的を得る

2009年01月08日

毎日ブログを書いていると、自分で読んでも「変な日本語だな」とか思うことがよくある。結構辞書(といってもネット辞書だけど)を引き、言葉の意味を確認しながら書いてはいるものの、なかなか納得のいく文章は書けないものである。
でも、最近の日本語について、なんだかなぁと思うことがある。それは「言語変化の揺り戻し現象」とでもいうべき現象だ。

的を得る

この言葉、現代では「正鵠(的)を射る」あるいは「当を得る」の誤用である、というのが一般的だ。でも、10年くらい前までは結構一般化した表現として使われいたし、「誤りだ」と指摘する人もほとんどいなかったと思う。かくいう私も、子供の頃から「的を得る」を普通の言葉として馴染んで使っていたと思う。そういう既に一般的に馴染んでいた言葉がここ10年くらいで「間違いだ」といわれてもどうもしっくり来ないのである。もちろん、現在ブログを書く上では「的を得る」という表現は使わない。なぜなら、そう書くと「間違いだ」という指摘のコメントが付くに決まっているからだ。

つまりそういうことだ。

もともとは誤用だったとしても、広く一般的に普及したならば、それはもはや「誤用」ではなく「言葉の変化」である。実際誤用から変化してできた言葉というのはいくらでもある。ときどき、新聞に「日本語調査」みたいなものが記事になることがある。「○○という言葉は○○%の人が間違えて覚えている」なんてヤツだ。でも、これもよく読んでいくと単純に疑問に思うことがある。ものによっては「70%以上の人が間違えている」言葉なんてのがあるのだ。ここまで来ればもはやそれを「間違い」とは言えないはず。言語は常に変化しているもの。言語はコミュニケーションの道具。たとえそれが語源的に「正しい意味、用法」だとしても相手に通じなければ意味はない。だから日本語調査的なものは言語の変化状況を調査するという意味はあるとは思うが、70%以上の人が「本来の意味、用法と違う使い方をしている」のであれば、それは「誤り」ではなく「変化」と評価すべき事だと思う。まぁ、こういう調査の記事は昔からあったとは思うが、10年くらい前まではそういう記事が言語の変化になにか大きな影響を与えることはなかったと思う。それがここ10年くらいのネットの普及で事情が変わってしまった。掲示板やブログなど、文筆の専門家ではない人の文章というのが世に溢れるようになり、言葉の誤用などについて間違いを指摘するコメントが氾濫するようになった。

ネット社会の特性として、匿名性を利用して「相手を見下すことで優越感を得る」という現象がよく見られる。掲示板やブログなどで相手の間違いをコメントで指摘して「こんなことも知らないのか、バカが」というわけである。実はそういう本人もちょっと前に新聞で知ったようなことだったりするのだが。そうしたネット上の「間違いの指摘」は当然に言語の誤用においても行われ、誤用の普及度が高い言葉であればあるほどそれを指摘したときの優越感が高まる。「ほとんどの人は間違っているけど、自分は正しい答えを知っている。みんなバカだ」。こうしてネット上ではやたらと揚げ足取りの間違い指摘が増えてきたのである。その大きなターゲットの一つが「的を得る」。個人的には、ほぼ定着した言い回しだと思っていたので「間違い」という指摘自体に納得しがたい気持があるが、さりとて「正しい」を主張して押し切ることは無理。結果として私もネット上で文章を書くときは不承不承「的を得る」という表現を回避して現在に至っている。

このようにして、いったんは定着しかかった言語変化が元に戻る「言語変化の揺り戻し現象」はほかにもいろんな言葉で見かける。例えば

確信犯

辞書的には「信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪」というように説明されている。政治犯や思想犯などだ。しかし、近年では「わざとやったのに、事故や偶然を装ってごまかす」という意味で日常の些細な出来事に対しても使われることが多い。これもまた揚げ足取りのターゲットとされる言葉だ。「確信犯は”わざと”という意味ではない」と。しかし、これもまたそういう使用方法が普及したのであれば、単に意味が追加された、と理解すればいいだけで「間違いだ」と指摘することに意味があるとは私は思わないのだが、やっぱりこれもブログ上では回避する表現となってしまった。

このようにネットの普及によって言語変化の揺り戻し傾向がこの10年で見られるのだが、所詮は「揚げ足取りをして優越感を得る」という行為の結果なので、私にはなんとも納得のいきがたい現象のように感じる。できれば「的を得る」を復権したい。「確信犯」は「わざと」という意味でよいと思う。

というわけで、今回のタイトルが的を得るとなっているのはもちろん確信犯です!


