6.太田貴光さん

2006年08月13日

当時、貴光さんといえば、鳥居塚さん。鳥居塚さんといえば貴光さんっていうくらい、この2人が仲良しすぎて、ある意味、嫉妬してしまうサポーターがいるのではないかと思えるほど2人はラブラブでした。
パス練習でのペアも、練習後に帰っていくのも、そしてルイヴィトンのバックまでおそろい。いくら住んでいるところが近かったっていったって、かなり不思議なくらいいつも一緒に行動し、貴光さんが登場したイベントに鳥居塚さんが普通に見に来ているっていうことも目撃しました。っていうか、どうせ見に来るぐらいだったら、鳥居塚さんもイベント要員にしちゃえばいいのになぁとも追ったんですけど。(^^;
女の子同士って、そういうのがよくありますけど、男の人同士でそういう付き合いをしている人たちってあまり見かけることがなかったものですから、本当に珍しいくらい仲がいいんだなぁと思ったわけで。

この2人を中心に仲良しっぽいグループがありまして、それを勝手に鳥居塚グループと勝手に名づけて呼んでいたんですけど、この鳥居塚グループに、現在は育成部にいる当時ホペイロだった斉藤さんや赤池さんとかがいたんですけど、みんなカッコイイので、こんな人たちが団体で歩いていたら、目立つだろうなぁと勝手な想像をしてました。(^^;

太田さんが怪我をして大変な時期がありました。

私が当時綴ったコンサドーレ練習日記より~
97年10月4日(土)の一部抜粋
[太田さん松葉杖]
太田さんが練習に参加せず、トレーナー室の前で、ジャージ姿でいるではないか!以前から足首が調子悪いと新聞で見ていたのですが、山形戦で途中交代。昨日も、監督と面談していたし・・・。こりゃ、大変だと思っていたら、なんと松葉杖1本(山本マネージャーのだと思われる)を使っていました。(山本マネージャーは、スタッフやサポーターたちが戦う第2回フェルナンデス杯で怪我をしたらしいです。それで、松葉杖2本でやって来ていたのですが、帰り1本になっていたものですから)しかも、足首ではなく、長ズボンではっきりとはわかりませんが、ひざの部分にアイシングか何かをしているようで、もりあがっていました。右足のひざです。
・・・ということで、明日のデンソー戦には参加できません。代わって、朝倉さんがボランチをやるようです。

結局のところ、右ひざの半月板を損傷して手術してリハビリしていたものの、98年のメキシコキャンプ参加途中で札幌に戻って再検査して再手術したかと。ですんで、98年の前半は、ずっと別メニューで6月下旬から合流し、7月のフリエ戦(たしか三ツ沢)で試合に復活したんです。
この三ツ沢での試合を見にいってたんですけど、当時、横断幕職人だった私にとっては、三ツ沢は試合観戦はとても近く出来るのですごくいいのですが、横断幕が1人では貼れないそれはとてもとても貼りにくい場所。柏とかも貼りにくかったなぁ・・・。なので、みんなに協力していただいたり、協力したりして貼っていたのですが、貴光サポの「おかえり」横断幕は、ご本人に気付いていただけるように目立つところにって思って貼ったはずだったんですけれど、ご本人が気付いていなかったっていう寂しい出来事があったなぁと。そういうこともあって、太田さんの復帰戦は、途中から登場でしたが、そんな記憶が残っているんです。
98年に戦力外通告されたのは、とてもショックでした。

現在は、清水エスパルスのユースのコーチをしていますから、ユース同士の対戦の時には、鳥居塚さんはいないけど鳥居塚グループ(斉藤さんと赤池さん)は再会を楽しんでいるに違いないと思います。


5.朝倉徳明さん

2006年08月12日

ここで97年の背番号順で選手を振り返るにあたって、すごく久しぶりに朝倉さんのことを思い出してました。
97年の当時ですら謎の人物だったもんですからごめんなさい。

私は、96年のオフシーズンからコンサを応援しようと思ったので、チームを応援するにあたって、誰か好きな選手を作ろうって思ったときに、コンスタントに試合に出ている選手を応援したほうが楽しいと思って、96年の試合によく出ていた選手にしようって思ったもんですから、実は朝倉さんも私にとっては応援候補のひとりで、97年も試合にいっぱいでるであろうと思っていた選手なんです。
というのも、96年の試合記録を見ているとたくさん出てました。それに比べると97年はあまり試合に出ていないんですよね。かといって、試合に出ると悪くないですから、いかにサッカーというのは監督次第で選手起用が違うものなんだなぁ~と朝倉さんを見ていて思ったのでした。
朝倉さんはボランチでしたが、当時のボランチといえば、コンササポにとっても太田貴光さんのほうがメジャーだったと思います。

