2005年12月30日
長いことほったらかしにしてしまいましたが、生意気にも明日からしばらく更新出来ないので、今年最後の更新をしようと思います。今年最後のスーパースター列伝は、平間智和です。
平間は1977年6月30日生まれ。宮城県柴田郡出身で、東北高校から1996年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。横浜3シーズンを過ごしたあと1999年にモンテディオ山形へ、2000年にベガルタ仙台へレンタル移籍し、2001年に横浜F・マリノスへ戻り1シーズンプレイしたあと2002年にコンサドーレ札幌へレンタル移籍してきました。攻撃的なドリブラータイプのMFで、基本的には右利きですが左足も特に苦手としていないため、トップ下はもちろん左右両サイドもこなす、非常にテクニックの高い選手でした。決して層が薄くなかったマリノスでルーキーの頃から試合に出ていたことからも、そのスキルがいかに高かったかがわかるでしょう。つってもまぁ、マリノス時代の平間がもっとも脚光を浴びたのは、アトランタで一躍時の人となった川口能活の手を骨折させた時なんですけどね。チームメートなのに。ちなみにこれで逆上したヨシカツが別の味方選手のケツを思い切り蹴り上げたのですが、この蹴られた選手が大森健作だったのは有名な話。そんな感じでマリノスでそれなりの結果を出していた平間ですが、1998年の横浜フリューゲルスとの合併に伴って保有選手が大幅に増えた横浜F・マリノスからあぶれてしまいます。そして「若手はレンタルで他のチームに育てさせる」というF・マリノスお得意のカッコウ政策によって、1999年は山形に、2000年には仙台に期限付きで移籍しました。それぞれのチームでレギュラーとしてほぼフル出場を果たし、2001年に横浜に帰還。凱旋帰国となったこのシーズンもそれなりの実績を残し、2002年にコンサドーレ札幌へ期限付き移籍となります。うん、まぁ、期限付きでの獲得が発表された時点で、2000年に山形から仙台に移籍した時、2001年に仙台からF・マリノスに戻った時、いずれの場合においても移籍元のチームのサポーターからは惜しむ声があんまり多くなかったことが気になってはいたんですがねぇ。札幌に移籍してきて最初のシーズンのお披露目会で、自分の紹介になった時にいきなり「コマネチ」をやっていろんな意味でサポーターの度肝を抜き、開幕前から既に「ネタ要員」としての評価を確固たるものにしたものの、その後ネタ要員以上の評価を与えられることはありませんでした。
誤解のないように言っておきますけど、本当にうまかったんですよ。練習でも平間のプレイはひときわ目立ってましたし、この当時はまだ札幌はサテライトリーグには参加していませんでしたけど、たまに行われる練習試合では、相手も控えクラスとはいえ別格な感じでしたしね。こりゃ誰が監督でも使いたくなるわと思うほどの貫禄なのですが…それが本番になるとてんでダメになっちゃうんですよね。それで付いたあだ名が「宮の沢の帝王」。もっとも、彼の場合は「練習で出来ているのことが本番で出来ない」というアガリ症の人なのではなく、本番だといいところ見せようと思ってしまうのか、その場その場で一番やっちゃダメなプレイを一番最初に選択することが多かったわけなんですが。その他にも、試合前の練習でサブ組だった平間が延々とシュートをクロスバーに当て続けるという脅威のキック精度を見せたこともあり、なんというか有り余るスキルをすべて全力で間違った方向に使う選手でした。
