静岡県静岡市清水区)生まれ。清水東高校から慶應義塾大学に進学後、1995年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原千葉)に入団。5シーズンプレイした後、2000年にコンサドーレ札幌にやってきました。心臓病を克服したことから「ジェフの三杉淳」と呼ばれていましたが、ポジションはDFではなくMFで、札幌でのポジションはボランチでした。当時の札幌の監督は日本代表を史上初のワールドカップ出場に導いた岡田武史監督。1999年に札幌の監督として就任した岡田監督は、1年でのJ1復帰を目指したものの、予想外に凡庸な成績でJ2残留に終わりました。Jリーグの監督は初めてだった岡田監督自身の経験不足もありましたが、やはり最大の要因はチーム作りの失敗でした。この反省を生かした翌2000年、岡田監督は大補強を敢行。当時のレギュラークラスで前年から残った選手はGK佐藤洋平、DF名塚善寛、MFビジュ、MF田渕龍二くらいと文字通りに生まれ変わった札幌が、最大のライバルと言われた浦和レッズを抑えて圧倒的な成績で優勝したのはご存じの通りです。この岡田体制下でのコンサドーレの躍進を支えた最大の補強は言うまでもなくエメルソンですが、実はもっとも「成功」と呼べる補強はこの野々村芳和の獲得だったように思います。
前述の通りこの年のスターティングメンバー11人のうち7人が新加入選手でしたが、その中で唯一この野々村だけが完全移籍でした。市原を戦力外となった直後に岡田監督が直々に来てくれと言う電話をかけたという話が伝わっていますが、札幌に来てからは副主将としてチームをうまくまとめ上げ、ピッチ上の監督として口を動かし人を動かし、なおかつ自分はあまり動かない文字通り「司令塔」として君臨しました。天性とも言えるキャプテンシーを持つ彼がいなければ、文字通り寄せ集めだった札幌がここまでの成績は残していなかったかも知れません。そんなわけでチームにとっても重要なプレイヤーだったのはもちろん、サポーターの側からも人気の高い選手でした。端整な顔立ちで女性ファンが多かったばかりか、そっち方面の男性からの人気も出そうな「割れアゴ」というパーツも備えるルックス、の割には意外と審判の見てないところでえげつないファウルをする腹黒さも併せ持ち、そうかと思えばマスコミにもしっかり受け答え出来、それでいて公式の場で「スポーツマンヒップにもっこり」という微妙なネタをかます野々村は、老若男女問わず幅広い層から支持されました。いい年して「俺のノノ」というゲート旗を掲げていたオッサンもいたほどです。
自身も再びJ1に復帰した2001年は主将としてチームを引っ張りました。セレッソ大阪との開幕戦では札幌に来てから最高とも言えるパフォーマンスを発揮し、開幕勝利及びスタートダッシュに貢献。その後も獅子奮迅の活躍を見せましたが、1stステージ終了後に膝を壊してしまい長期離脱。相当重いケガだったようで、2ndステージの終盤にようやく復帰を果たすもののパフォーマンスは元には戻らず、オフには戦力外となってしまいました。年齢的にはまだまだやれましたし、実際に他チームからのオファーもあったようですが、「最後は札幌で終わりたかった」と潔く現役を引退しました。ちなみにこの年はノノだけでなく守備の要であった名塚も引退し、ウィルと播戸の2トップも丸ごと退団してしまいました。完全に屋台骨を失った札幌が暗黒時代に突入してしまうことは周知の通りで、チームをまとめることが出来る選手がいなったことで「野々村待望論」がサポーターの間で噴出していましたが、そのくらい大きな存在だったのです。
引退後はクラブのスカウトとしてフロントに入り、関東・東海方面のスカウティングを担当…しているはずですが、CS放送の「Jリーグナイト!」の司会者を始め、CS中継の解説、北海道ローカルのラジオ・テレビでのレギュラー出演、持ち前のトークと仕切りのうまさで、どっちかというと非常に優秀なテレビタレントとなっているようです。
ちなみに奥さんはとても美人です。
プロフィール
なまえ:choo コンサドーレ札幌応援?サイト「サッカー百鬼夜行(http://www.kingofsapporo.com/)」管理人。「月刊コンサドーレ」でもコラム書いてたこともあります。札幌出身、現在東京都練馬区在住。北海道を愛する20歳。一児の父。
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