post by たじ

14:39

その他 コメント(6)

この記事に対するコメント一覧

平均

Re:的を得る

2009-01-08 23:34

今年もよろしくお願いします。 私は言葉は生き物だと考えています。 以前、『ら抜き言葉』がバッシングのように叩かれていましたけれど、方言にあるという話が出てきたら、あまり聞かれなくなった記憶があります。 確か、井上ひさしさんが言われていたようですが(記憶のレベルですので未確認です)、「口は怠けものである」ということもあります。発音しやすく、相手にも情報が間違いなく伝わる言葉が残るということだと解釈しています。 つまり、言葉の正しい用法は時代(そして話者の多寡・話者の階層等々)によって決まるものであろうと思います。 昨日、今日は寒かったです。 が、この気温では、個人的には「しばれた」は的を得ていませんでした。 せめて、-20度はいかないと。

たじ

Re:的を得る

2009-01-09 15:09

>平均さん ら抜き言葉批判は少なくなってきたのですね。 私はら抜き推奨派です(笑) 確かに言葉の正しい間違いは時代によって変わるものですね。 ちなみに私にはマイナス10℃くらいでも十分シバレルだと感じます。 マイナス20℃はほとんど経験したことがない気がします・・・

とんたん

Re:的を得る

2009-02-03 06:51

今回ミクシィの訪問者からこの言葉の誤解曲解を指摘されました 好い歳をして本を読まない者なので、耳学問を露呈した形です 今回は「的(目的)を得る(顕在化する?)」と言う風に言いたかったのですが 表現的に「的を得る」になってしまいました。 日本語の乱れとか本来の意味を逸脱して来ている昨今ですが 古文とか紐解けば分かる事だと今後は勉強をしてリテラシ~をUPしたいと思います 今回は「的を射る」勉強方を本に求める事だと理解して反省と同時に 投稿させて頂きました m(_"_)m

プリキュア

Re:的を得る

2014-04-10 14:01

的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望 正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある 正鵠は的の中心の黒星のこと→それは西周、大槻文彦、服部宇之吉たちが勝手に作った意味が日本と中国に広まっただけ。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく、単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ。「皆侯之中、射之的也」と反論したら笑うよ? 得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。得より取のほうがよっぽどマシかもね 射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある 昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本最初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ 中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である 正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた(どれも戦前から使用)。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る 的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない 的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか 根拠を出せ→民明書房にも劣る駿河台予備校教師中谷臣のソースを信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね 無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破されなければ正論というわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください。間違った言葉を使う人は勉学的バカだが、そういう人をバカにする人は人間的バカである。そして的を得る・得正鵠・正鵠を得る信者は両方の意味でバカである 言語力をなくした悲しい正鵠を得る・得正鵠・的を得る信者さん。このキュアハートが、あなたの正しい言葉の観念、取り戻してみせる!

得るイラネ

Re:的を得る

2014-12-27 15:35

的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望 正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる・すべ・はずれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる) 虞集『尚志斎説』などで用例もある。下記のサイトで「中正鵠」で検索してみよう http://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource 正鵠は的の中心の黒星のこと→漢籍では的自体を指す。日本での意味は槇島昭武の個人言語から広まった可能性あり。西周がそれを参考にしたのか、仏語の' blanc de cible'を正鵠と訳し、弓道の正鵠ができた 結局西周が正鵠と訳した対象は、銃に関わるもので弓とは無関係。日本の弓術は矢が的のどこに当たったかで評価は変わらない。得点的は西洋からきた 中国の正鵠≠日本の正鵠≠仏語の正鵠≠弓道の正鵠。「正鵠を得る=的の中心を射抜く→要点をつかむ」という解釈は近代的・西洋的である 得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。 射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→射るには当たる意味がある。『平家物語』の「扇の的」で「うつ→放つ」「射抜く→射切る」「あてる→射る」と言い分けている 失の対義語は得である→得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失業⇔就業。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。あれれ? 昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ 中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。 正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=正鵠に中つ=中正鵠=正鵠をそれず=不失正鵠≠正鵠を失わず=正鵠を得る=得正鵠=的を得る 的を得るは誤用じゃない→誤用の意味は「言葉の意味を誤って使う。言葉自体を誤ることではない」。的を得るは誤用ですらない 的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか 正鵠を得るがなければ正鵠を射るも的を射るも作られなかった→不失=中=射る、正鵠=的。「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある 三省堂が誤用撤回したから正しい→規範主義でもない記述主義の三国の「誤用。正用」を参照するの? 的を得る誤り説の初出は三国じゃない。三国の前のものには論拠が無い?話題にならなかったから大したことない?論拠を間違えただけで、的を得る自体が誤りという認識があり、的を得るが誤りという論に違和感がなかったかもしれない それを言うなら、的を得る派が正鵠を得るの基となった正鵠を失わずが正しいとする論拠を一切提示していない ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り 『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。 例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。 三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。 BIFFの亜空間要塞は正しい→的を得るを勝手に慣用句にする。的を得る未掲載の辞書を得るを容認しているように話す。日本の正鵠の初出を勘違いした相手を調査不足だと人身攻撃も厭わない。無知と卑下しながらインテリナルシシズム全開 余談だけど心理学では「難しい言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされている。下記のサイトもチェックしてみよう http://ronri2.web.fc2.com/index.html