練習後の服装は、うすピンクっぽいシャツをボタン少し開けていたイメージがとっても強くてかなりおしゃれさんでしたし、私にとって、当時から謎めいてましたし、現在も朝倉さんが何をなさっているのかも全く判らないのです。

ということで、当時の綴った文章をご覧くださいませ。

私が当時綴った「97年の選手たち」より~
朝倉徳明

タイトル:私にとって謎の人物な朝倉さん
フロントと折り合いが合わずに残念ながら退団になった朝倉さん。1月1日に出産予定だった子供は、無事産まれていると思うのですが、新聞に情報が入らないのでちょっと寂しいです・・・。

[残りの5試合出場]

朝倉さんは、ボランチの人。だから太田さんがずっとボランチで定着していたので、出番が少なかったようです。しかし、太田さんが累積警告で出られなかった厚別ホームでの第10節の本田技研戦や太田さんの怪我の為の残り5試合や天皇杯で活躍してくれました。そして、控えに入った3試合が本田技研戦と東ガス戦(2試合)なので、試合がピンチで困った時に出るというよりも、最初から東ガスと本田技研戦では、途中からダブルボランチで戦おうと監督が考えていた戦術だったのだろうと思ってしまいました。
かといっていつも太田さんの影に隠れてしまった朝倉さんの悔しさは何かしらあったと思います。新聞の記事とかでも太田さんの変わりといわれるのを嫌がっていたようですし。コンサドーレにやってくる前も、太田さんと同じ清水エスパルスだったわけですし・・・。

[免許が無い?]

朝倉さんは、免許をとっていないらしく、奥さんが運転して練習場にやってきているようでした。しかし、朝倉さんが帰っていく姿というのは、練習場であまり見かけないのです。私の中では、いつのまにか帰ってくる選手の1人です。ところで、94年のJリーグ名鑑の中に朝倉さんが載っているのですけど、その中に書かれていたコメントが練習に遅刻してくることが多いと書かれていました。でも、私が見ていた練習では、そんなことがなかったなぁと思ったのでした。それは、独身時代と違うからなのでしょうか。

[仲良しなひとは、誰だ?]

あんまり、朝倉さんのことがよくわからないというのは、ただ単に私が村田さんを基準に練習を見ているうえで、あまり村田さんとストレッチでペアを組んだり、ふざけていたりしないからなのですが、結局のところ、私は、朝倉さんが誰と一緒の行動をよくとっているのかがわからないのです。でも、一つだけわかったのが太田さんがいないと鳥居塚さんは朝倉さんと一緒の行動をとっていました。鳥居塚さんったら、太田さんとペアだったとおもったのにボランチの人が好きなのかしら・・・。

[ナンバーワン]

朝倉さんは、どちらかというと練習にもトレーナーなどの上下姿というよりも、シャツにスラックス姿が多かったと思うのです。それで、シャツもボタンを2~3個開けているのが多かったものですから、金のネックレスがチラチラと見えていました。どちらかといえば、胸元セクシーナンバーワンなのかしらって思ったりして。


4.古川 毅さん

2006年08月11日

古川さんとは、ちと変った想い出がたくさんありまして。。。
まず、、、私が唯一手をつないで走ったJリーガーなのです。
フェルナンデス監督時代は、チームはファミリーということで、選手、スタッフ、サポーターはファミリーだったわけですが(ファミリーといえば今ではヨン様のファンとかが家族みたいですが・・・)その一環として、フェルナンデス杯っていうサポーターとチーム対抗のサッカー大会があったり、98年には、モエレ沼公園で運動会っていうのもあったんですよね。
この運動会の中で、私も借り物競争に参加したのですが、その競技内容は、選手と手をつないで走っていって、カードを引いて、そのカードに書いてある人や物を借りてゴールするっていうものでした。
んでもって、私のパートナーが古川さんだったんです。
とはいえ、その当時は、あまり古川さんと会話をすることがなくて超緊張。っていうか手をつなぐっていうことが緊張ですよ。
引いたカードは「黒い靴下をはいているおじさん」ギャラリーゾーンで大きな声で探すものの、いないいない。苦笑
私も声が大きいですが、古川さんも大きくて、2人の声が一番でかかったわなどと見ていた人が笑っていたようですが、余裕も無く一生懸命叫んでました。
黒い靴下の人がなんとかいらっしゃってゴールできたわけですが、古川さんの足が速くて引きずられるように走っていったので大変でした。(私はすこぶる足が遅いんで・・・)
ということで、唯一手をつないだJリーガーは、古川さんだけですわ。苦笑