しかしそんな平間も、その持てる力をフルに発揮した試合があります。それは2002年の9月29日の札幌ドームでのジュビロ磐田戦。この試合で久しぶりにスターティングメンバーに名を連ねた平間は、この年両ステージを制覇して完全優勝を果たすことになる磐田を1人で蹂躙し続けました。もし前半早々に放ったシュートがゴールポストに嫌われていなかったら、彼は生きながらにしてもっとも神に近い男となっていたでしょう。もっとも、この時同じピッチには、後に生きながらにして神になった男がいたのですけど。最強・磐田を以てしても止められない、まさに鬼神のようなプレイ。これこそが平間智和の真骨頂…と思いきや、前半で体力を使い果たした平間は後半抜け殻のようにしおしおになってしまい、この試合もVゴールで敗れてしまいました。2003年には札幌に完全移籍をして退路を断ったものの、結局これ以降この磐田戦のような輝きを平間が見せることはなく、刹活孔を突き一瞬のみの剛力を得て命を散らせたトキのごとくこの年を最後にコンサドーレを退団しました。
その後は2004年の後半からアルビレックス新潟に加入したもののほとんど出番はなく退団、現在はJFLの群馬FCホリコシで現役を続けています。
2005年12月15日
今回は札幌サポーターなら誰もが知っているであろう"永遠のアニキ"、「ノノ」こと野々村芳和について書こうと思います。
野々村芳和は1972年5月8日静岡県清水市(現在の静岡県静岡市清水区)生まれ。清水東高校から慶應義塾大学に進学後、1995年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原千葉)に入団。5シーズンプレイした後、2000年にコンサドーレ札幌にやってきました。心臓病を克服したことから「ジェフの三杉淳」と呼ばれていましたが、ポジションはDFではなくMFで、札幌でのポジションはボランチでした。当時の札幌の監督は日本代表を史上初のワールドカップ出場に導いた岡田武史監督。1999年に札幌の監督として就任した岡田監督は、1年でのJ1復帰を目指したものの、予想外に凡庸な成績でJ2残留に終わりました。Jリーグの監督は初めてだった岡田監督自身の経験不足もありましたが、やはり最大の要因はチーム作りの失敗でした。この反省を生かした翌2000年、岡田監督は大補強を敢行。当時のレギュラークラスで前年から残った選手はGK佐藤洋平、DF名塚善寛、MFビジュ、MF田渕龍二くらいと文字通りに生まれ変わった札幌が、最大のライバルと言われた浦和レッズを抑えて圧倒的な成績で優勝したのはご存じの通りです。この岡田体制下でのコンサドーレの躍進を支えた最大の補強は言うまでもなくエメルソンですが、実はもっとも「成功」と呼べる補強はこの野々村芳和の獲得だったように思います。
前述の通りこの年のスターティングメンバー11人のうち7人が新加入選手でしたが、その中で唯一この野々村だけが完全移籍でした。市原を戦力外となった直後に岡田監督が直々に来てくれと言う電話をかけたという話が伝わっていますが、札幌に来てからは副主将としてチームをうまくまとめ上げ、ピッチ上の監督として口を動かし人を動かし、なおかつ自分はあまり動かない文字通り「司令塔」として君臨しました。天性とも言えるキャプテンシーを持つ彼がいなければ、文字通り寄せ集めだった札幌がここまでの成績は残していなかったかも知れません。そんなわけでチームにとっても重要なプレイヤーだったのはもちろん、サポーターの側からも人気の高い選手でした。端整な顔立ちで女性ファンが多かったばかりか、そっち方面の男性からの人気も出そうな「割れアゴ」というパーツも備えるルックス、の割には意外と審判の見てないところでえげつないファウルをする腹黒さも併せ持ち、そうかと思えばマスコミにもしっかり受け答え出来、それでいて公式の場で「スポーツマンヒップにもっこり」という微妙なネタをかます野々村は、老若男女問わず幅広い層から支持されました。いい年して「俺のノノ」というゲート旗を掲げていたオッサンもいたほどです。
