2006年02月15日
サッカー選手にも「ファッション」があります。といってもダンディズムな某キングとか有名ブランドの長マフラーとか黒ポンチョで成コレとかの私生活上のファッションではなく、あくまでピッチ上のサッカー選手でのファッションの話です。ただし、当然のことながら基本的にサッカー選手というのは決められたユニフォーム以外着用できません。まぁ世の中にはホルヘ・カンポス(元メキシコ代表)やホセ・ルイス・チラベルト(元パラグアイ代表)のような傾奇者なゴールキーパーもいますけど、少なくともJリーグではそれもダメっぽいですし、フィールドプレイヤーは言わずもがな。なので選手たちは、ルールに抵触しない範囲の限られたポイントで「こだわり」を見せなければいけません。ですから、たとえば髪を染めたりユニフォームの襟を立てたりと、数少ないポイントで精一杯のこだわているわけですが、その中で半袖への異様なこだわりを見せる「半袖プレイヤー」というのが存在します。半袖プレイヤーとは、年がら年中半袖ユニフォームだけでプレイする選手のことです。それをファッションと呼ぶのかどうかは意見の分かれるところでしょうが、暑かろうがが寒かろうが常に半袖というのは、ある意味漢らしさを前面に押し出したファッションということができると思います。
さて、半袖プレイヤーとしては、昨季限りで現役を引退してフロント入りした柏レイソルの薩川了洋氏が有名で、その他にもヴァンフォーレ甲府の杉山新(この選手も元柏)、マイナーなところでは日テレベレーザの中地舞といった選手もいますが、コンサドーレサポーターとしては、こちらも昨季限りで現役を退いた「板長」こと俺達のモリ…いや森下仁志氏と、そして何より今回取り上げる関浩二が思い出されます。というか、「コンサドーレの半袖」といえば真っ先に関を思い出す人のほうが多いのではないでしょうか。何しろ12月の室蘭での試合ですら半袖でプレイしていたという剛の者。男らしさを通り越して命まで顧みない、まさしく富樫源次の油風呂です。
というわけで関浩二は1972年6月26日東京都青梅市の生まれ。読売日本SCユース(現東京ヴェルディユース)から1991年に読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)へ進み、1994年に東京ガス(現FC東京)に移籍。1996年から1997年までベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に移籍したあと1998年に再び東京ガスにレンタル移籍(所属元は平塚)し、同年途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。
途中とはいっても、関が移籍してきたのが移籍登録期限ギリギリの10月21日。当時のコンサドーレはもともとシーズンはじめの登録人数が26人と少なかったこともありますが、同じ日に移籍してきた埜下荘司(横浜フリューゲルス)、その少し前に加入した棚田伸(柏レイソル)ともども、もはや出場が濃厚となっていたJ1参入決定戦回避、あるいは最悪参入戦「勝ち抜け」に向けての戦力補強であることは明確でした。しかし、移籍してきた半袖の関は、参入決定戦4半袖を含む8半袖に出場しましたがゴールを挙げることは出来ず、チームもあえなくJ2降格。結果だけを見れば、残留するためにやってきた選手としてはサポーターの期待には添うものであったとは言い難い出来でした。とはいえ、この年半袖の関は移籍前から古傷の膝を痛めており半袖以外は決して万全の状態ではなかった上、半袖の関が移籍してくる直前にウーゴ・フェルナンデス監督がフロントとの確執から解任され、事実上崩壊していたと言っていいチームにあって、移籍してきたばかりの半袖の関がどうこう出来る状況ではありませんでした。逆に、チーム全体に漂うあきらめムードの中、それでも何とかしようという熱いプレイはサポーターの半袖をつかんで離さなかったのです。参入決定戦の最終戦のアビスパ福岡戦でも12月の室蘭で半袖姿で登場。試合に敗れJ2降格が決定した時、人目もはばからず号泣していた半袖の関の姿に半袖を打たれた人も多かったと聞きます。
その半袖が認められたのか、翌1999年にはコンサドーレに完全移籍し、この年も関は当然のように半袖でプレイし続けました。しかし、シーズン通算で28半袖(リーグ・カップ・天皇杯合計)に出場したものの、途中出場や途中交代が多くフル出場はわずかに6半袖のみ。得点もシーズン合計で7得点に留まりました。チーム自体の出来がアレだったというのもありますが、オフには構想外となってしまいました。