岡田監督に代わってからは、こういった楽しいイベントがなくなってしまって、本当に残念だったし、なんなとく選手とサポーターの間も遠くなっちゃったかなぁって思うんです。練習場なんですが、見学ゾーンの線引きがすごくなってしまって、それまでは、それぞれ自分で近寄って声をかけてサインをもらったりでしたが、今ですと、並んでサインをいただくっていうことになりますから、待っていて呼び止めるドキドキ感もないですし、みんな並んでいるから自分もサインもらっちゃえ~っていうようにサインをもらっているっていう方もいるように見えてしまうんです。んでもって、たくさん並んでいるから選手と会話をするっていうことも出来ないですよね。多くのサポーターが見学に来ているからっていうこともあるかとは思いますが、今の練習見学のあとのファンサービスを見ていると、すべて流れ作業的になってしまっているんじゃないかなって思って、なんだか残念なんです。

練習後にサポーターが楽しそうに自分のお気に入り選手と会話をしている姿をいろいろと見てましたが、古川さんもよくたくさんのサポーターに囲まれていたわけですが、97年のはじめの頃は、練習後に居残り練習を毎日黙々としていて、選手間で仲良しの人がいないんじゃないかと思うほど孤独練習をして、ひっそり帰っていかれました。すごく努力家なんだなぁと思いましたが、無口なのかなぁって思っていたのですが、違っていたようで。(^^;

このパンツをはいてきたら試合に勝つっていう勝負パンツをはいて競技場に来ていたようなんですが、そのパンツは、とてもテロテロッとしたセクシーパンツだったようで、それに興味を持った某選手(村田さんではありません)は、ちょっとはいてみたそうな。試合後にパンツが無いって探している古川さんの目の前に、そのパンツを履いたまま、どこにあるだろうね~などと言って現れて、めちゃめちゃ怒られたって。(←どう考えても怒られるし、普通は履けないと思うんですけど・・・笑)その話を聞いてから、私は古川さんのことを影で「パンツさん」と呼ばせてもらってました。(^^;

んでもって、パンツさんと私の間に誤解が生まれた出来事もありました。
私は村田ファンということもありまして、村田さんの情報がいろんなところから入ってきます。「村田さんが丸井今井の前で彼女(現在の奥さん)と手をつない歩いていたよ~」っていう話が入ってきまして、これが何度も目撃されている出来事で、練習後、村田さんに「彼女と手をつないであるいてたんですって?」っていう話をしていたときに「毅も手をつないで歩いていて会っちゃったよ」っていう話を聞いたりして笑っていたわけですが。。。
次に村田さんにお会いしたときに「毅に怒られちゃった」と言うではありませんか。私と村田さんの練習場での会話を聞いていた古川さんのファンの方が古川さんのところの掲示板に「村田さんと古川さんだダブルデートしていた」っていうことを書かれたようで。それを見た古川さんが村田さんに文句を言ったところ、村田さんが私のせいにしたのか、何故か、私が悪いっていうことになっているっていうではありませんか。その誤解を解くのに練習場に行きたかったものの、なかなか行ける機会がなくなってしまって、和解するのにおよそ1年かかったのでした。(^^;

和解後にパンツさんと呼ばせていただいていた話もカミングアウトしたところ、また嫌われてしまいましたが(^^;;;
村田さんとお互い頑張ろうなっていう強い握手をしてお別れしていたのが印象的です。(村田さんと古川さんは同じ年)

古川さんが山形に移籍したからは、私もコンサ応援が趣味だけではなく仕事としてもっていうことになって、コメントをお願いするっていうことがありましたが、これまた意地悪で、他の記者さんたちの質問には答えているのに私には「後で」と後回し。親戚に会って、親戚の方が「あの人はいいのかい?」と心配してくださる状態。。。それがコンサの試合に来る度の毎度の出来事になってましたけど、それもまた今となってはいい想い出です。

こういった、ちょっと変った想い出がたくさんあるので、すでにこの手の話は時効だと思って書いてますが、またさらに嫌われてしまうかもしれません(^^;;
でも、古川さんのことは、苦楽をともにした戦友だと一方的に思ってますし、嫌われていても好きですし、コーチとしても頑張ってもらえたらって思ってます。


3.ペレイラ

2006年08月10日

外国人選手の場合、呼び捨てになってしまう選手が多いんですけど、
ご多分にもれずペレイラも呼び捨て。(^^;
私の中では、マグマ大使に似ているなぁと思っていたのですが、
ペレイラファンの人には、似てないって怒られちゃいました。(^^;
でも、今でもマグマ大使を見るとペレイラを思い出します。(あまり見ないんですがね・・・)現在、ペレイラはどこにいるのでしょうか?