得るイラネ

Re:的を得る

2014-12-27 15:36

日本と中国は異文化。正鵠を得るは中正鵠でなくて不失正鵠を「正鵠を失わず」と日本読みし、そこから生まれた日本の慣用句。中国にない表現でも誤りではない。日本独自の文化。そもそも異文化を間違いなく解釈することなんて無理。変化は必然。失わずは決して間違いではない →金玉均はきんたまきん?開眼をかいげんとかいがんのどちらで読んでもいい?『ボールが外れたから拾う』を『ボールを失ったから拾う』と通訳する?礼記は日本の本?漢語の失正鵠の対義語は得正鵠? 外国人「糞うぜぇマジshineと書いてるが、死○じゃなくて輝きと訳して問題なし」 日本人「英文で『難病と闘う少年にクラスメイトみんなでshineと言った』という文章があったので、みんなで死○と言ったと解釈しよう」 中国人「日本の小説で『戦友から託された手紙』という文章があった。トイレットペーパーを託されたという意味に違いない」 カトリック教徒「ハライチ澤部は童貞キャラで人気を博した。カトリックの尼僧キャラだな」 メロンパンナ「神戸市民から美味しいサンライズと毒入りメロンパンを貰った。私はサンライズがメロンパンだと思うので、私にとってのサンライズを食べる」 現代人「古典でことわるという単語が出た。判断する意味じゃなくて現代の意味で読むべき」 アメリカ人「日本の子供はポケットモンスターが好きで、ポケットモンスター専門店があるらしい。日本の性教育はおかしい」 現代人「昔の医学書に『この患者は二の腕に注射しないと助からない』と書いてあった。現代人だから一の腕に注射する」 タイ人「日本人は性的な意味で好きな人にmoeと言うようだ。なるほど陰毛か」 イザナミ「雨上がり決死隊のホトちゃん=雨上がり決死隊のvaginaちゃん」 北海道民以外「北海道民が『子供をチョコでぼったくった』と言った。この北海道民は子供から金を巻き上げた」 沖縄県民以外「沖縄県民が『漫湖で写生した』と言った。vaginaでejaculationだろう」 この人たちが「異文化だから間違えても変じゃない。俺たちの文化に当てはめて何が悪い。言葉は変化するものだ。何も間違ってない。現代日本人だって不失正鵠を正鵠を失わずと読むだろ!」と言ったら? 的を得ると得正鵠の基となった正鵠を得るの基となった正鵠を失わずを認めるなら、この人たちの理屈を認めなければダブルスタンダードだと思いませんか? 大きな事柄は小さな事柄の積み重ね。正鵠を失わずを正しいと認めるの? 文字とは昔から今、今から未来へと続いていく約束事だ。それが守られるから現代人は過去の書物を理解し、未来の人々に我々の意思を伝えることができ、異文化と交流できる 文字とは公共財だ。もし自分勝手に意味を読み変えることに寛容であれば、文字の体系性が破壊し、コミュニケーション機能が崩壊し、文字が文字の役目を果たせなくなる 我々人間が他の生き物と違うのは言葉が使えること。自分の意思を相手に伝えるからこそ人間社会は成り立っている 「言葉は生き物。意味が通じれば誤りや誤用でも大丈夫」という意見があるのは、「相手に伝えたい」という言葉が存在する意味を理解しているからだ 言葉は自分だけでなく相手を救うもの。相手を尊重するからこそ、我々は文化・時代・国を超越して理解し合えるのだ それは文化ではなく、人が人を想う心そのもの。互いが互いを思いやる人間として当たり前のこと それを「自分の文化・時代・国として読みが正しければ、相手の文化・時代・国を無視した意味でも正しい」とかどんだけワガママなんだよ 村岡花子の爪の垢を煎じて飲まなくちゃ、ダメよ~ダメダメ

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