ところでオレのフットサル仲間に、青梅で小学生時代の関と対戦してきた人がいます。その人が言うには「関は本当にうまかった。うちのチームでは『他のヤツにはやられてもいいから関だけにはやられるな』が合い言葉だったけど、それでも止められなかった」そうです。ちなみにその人もオレから見ればめっちゃくちゃうまい人なのですが、その人に言わせれば「レベルが違った」ということらしいです。まぁそうでなければテクニカルな選手が揃う読売ユースに入れるわけもないはずですけど、サポーターが評する関という男は、「半袖」という以外では「うまくはなかったが、熱い男」というもので、なんだかイメージが全く違います。まぁ、プロ選手というのはそういう人たちの集まりですから、関はその中では「普通」レベルということなのでしょうか。ただ、札幌にいた当時は既に彼の膝はとうに限界を超えていたようで、その辺りの影響もあったのかも知れませんね。ちなみに、小学生当時から半袖だったかどうかは聞いてません。
札幌を退団したあとの関は、半袖のまま地元青梅に戻り、JFL入りを目ざしていた関東リーグの青梅FCに元FC東京の奥原崇と共に加入しました。青梅FCでは2002年まで在籍していたようですが、結局JFL入りすることは出来ませんでした。その後、2003年にコンサドーレのジュニアサッカースクールのコーチとして札幌に再び戻り、小学生の指導をする傍ら北海道リーグのトヨタ自動車北海道で現役を続けていたらしいですが、結局この年を最後に現役を引退し、2004年のU-12チームの誕生に伴いU-12のコーチに就任しました。今年はU-15チームのコーチとなり順調に指導者としてのキャリアを半袖で積み重ねています。いや半袖はウソ。
2006年02月04日
昨季までの過去10シーズンにおいて、これまで札幌に在籍したことのあるコーチングスタッフ以外の外国籍選手は全部で31人。様々な国籍の選手たちが札幌でプレイしてきました。この31人の中には吉成大や徐暁飛らの立場上は助っ人ではない選手も含んでいますので、単純に「外国人選手=助っ人」と考えるわけにもいかないのですが、「外国人は宝くじみたいなもの」という岡田武史元監督の言葉通り、いわゆる「助っ人」として入団して期待通りに活躍した選手もいる一方で、全く役に立たなかった選手も決して少なくありませんでした。その「期待はずれ」の代表格といえば、古くからのサポーターは1999年のリカルジーニョ、ジネイ、クレーベルの3人が思い浮かぶでしょう。しかし、何しろ彼らの試合出場は最も多いリカルジーニョでさえ5試合で、クレーベルに至ってはたったの1試合しか出ていないというスーパーブラジル人です。6月を迎える前に退団したリカルジーニョの代わりにやってきたジネイも、加入直後の3試合でそのへっぽこっぷりを遺憾なく発揮したっきり二度と姿を見せなくなったため、1999年の後半からスタジアムに通い始めたオレは彼らを生で見たことがありません。そんなオレにとってもっとも印象深い「期待はずれ選手」が、今回取り上げるロブソンです。
本名ロブソン・ルイス・ペレイラ・ダ・シウバ。1974年9月21日生まれで、1992年マツバラで選手生活をスタート。コリンチャンス、ゴイアス、ウニオン・レイリア(ポルトガル)など複数のクラブを渡り歩いたあと、1997年にロシアリーグ1部の強豪スパルタク・モスクワに移籍しました。そして2001年までの4シーズン半の間にリーグ戦102試合で32ゴールという成績を残し、2002年にコンサドーレ札幌にやってきました。経歴が間違っていなければ、マツバラでミールさんと一緒にプレイしているはずですね。
ウィルという強力なストライカーの活躍でJ1残留を果たしながらも、そのエースの引き留めに失敗した札幌にとって、ウィルに替わる助っ人ストライカーの獲得は至上命題でした。その期待を負うべくやってきたのがこのロブソン。前年のロシアリーグで15ゴールを挙げ得点王に輝き、またクラブチーム最高峰の大会であるUEFAチャンピオンズリーグにも出場して2得点と実績充分。Jリーグに各国リーグの得点王がやってくるのは特に珍しい話ではないですけど、「チャンピオンズリーグ出場経験者」というのはそれほど多くありません。さらには当時ロシア代表の監督も兼ねていたスパルタク・モスクワのロマンツェフ監督が、ロシア代表のためにロブソンの帰化を要請していたという報道もあり、いわば「ロシア代表監督お墨付き」と言えるだけに、ロブソンはサポーターのみならずマスコミからも「大物」という扱いを受け、道内メディアはもちろん全国誌である「サッカーダイジェスト」でも、まだ開幕前だというのにインタビュー記事が組まれるほどの騒ぎでした。