何年か前にちらっと札幌にやってきたときには、韓国チームのコーチをしていて、ビザの関係で一旦韓国を離れないといけないっていうことで北海道に遊びに来てましたが、その時は全く変っていなかったんですよね。
スタイルいいですよね~ジーンズがとっても似合ういい男でした。

ミスターコンサドーレと呼ばれてましたし、ペレイラが初期コンサを支えてくれたわけで。しかも、ペレイラファンは全国各地にいらっしゃいましたので、北海道に縁もゆかりもない方が、ペレイラのいるコンサのことを応援してくださったわけで。そういう面においても本当にありがたかったです。

ここんところコンサにやってくるブラジル人とは全く違うというか、日本語もしゃべってましたから、そういえばブラジル人だったんだよなっていう感じなのですが、ペレイラのいたコンサドーレは、まだ札幌市民のコンサドーレに対する認知度が低く、プロサッカー選手が札幌に住んでいるっていう意識があんまりなかった時期でして、タクシーの運転手さんとかにコンサの選手が札幌に住んでいるっていう話をしたらビックリしていたんですよ。チームが出来たっていうことまではわかっていても、住んで練習しているっていう意識が無かったんです。かくいう私も96年に札幌でたくさん試合をしていたことを知りませんでした。たまたまというか、仕事でコンサドーレのマスコットキャラクターのネーミング募集の話をすることになって、それを取材するのに全くコンサのことを知らないで取材するのは失礼かと思っていろいろ調べてビックリでした。96年当時からインターネットで発信しているファンページが充実していて、こんなにコンサのことを応援している人がいて、広報担当の方もとってもいい感じの方でした(当時は黒澤さんです)。しかも札幌でこんなに試合をしてるんだったら、応援しなくちゃって思って、96年11月から突然コンササポになりました。そして当時担当していたラジオ番組の中で私はコンサドーレを応援するって宣言もしまして有言実行です。
とはいえ、こんなにどっぷりはまることになるとは思ってませんでしたが。(^^;

つまり一般の人にとっては、コンサドーレの選手ってどんな人がいるのかっていうのもわからなかった状況です。
ペレイラが何度か通っていたあるお寿司やさんの大将は、ブラジル人だっていうもんだから、近所の工場職員かと思っていたって(ブラジル人が多かったらしい)。一緒に行った村田さんも工場職員だと思ったらしい。
ちなみに村田さんがよく通っていたおそばやさんも村田さんがベンツに乗ってジャージ姿で来るから借金取り立ての仕事をしている人かと思っていたらしいんですが、白い恋人のCMで忍者姿の借金取り立ての人を発見して、サッカー選手だったんだぁ~とビックリしたようです。苦笑
勝手に職業を想像しちゃっているのって楽しいですよね。私もまだ比較的見学者の少なかった97年の練習見学はみっちりしてましたから、選手たちにはかなりあやしまれていたに違いないんですよ。。。

ペレイラとの想い出で一番印象的だったのが室蘭に行くときの高速道路。
私は北広島から乗ったのですが、ちょうど偶然にも後ろからペレイラらしき車が走ってまして、抜かすような形で私の前に。前に出てからは、比較的ゆっくり運転だったので、このままずっと一緒に走っているのって、私が追いかけているように思われてもって思って、追い越したところ、また追い越して私の前にやってくるではありませんか。しかも追い越した後はまたゆっくりな運転。そんなことを2度繰り返した後にペレイラは猛スピードで去っていきました。
つまりペレイラに遊ばれたんですよ。こんな形で遊ばれるとは思ってもみませんでしたが今となってはいい想い出です。