自身も再びJ1に復帰した2001年は主将としてチームを引っ張りました。セレッソ大阪との開幕戦では札幌に来てから最高とも言えるパフォーマンスを発揮し、開幕勝利及びスタートダッシュに貢献。その後も獅子奮迅の活躍を見せましたが、1stステージ終了後に膝を壊してしまい長期離脱。相当重いケガだったようで、2ndステージの終盤にようやく復帰を果たすもののパフォーマンスは元には戻らず、オフには戦力外となってしまいました。年齢的にはまだまだやれましたし、実際に他チームからのオファーもあったようですが、「最後は札幌で終わりたかった」と潔く現役を引退しました。ちなみにこの年はノノだけでなく守備の要であった名塚も引退し、ウィルと播戸の2トップも丸ごと退団してしまいました。完全に屋台骨を失った札幌が暗黒時代に突入してしまうことは周知の通りで、チームをまとめることが出来る選手がいなったことで「野々村待望論」がサポーターの間で噴出していましたが、そのくらい大きな存在だったのです。
引退後はクラブのスカウトとしてフロントに入り、関東・東海方面のスカウティングを担当…しているはずですが、CS放送の「Jリーグナイト!」の司会者を始め、CS中継の解説、北海道ローカルのラジオ・テレビでのレギュラー出演、持ち前のトークと仕切りのうまさで、どっちかというと非常に優秀なテレビタレントとなっているようです。
ちなみに奥さんはとても美人です。
2005年12月07日
というわけでいよいよこの人を書こうと思います。第5回はエメルソンです。ご存じ札幌をJ1昇格に導いた稀代のストライカー。
本名はマルシオ・エメルソン・パッソス。1981年9月6日ブラジルのリオデジャネイロ州ノバイグアス市生まれで、サンパウロFCから2000年にコンサドーレ札幌に期限付き移籍することが発表されたのは、年の瀬も押し迫った1999年の末でした。当時弱冠18歳だった若きブラジル人選手は、この先日本をいろんな意味で震撼させる選手になるわけですが、その頃のサポーターの反応は「ブラジル人FWが来る」という以上のものはありませんでした。当時、札幌は前年の助っ人補強に失敗しており、1999年シーズン当初に獲得した助っ人はことごとくヤムチャでした。唯一MFロベルト・アシス(今をときめくロナウジーニョの実兄)だけはそれなりに活躍しましたが、年俸面等を考えればナッパくらいの評価で、結局残ったのはシーズン途中から加入したビジュのみ。監督1年目だった当時の岡田武史監督に「外国人は宝くじ」というトラウマを植え付ける結果となっていたため、助っ人に対して懐疑的な見方が強かったのです。ですから、前年から契約延長のビジュと既に東京で実績のあるミールさんはいいとしても、元ブラジルユース代表という経歴以外にはほとんど何の実績もないと言っていい無名のブラジル人ストライカーに寄せる期待は、さほど大きくなかったこと、加えて、この頃は吉原宏太のガンバ大阪への移籍が正式に発表されたばかりでそれどころじゃなかったため、サポーターの間ではそれほどの盛り上がりがなかったのも無理もないことでした。
ところが、シーズン開幕前のキャンプで当時の名塚主将が「今すぐ完全移籍させるべき」というコメントを出すなど新聞紙上でもその評価は鰻登りで、「ひょっとして大物なのか?」という空気が流れはじめます。そして、その風評が現実のものとなるのに、さほど時間はかかりませんでした。サガン鳥栖との開幕戦でハットトリックを達成する衝撃デビューを飾ると、続く甲府戦でも2得点。その後も相手DFをわずか数歩で置き去りにするスピードと、振りの早い強烈なシュート、そして何よりボールを持ったらまずシュートという徹底的な俺様っぷりで得点を重ね、出場34試合で31得点を挙げて得点王に輝き、昇格の原動力となりました。
しかし、エメルソンの魅力はこれだけではありませんでした。というかむしろ高い得点能力はむしろおまけで、エメのエメたるゆえんはその本人そのものにあります。まずはカード癖。この年はシーズンで11回の警告を受け、退場2回。一発退場こそないものの、カードの数だけなら今年の池内より上です(しかもこの年の試合数は今よりも4試合少ない40試合)。そういえば2001年にJ1得点王に輝いたウィルもカードゲッターとして名を馳せましたので、「チームのゴールゲッターはカードゲッターでもある法則」は今なお生き続けているのでしょうか。