そんな感じですから、サポーターの期待はが高まるのも無理もない話でした。開幕前の練習試合で不発が続いても、ウィルがそうだったように太りすぎでコンディションが悪いためであり、コンディションさえ上がれば活躍するだろうと楽観視され、開幕前の宮崎キャンプでの阪南大学戦での初ゴールと、次の韓国チャンピオンの城南一和戦での計2得点だけで眠れる獅子が目覚めたと思ったものです。大きな希望はいつしか未だ見ぬロブソンを「ものすごい選手だ」と脳内補完してしまっていました。
そのロブソンが、いよいよサンフレッチェ広島との開幕戦でヴェールを脱ぎました。183cm79kgという堂々たる体躯から繰り出される競り勝てない空中戦、2歩目の時点で相手DFに先回りされる一瞬のスピードを持ち、その黄金の右足から放たれるシュートは出し惜しみする奥ゆかしさ、磁石のN極とN極のような正確なトラップ…。ロブソンのあらゆるプレイに目を奪われたサポーターは、「なぁ、なんかあいつスゴくね? 別の意味で」「全ての能力が秀でてるぞ、マイナス方向に」「なんていうか、ゾック?」「いや、あれはザクタンクだ」などと大絶賛でした。
開幕戦で広島の大勝の立役者となったロブソンは、次のベガルタ仙台戦でも90分間試合から消え続けるという、まさに1人だけ別次元のプレイを見せて仙台の勝利に貢献すると、第3節のジュビロ磐田戦でも異議と故意のハンドによる合わせ技一本で退場し、ここから一気に3点を奪って試合を決めた磐田へのナイスアシストを見せました。出場停止となった第4節の名古屋戦はロブソン不在の穴が大きく札幌が勝ってしまいましたが、出場停止明けの柏戦ではさすがのパフォーマンスで柏の快勝をお膳立てし、続く京都パープルサンガ戦でも京都のVゴール勝利を導きました。
この間、ロブソンの能力に疑問を持ち始めていたあるサポーターが、海外のサイトでロブソンの経歴を調べてみると、「ロシアリーグ得点王」というふれこみは真っ赤なウソと判明。札幌にやってくる前年に挙げたゴールも15ゴールではなく11ゴールで、チーム得点王ではあるもののリーグ得点王を獲得した記録はありませんでした。オレも独自で調べてみたところ、練習しないロブソンにロマンツェフ監督がブチギレしたとか、相手選手にヒジ打ちをお見舞いして5試合出場停止を喰らったとか、相手選手と乱闘をおっぱじめたとか、その黒歴史が出てくる出てくる。素行に問題があるのはまぁいいとしても、それはきっちり結果を残してこその話。結局、京都戦のあとの柱谷哲二監督の「ロブソンには責任を取ってもらう」というあまりにも有名なセリフを最後に試合に出ることはなくなり、結局Jリーグでは1点も上げることができないまま、同年入団したDFマクサンドロと共に5月末にひっそりと退団しました。ロブソンに責任を取ってもらった柱谷監督も、後を追うように6月始めに解任されています。過去の経歴や肩書きがいかに無意味なものであるか、我々サポーターに教えてくれた選手でした。
札幌を退団したあとのロブソンは、スパルタク・モスクワからのレンタル移籍だったにも関わらず、なぜかロシアには戻らずにフランス2部リーグのロリアンというチームに移籍しました。後日談として、札幌で活躍できなかったのはケガをして万全の状態じゃないまま試合に出ざるを得なかったからという話もありますが、そのロリアンでの成績は、3シーズン合計で72試合16ゴール(カップ戦含む)。助っ人としては少々物足りない成績と言わざるを得ず、あのまま札幌に残っていたとしても我々が期待していたような「エメやウィルと同じくらいの活躍」は望めなかったでしょう。Jリーグ1部とフランス2部リーグ、そしてロシア1部リーグの間にどのくらいのレベル差があるかはわかりませんが、スパルタクで活躍できたのは、イゴール・ティトフという優れたゲームメーカーがいたからかもしれませんね。ちなみに腹黒な元主将はロブソンについて、シーズン開幕前の時点で既に「ハズレ」と断言していたそうです。
ところでロブソンは、どうやら昨シーズン限りでロリアンを退団しているようです。その後の行方は不明ですが、もし今季もプレイしていればグルノーブルに移籍した大黒将志との対戦があったかもしれないだけに残念ですね。
プロフィール
なまえ:choo コンサドーレ札幌応援?サイト「サッカー百鬼夜行(http://www.kingofsapporo.com/)」管理人。「月刊コンサドーレ」でもコラム書いてたこともあります。札幌出身、現在東京都練馬区在住。北海道を愛する20歳。一児の父。
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