98年のビリ決定戦(あえてこんな表現でスミマセン)の最後の最後にペレイラが登場しましたが、神戸戦やアウェイの福岡でも出てもらいたかった。。。
石井肇さんのこと嫌いじゃないし、むしろ好きなんですけど、あのビリ決定戦の時の選手起用も含めた采配だけは納得できないんです。いろんなプレッシャーがあったとは思うんですが、どうせ落ちるんだったら、一緒に戦って落ちたかった選手が何人もいました。まあ、それもこれも過去のたられば話ですけどね。


2.田渕龍二さん

2006年08月09日

田渕さんのことは、朝書いたんですけどアップされていなかったようで。。。
やはりこのブログ使い慣れないもんですから、送信失敗してました(^^;

私の仕事なんですが幸か不幸か97年と98年の夏は週休5日制だったもんですから、この2年間は、練習見学にみっちり行っていたということもありまして、選手にたいする思い入れも強いですし、JFLからJ昇格&J2降格を味わったっていう激動の2年だったので、選手に対しても戦友というか一方的に仲間意識を持ってしまってます。
ですんで、コンサの2番といえば、田渕龍二さんっていうイメージも強いんです。
私は、リュウさんと呼んでおりましたが、タブリュウって呼んでいらっしゃる方もいました。私にとっては右がリュウさん、左が村田さんっていうのが理想の戦いっぷりでした。

現在、自動車教習所の先生をなさっていらっしゃるということですが、練習見学に行くときって、選手も目的地も一緒ですから道で会うことってよくあったもんですから、室蘭の高速道路でリュウさんと出くわしたことがあるなぁっていう想い出がよみがえるんですよ。
コンサの最初の練習場所は栗山だったし、99年は鵡川とか日帰りで室蘭で練習っていう時もありました。選手バスも無かったですから、選手たちが自家用車で毎日移動してましたし、大変だったと思います。

リュウさんは、オーラスイッチを点灯、消灯出来る方で、練習後も気がつけばすでに帰ってしまっているっていうことが多々ありましたし、ラーメンやさんとかに行ったときには、完全消灯して、一般の方となじんでわからなかったりっていうこともあったそうな。

リュウさんの笑顔で癒されるというか、いてくれるだけで安心できる人ってそうそういないと思うんですが、リュウさんはそのタイプ。物静かなイメージですが、話しかけるとちゃんと答えてくださるし、すごくいい人。
石屋製菓さんのよそこいイベントでゲストでいらっしゃったときも、他の2選手(あえて名前は書きません)がなんとなく冷たかったもんですから、リュウさんがいてくれた本当に良かった~と心から思ったのでした。
多分、教習所でも口うるさくなくやさしく素敵な教官なんだろうなぁと思います。(^^)

選手たちが有珠山噴火の義援金を街頭で呼びかけるイベントの時には、リュウさんのグループがあまりにも静かだったので、思わずおせっかいにも呼びかけの手伝いをしたりもしまして、うるさい奴だと思ったに違いありませんが(^^;
手伝わずにいられないほど物静かだったわけで(^^;;;
それなのに戦いっぷりでは、頼りになりましたし、ピッチでの存在スイッチのオンオフもうまかったなぁとつくづく思います。

一緒に昇格して一緒に落ちた戦友的存在の選手で、すごく貢献してくださった選手ですから、感謝の気持ちでいっぱいです。
リュウさんに会いたいなぁ~

私が当時つづった「97年の選手たち」より~
田渕龍二

タイトル:右サイドは龍さん
右のサイドには龍さんがいる。監督にも代表選手になれるくらいに素晴らしいと評価される田渕さん。そんな田渕さんのことを綴ってみました。

[小さい足の龍さん]

夏に田渕さんと太田さんが歩行者天国になっている丸井今井の前でイベントに参加したのですが、その時に、クイズで出された問題の中で田渕さんの足のサイズがわかったのですけど、足のサイズが25センチだということなのです。男の人の中では小さいほうだとビックリしました。靴といえば、試合中に田渕さんったら靴が脱げちゃったことがあったような・・・。
ちなみにこのイベントですが、田渕さんも太田さんも恥ずかしがりやなのか大人しいだけなのか、マイクを1本ずつ持たされているにも関わらず、田渕さんったら、マイクを使わずに話してました。しかも、2人ともだんだんと後ろにさがっていったりと消極的でなんだか可愛らしい2人でした。

[ムコ養子のサッカー選手]