また、ピッチの外でもいろいろとありました。「札幌にエメルソンあり」というのがJリーグにも響き渡り始めた頃、まだ18歳のエメに2歳の息子がいることが発覚。しかもてっきり母親は何度かフィアンセとして来札していた女性だと思っていたら、よくよく話を聞いてみれば実はそうではないらしく、「エメが速いのは脚だけじゃない」という評価も得ました。ちなみにこの子供の存在や「年の割に老けて見える」という理由から、後にエメルソン年齢詐称疑惑も囁かれました。
さらには放蕩癖も素晴らしく、J1昇格とJ2優勝を果たしチームの目標を達成すると、残り試合をすっぽかしてとっととブラジルに帰国。当初は天皇杯までに帰ってくる予定だったのが天皇杯が始まっても帰ってくるそぶりすら見せませんでした(帰ってきたのは2回戦が終わったあとで、結局天皇杯は最後まで出場せず)。
まぁそんな感じで問題児としても名を馳せたエメでしたが、サッカーのスキルは超一流ですから、当然札幌は完全移籍を望みます。しかしネックとなったのは100万ドルという移籍金でした。当然、予算の少ない札幌にはどだい無茶な金額で、資金繰り以前の問題に直面した札幌はこの移籍金をまかなうため、サポーターから1口5万円の増資を5000口募るという無謀な方法を採用。もちろん「エメルソン基金」などというお題は付いていませんでしたが、計画の趣旨から言えばエメの移籍金捻出のためであることは確か。エメ残留を願うサポーターから集められた金額は最終的に3億円近くにもなり、金銭面での障害はなくなったかに思われましたが、ところがどっこいエメときたら「年俸1億円欲しい」と言いだしはじめます。移籍金は用意できてもそれにプラス1億では資金はショートしますし、他の選手との年俸バランスも崩れてしまうため、交渉はいきなり決裂。「朝起きたら肩が反対になっていたからブラジルに帰って手術します」という有名はセリフを残して札幌を出て行き、そしてそのまま二度と戻ってきませんでした(その後、相手チームの一員として札幌に来ましたが)。
札幌を退団した後は、1年でJ2に降格した川崎フロンターレに完全移籍します。札幌と違って資金力のある川崎はエメの希望通りの条件を呑み、さらにはエメのサンパウロ時代の「恩師」であるピッタ氏をコーチに呼んでまでJ1復帰をこのストライカーに賭けたわけですが、もちろんエメ1人で勝ち続けられるわけもない上、中身は相変わらずエメのままのエメをしまいには持て余しすようになり、シーズン途中でピッタコーチともども浦和に売却されます。その後もやはりきっちり結果は残しますが中身はやはりエメのまま。少しは大人になったのかカード収集癖は影を潜めたものの、一度ブラジルに帰ったら必ず最後来日予定に間に合わず「エメっぷり」は相変わらずのまま。さらにはJリーグの中ではトップクラスの予算を誇る浦和ですら年俸は足りなかったようで、最後にブラジルに帰ったまま来日しないと思ったらいきなりカタールのクラブに移籍していたという瞬間移動を見せた上、しかも何が気にくわなかったのか肩が反対になったのか首が真後ろに回ったのかはわかりませんが、そのカタールのクラブも正味3ヶ月も経たないうちに電撃退団(※)。その後はJリーグのクラブに売り込みをかけていたそうですが、いくら実力があっても年俸も高い上に、さすがにここまで来れば少なくともJリーグに彼を雇うクラブはなく、現在消息は不明。
まぁエメであれば欧州に行っても十分通用するとは思いますが、「欲するままに生きてたらこうなる」という、ある意味非常に人間力の高い選手でした。
(※)すみません。改めて調べ直してみたらまだカタールにいるみたいです。
プロフィール
なまえ:choo コンサドーレ札幌応援?サイト「サッカー百鬼夜行(http://www.kingofsapporo.com/)」管理人。「月刊コンサドーレ」でもコラム書いてたこともあります。札幌出身、現在東京都練馬区在住。北海道を愛する20歳。一児の父。
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