一日遅れだけど、ありがとう。中田英!

2006年07月04日

昨日、TV各局でニュース速報が打たれるほどの衝撃のニュースが走った。
「中田英寿現役引退」である。

正直僕も、代表はそろそろ引退するだろうと思っていました。
でも、現役引退って・・・
JのシーズンオフまでJチームに移籍して残りのサッカー人生を過ごしてほしかった。という意見はJリーグファンだからであろうか。
古巣湘南ベルマーレ(在籍当時ベルマーレ平塚)や、出身県のチームヴァンフォーレ甲府なんかなら、もうひと話題あったのかもしれないけど。
最後のキャリアが日本代表・海外チーム在籍だったのは、やっぱり中田らしさなのかも。

彼の引退表明の文(nakata.net)には次のような文が綴られている。

「8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。


あの頃はボールを蹴ることに夢中になり
必死でゴールを決めることだけを目指した。
そして、ひたすらゲームを楽しんだ。
サッカーボールは常に傍らにあった。

この旅がこんなに長くなるとは俺自身思いも寄らなかった。
山梨の県選抜から関東選抜、U-15、U-17、ユース、そしてJリーグの一員へ。
その後、自分のサッカー人生の大半を占める欧州へ渡った。」

Jリーグ入りしたころから中田は海外を常に視野に入れていたという。
入団条件も海外チームを紹介できるクラブだったそうだ。
きっと、海外へかける夢は8歳のその頃からあったのだろう。
そして欧州に渡りシーズンを全力で過ごした。

夢を掴み、日本代表に招聘されて、自分の考えを常に持っていた。
現役最後となった代表戦、ワールドカップドイツのグループリーグVSブラジル戦。
試合後約7分もの間、倒れこんで動かなかった。
宮本以外声をかけなかったのは孤立の証拠といわれていたが・・・

中田は日本のメディアへは特に厳しくしていた。
空気が読めないことの多い日本のメディアへは、僕も中田と同意見である。
本当に「話きいてましたか?」といいたくなる時もある。
彼らは発言のおもしろかっただけを誇大させてニュースを飛ばしたいだけなのだ。

かつて日本代表のユニホームに袖を通した三浦知良や、中山雅史は現在でも代表にこそ呼ばれることはなくなったが、今でもJリーグでがんばっている。
選手生命が揃っていないサッカー選手は彼らと比べてはいけないが、それと比べてしまえば、確かに短い。
だが、この選手生命の間に、彼は日本のサッカーへ数え切れないほどの記録と記憶を残した。

こっちだって心の底からこの一言を・・・

「ありがとう、ヒデ」






中田英寿の所属する事務所のサニーサイドアップ、中田英寿オフィシャルホームページ制作プロジェクトチームの許諾の元、ここに中田英寿選手の引退表明全文を載せたいと思います。
また、上述の文章の一部も著作権等は中田英寿オフィシャルホームページ制作プロジェクトチームにあります。

中田英寿への感謝の意をこめて・・・

(引用ここから)
“人生とは旅であり、旅とは人生である” 2006.07.03

~1985年12月1日 - 2006年6月22日~

俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。

あの頃はボールを蹴ることに夢中になり
必死でゴールを決めることだけを目指した。
そして、ひたすらゲームを楽しんだ。
サッカーボールは常に傍らにあった。

この旅がこんなに長くなるとは俺自身思いも寄らなかった。
山梨の県選抜から関東選抜、U-15、U-17、ユース、そしてJリーグの一員へ。
その後、自分のサッカー人生の大半を占める欧州へ渡った。

五輪代表、日本代表へも招聘され
世界中のあらゆる場所でいくつものゲームを戦った。

サッカーはどんなときも俺の心の中心にあった。
サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。
喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。

もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。
それ故に、与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい“経験”となり、
“糧”となり、自分を成長させてくれた。

半年ほど前からこのドイツワールドカップを最後に
約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた。

何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない。
今言えることは、プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい。
そう思ったからだった。

サッカーは世界で最大のスポーツ。
それだけに、多くのファンがいて、また多くのジャーナリストがいる。
選手は多くの期待や注目を集め、そして勝利の為の責任を負う。
時には、自分には何でも出来ると錯覚するほどの賞賛を浴び
時には、自分の存在価値を全て否定させられるような批判に苛まれる。

プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても
「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。
責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも
子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった。

けれど、プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後
サッカーを愛して止まない自分が確かにいることが分かった。
自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。

それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。
厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。

これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為
ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振舞った。
しかし最後の最後、俺の心に存在した壁は崩れすべてが一気に溢れ出した。

ブラジル戦の後、最後の芝生の感触を心に刻みつつ
込み上げてきた気持ちを落ち着かせたのだが、最後にスタンドのサポーターへ
挨拶をした時、もう一度その感情が噴き上がってきた。

そして、思った。

どこの国のどんなスタジアムにもやってきて
声を嗄らし全身全霊で応援してくれたファン――。
世界各国のどのピッチにいても聞こえてきた「NAKATA」の声援――。
本当にみんながいたからこそ、10年もの長い旅を続けてこられたんだ、と…。

サッカーという旅のなかでも「日本代表」は、俺にとって特別な場所だった。

最後となるドイツでの戦いの中では、選手たち、スタッフ、そしてファンのみんなに
「俺は一体何を伝えられることが出来るのだろうか」、それだけを考えてプレーしてきた。

俺は今大会、日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。
今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く、その上スピードもある。
ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術を知らなかったこと。
それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。
時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。
だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。

ワールドカップがこのような結果に終わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
俺がこれまでサッカーを通じてみんなに何を見せられたのか、
何を感じさせられたのか、この大会の後にいろいろと考えた。
正直、俺が少しでも何かを伝えることが出来たのか…
ちょっと自信がなかった。

けれどみんなからのmailをすべて読んで
俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、
それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。
それが分かった今、プロになってからの俺の“姿勢”は
間違っていなかったと自信を持って言える。

何も伝えられないまま代表そしてサッカーから離れる、というのは
とても辛いことだと感じていた。しかし、俺の気持ちを分かってくれている“みんな”が
きっと次の代表、Jリーグ、そして日本サッカーの将来を支えてくれると信じている。

だから今、俺は、安心して旅立つことができる。

最後にこれだけは伝えたい。

これまで抱き続けてきた“誇り”は、
これからも俺の人生の基盤になるだろうし、自信になると思う。
でもこれは、みんなからの“声”があったからこそ
守ることが出来たものだと思う。

みんなの声を胸に、誇りを失わずに生きていく。

そう思えればこそ、この先の新たな旅でどんな困難なことがあろうと
乗り越えていけると信じられる。

新しい旅はこれから始まる。

今後、プロの選手としてピッチに立つことはないけれど
サッカーをやめることは絶対にないだろう。
旅先の路地で、草むらで、小さなグラウンドで、誰かと言葉を交わす代わりに
ボールを蹴るだろう。子供の頃の瑞々しい気持ちを持って――。

これまで一緒にプレーしてきたすべての選手、関わってきてくれたすべての人々、
そして最後まで信じ応援し続けてきてくれたみんなに、心の底から一言を。

“ありがとう”


ひで
(引用ここまで)
<無断転載・引用等厳禁> 


post by harakei.

23:00

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