田渕龍二という選手は97年から誕生した選手である。大塚にいた時は、田渕さんは花垣龍二だったのです。結婚してムコ養子になって田渕龍二と名前が変わっていたようですが、大塚時代は名前を変えずに花垣龍二のままで試合に出ていたそうです。変なたとえしか浮かばないのですが、まるで結婚しても旧姓ままで仕事をするような芸能人みたいだった龍さんですが、コンサドーレ札幌に移籍したのをきっかけに田渕で登場したようです。
なかなか今の世の中で嫁さんの姓になるという人が少ないのに龍さんは、サッカー選手なのに苗字を変えちゃうというのがとても新鮮な私です。これを知って、いい人に違いないと思ったのでした。

[かわいいサイン]

龍さんのサインは、とってもかわいいです。Ryuと背番号の2を書いているのですが、「Ryu2」になるので、かわいいうえに誰が見てもわかるサインです。一番かわいいサインだと思いますよ。

[ナンバーワン]

龍さんは、JFLの公式試合の中では、最多試合フルタイム出場選手です。警告累積のために出られなかった、第9節の東京ガス戦の1試合をのぞく29試合に出場して、なおかつフルタイム出場をしました。もうひとり、デリーバルデスも29試合でフルタイム出場をしています。最多出場時間という項目にしてしまうと、田渕さんが出られなかった東京ガス戦が唯一のPK戦までいった試合な為、残念ながら2位になってしまいます。田渕さんは、右サイドの担当ですが、左も出来るので、97年では札幌大学とのチャリティーサッカーで途中から左サイドを担当したこともありました。
ちょっと残念だったのが、腰痛をもっているらしく、10月のナビスコ杯は2試合とも出場できかったということ。でも、この2試合に出られなかったけど昇格決定試合にはちゃんと出場したのでなによりです。
龍さんは、今季Jリーガーとして戦う初めての年。今年もベストメンバーの一員として活躍して欲しいと思います。


1.ディドさん

2006年08月08日

コンサにいた選手の想い出ですが、一番最初は誰にしようかと思ったのですが、自分のホームページの中に97年の選手たちっていうページを作ったものの、中途半端に終了してしまっていたので、順番につづってみようかなって思いました。ということで、トップバッターは、ディドさんで。

ディドさんは、現在 横浜FマリノスのGKコーチ。
つい先日というべきか、キロロであったマリノスとコンサの練習試合を見てきまして、久しぶりにディドさんの姿を見ることが出来ました。
お姿も日本語もあまり変わっていないディドさん。(^^)
(マイクくんは本当に大きくなっていたのでビックリですが)
コメントもらってラジオでも流したのですが、S級ライセンスをとったので、将来はコンサの監督になりたいって。そしてコンサのサポーターに関してもどこの試合でもたくさんのサポーターが来ていて素晴らしいって。ありがたいコメントをいただきました。
ディドさんがいなくなったら、偶然なのか千歳からオランダの直行便もなくなってしまって、今現在、イタリアに行ってみたいのに北海道からはヨーロッパ行きにくいんですけど。。。ディドさんが札幌に帰ってきたらKLMも再び就航っていうことはあるのかな???

コンサの初期の場合、コンサで現役引退っていう選手が多かったわけで。
ディドさんもそのひとり。このままゴールキーパーコーチとして札幌にいてくれたけど、岡田さんが連れて行っちゃったっていうイメージが強いんですよね。当時、ディドさんは仕方が無いけど、マイクは連れて行かないで~って言っていた人もいましたよね。マイクくんはコンサユースでも活躍してましたし、そういえばマイクくんはキロロで西大伍くんと握手して再会をわかちあってましたわ。

コンサからはいなくなったとはいえ、これからも気になる人物です。


私が97年シーズン終わりにつづった[97年の選手たち」より~
ハーフナー・ディド
タイトル:まじめだけどお茶目なディドさん

ディドさんは、とても真面目な人です。必ずといっていいほど、ディドさんは一番最初に練習場に姿を現して、帰りも遅くまでいる人です。ひとり黙々と走り込みをして腕立てをして、自分のコンディションを整えています。そんなディドさんにまつわるエピソードを何点か思い浮かぶものを書き綴ってみたいと思います。

[お茶目なエピソード]
顔に似合わず、お茶目なことをしてくれます。私が見ているだけでもかずかずのお茶目ぶりを見れました。

厚別競技場で試合前日に練習をした時の出来事ですが、ディドさんは、一番乗り。ピッチの様子を確かめた後に、テレビで試合中継用のマイクなどが競技場のトラック部分に置かれていたのですが、そのマイクを持って「あああ~」と声をだして、マイクの様子も確かめていました。
マイクといえば、全然関係ない話ですが、ディドさんの息子のマイクくんは、よく練習場に一緒に来ていました。やっぱり、サッカーをやるようで、お父さんのストレッチを手伝ったりもとていました。でも、マイクくんはゴールキーパーではないらしい。

栗山の練習場に1台の公衆電話があります。練習が終わって、選手たちが上がってきていた時に、電話が鳴りました。しかし、近くには管理の方がいません。すると、ディドさんが走っていって、電話に出たのでした。「もしもし」「はい、え?わからないね」ガチャン。・・・いいのだろうかと思う瞬間でした。しかし、ディドさんがこの公衆電話に出る姿は、何度か見ております。
さらに電話のエピソードとして私が思い出に残っているのは、私の携帯電話がなった時、「もしもし」とでたところ、私の後ろで、「もしもし」という声。ディドさんが私の「もしもし」という声を聞いて、「もしもし」とふざけていっているのでした。多分、ディドさんは、電話が好きなのでしょうね。

お茶目というか、照れ屋さんのディドさんの姿も見ることができました。それは、ディドさんの誕生日の日の出来事。ディドさんのことを愛する団体「ディド団」のみなさんが栗山の練習場へやってきてました。それで、ディドさんへプレゼントとともにハッピーバースデーの歌を歌っていたのですが、その時に、ディドさんは、「はずかしい・はずかしい」といいながら、手で顔を覆って喜んでいました。とっても、キュートなディドさんを見ることが出来ました。

ディドさんのお茶目な行動で一番笑えたのは、パイロン(コーンと呼ぶ人もいる、あの工事現場などにある三角帽子みたいなやつ)を使っていきなり、「おーい、みんな~」と選手たちに声をかけたことです。つまり、メガホン代わりにパイロンを使ったのでした。まるで、一発ギャグ状態のディドさんの行動に度肝を抜かれて笑ってしまいました。さすが、ディドさん、もと外国人。ユーモアたっぷりです。

[感動をありがとう]
ディドさんの試合っぷりで、私は何度泣いたことか。他の人もディドさんに泣かされている人は多いはずです。

何度見ても涙が出てくる試合といえば、5.25の川崎フロンターレ戦。私は、まだサッカーの試合を何試合も見ていない人間でした。コンサの試合を生で見て、たった2試合目であんな素晴らしい試合を見てしまったのです。負けているコンサ。はっきり言ってもう駄目だ。負けちゃうって思っていました。しかし、ディドさんが上がってきた。試合は、終了のホイッスルが鳴るまでは、終わっていないということをディドさんのプレーで思い知らされました。
私は、ディドさんが、上がってくる試合は、この川崎フロンターレ戦のほかに2試合見ています。8.28ヴァンフォーレ甲府戦と11.14天皇杯3回戦:ジェフ市原戦。この2つの試合では、ディドさんが上がりましたが、負けてしまった試合です。しかし、私が見たディドさんが最後に上がる3試合の中で、ディドさんが上がっただけで涙が出たのは、ジェフ戦。ジェフに負けたら、今期のコンサドーレの試合が終了してしまうということもあって、余計に涙が出てしまったというのもあるのですが、ディドさんがシュートをしたというのは、残念ながら得点にはならなかったけど、より一層の感動を与えてくれました。

ディドさんに感動をもらったのは、この上がるという試合だけではありません。8.31のブランメル仙台戦。冨樫さんの頭との接触で骨折したのにも関わらず、ディドさんは、冨樫さんと接触したあと、すぐ一度立ち上がって、ゴールマウスの様子を確認して、入っていないとわかった後に倒れたのでした。私は、この試合をメインスタンドの限りなくゴールに近いA席で見ていたのですが、接触の時にペチンという高音の鈍い音が聞こえたのでした。それなのに、ディドさんは、試合にそのまま出て、後半の途中に交代するというガッツのある試合をしたのでした。鼻血も出ていたようで、つっぺをしたまま、顔が腫れているまま試合を続けたのです。交代していくディドさんを追うように監督がベンチから試合そっちのけで走っていったというシーンも感動しました。翌日の新聞を見たら、ディドさんを抱きかかえている監督の姿。頬骨の骨折だったということで、ディドさんの闘志を思い出すたびに涙が出ちゃいます。
さらに、今季絶望とまで書かれていたのにも関わらず、ディドさんは、骨折から1ヶ月も経たない9.28の釧路でやった鳥栖戦で復活したのでした。練習で、フェイスガードをつけて練習するというのも、数回だけで、その後は、なにもガードを付けずに練習をしていました。ほとんど怪物としか思えないほどの回復ぶりは、信じられませんでした。やっぱり、ディドさんってすごい人です。

[ちょっと脱線]
KLMオランダ航空が11月にオランダ-千歳という直行便を就航することになったのです。それを記念して千歳空港でオランダフェアというのをやっていたのですが、その中にディドさんのパネルとコメントを発見しました。ディドさんは、オランダ出身ということもあって、コメントがあったのですが、全文メモしてきました。御参照してくださいませ。

コンサドーレ札幌のキーパー、ハーフナー・ディド選手(オランダ選手で現在は日本に帰化)に聞く
KLMオランダ航空就航おめでとうございます。オランダの気候は札幌と似ていると思います。特に4・5月の風車にマッチしたチューリップの満開風景、夏のマリンスポーツ、冬の楽しいホワイトクリスマスなど四季折々の楽しみがあります。海に面しているので、シーフードも豊富でゴーダチーズやエダムチーズがとてもおいしいです。スポーツはもちろんサッカーが人気で週末ではあちこちで大会が開かれます。
今回の直行便の就航で故郷オランダへの所用時間が短縮されるだけでなく、四方八方に広がる路線網でヨーロッパ各地へも気軽に行くことができ、便利になると思います。

以上のコメントと一緒に試合中のディドさんの写真が2枚とJリーグの試合球(使用されたもの)が飾られていました。

[ナンバーワン]
ディドさんが、コンサのなかで一番だと思えることは、背番号!(くだらないこと書いてごめんなさい)そうではなくて、やはり、私にとってディドさんは一番プロ意識のある人だと思っています。練習も一番乗りだし、ファンサービスもめいいっぱいしてくださいますし、練習でランニングする時は、必ずいつも先頭を走っています。
そんなディドさんが、一度だけ練習に遅れてきたことがあります。遅れてきて、練習もほとんどしないディドさんを見たのは初めてでした。そしたら、なんと病院に検査に行っていたというではありませんか!!腸にポリープができているということだったのです。オフになったら、手術をするということでしたから、もしかしたら、今、病院にいるのかもしれません。オフでゆっくりと治してもらって、再びJで頑張って私たちを感動の渦で泣かせてもらいたいものです。


開設しました

2006年08月08日

ずっと作るか作らないか迷ってましたが、ブログ開設しました。
というのも、昨日ブログのことを番組の中で紹介したからなんです。
私のことを知っている方も知らない方も、ブログでは、はじめまして。
安田優子と申します。
そもそもは、まるっきりの趣味でコンサドーレのことを応援してましたが、趣味がこうじてというべきかラジオでスポーツ応援番組を担当させてもらうことになりまして、現在は毎週月曜夕方6時~8時 STVラジオ 千秋幸雄のマンデースポーツ応援団という番組を担当してます。
この番組の中でだいたい7時30分頃にはコンサドーレの情報コーナーもお送りしているもんですから、その中で昨日コンサブログのお話をしました。
紹介しておいて、自分が利用していないっていうのもなぁと考えて、本日開設することにしました。

しかし、、、私ったらブログの機能などを全く理解しておりません。苦笑

このブログのテーマを何にしようかなどといろいろと考えたのですが、新しいコンサのことはあまりわからないので、過去を振り返った形にしようと考えました。ですから、今っていうよりかは、去るものを追っている私なりのコンサ10年史をつづっていこうと思います。

偶然というべきか、本日は、私のコンサ史を語る上で、はずすことの出来ない村田達哉さんの誕生日です。
村田さんは2000年までコンサ選手として我々サポーターのハートをキャッチしたわけですが、その後、仙台に行って、途中に大宮へレンタル移籍というのもありましたが、2004年シーズンをもって現役引退しまして、昨年からイタリアにコーチ修行でお出かけしております。
現在はセリエAのキエーボベローナっていうチームの子供たちのコーチをしてます。(あちらでは、学年ごとにカテゴリー分けされているようですね)

村田さんのことを語りだしたら止まらないので今回はやめておきますが(^^;
コンサの10年間を5年ずつ前期と後期に分けるとするならば、コンサドーレの前期にいた選手たちというのは、サポーターと一緒に歩んでくれたなぁとつくづく思います。
村田さん以外にも思い出深い選手がたくさんいたんです。
ですので、次の書き込みでは、過去にコンサに所属していた選手の思い出話をつづっていこうと思います。