2006年01月22日
決意表明からはやひと月半、決して忘れていたわけではありませんよ。なにせ、いつどこで何があった的なことが苦手(そろそろ清野のハットトリックがいつの何戦だったか忘れてしまいそうw でも、“清野がハットトリックした”ということだけは何とか覚えているという感じ)な人間ですので、記憶に残っている事象がいつ起きたのかくらいは資料でチェックしているつもりですが、多少間違ってても許してくだされ(指摘歓迎)。
それから、ここではコンサの10年について、あの年はこんな1年だった、と年表のように綴る 脳ミソは持ち合わせておりません つもりはありません。ということは、コンサの傍らにいた“私”のことが主体になるのかな?何はともあれ書いてみないと分かりませんけど。
さて、それでは始めましょうか。
「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。」
はい、三菱ダイヤモンドサッカーの時間がやってまいりました。毎週耳にした、金子勝彦アナウンサーの番組冒頭の一言ですね。解説は岡野俊一郎元日本協会会長でした。東京12チャンネル(テレビ東京)で1968年から20年にわたって放送されたこの番組、土曜日(だと思います)の午後6時、晩ごはんの食卓を囲みながら見ていることが多かったです。
--- 懐かしいですね。あの頃はまだ、土曜日は会社や学校に行ってましたね。休みは日曜日だけだったですよ。私が小学生~高校生の頃の土曜日は確か半ドン、大学を出て就職した頃には会社は半ドン~4週6休~週休2日への移行期でしたね。しかし、週休2日と言っても残業の多かったその会社ではフツーに休日出勤してたような気もしますが・・・。
話がそれてしまいました。
その三菱ダイヤモンドサッカーでは、当時ほかでは滅多にお目にかかれなかった海外のサッカーを放映していました。その中でも、私の記憶にはブンデスリーガの試合が断片的に残っています。正直、どんな試合だったか、どんなプレーがあったかはほとんど覚えていません。でも、金子アナの口から「オクデラ」と言う名前を数多く聞いた覚えがあります。その選手はサイドにいて上下の運動量の多い選手だったと記憶しています(あくまで記憶ですからw)。そう、古河電工、1.FCケルン(独)、ベルダー・ブレーメン(独)などで活躍した奥寺康彦氏(現横浜FC・GM)のことですね。で、奥寺も所属した1.FCケルンには、後に来日しJEF市原などで活躍することになる、ピエール・リトバルスキーもいたわけです。
--- サッカーは見ることはあってもプレーすることはほとんど無かった子供の頃、空地では草野球を見かけても、ボール蹴ってる子供はほとんどいませんでした。入った中学にサッカー部はあった。確かにありました。しかしですよ、前髪がひさしのようになっているI君とかね、ええ、まあ、その、ちょっと怖かったわけですよ>サッカー部の人たち(当時)。サッカーじゃなければほんとは バレエ バレー部に入りたかったんですが、私の通っていた中学にはありませんでした。で、友人に誘われるがままに、小学生のときにやっていた剣道部に入ってしまったのです。
また話がそれましたね、リティの話をしなければいけません。でも、彼に到達するにはコンサの話をする必要があります。
コンサドーレ発足時ですが、誘致賛成の署名はしたような気がします。あ、いま「気がしますって、あんたねぇ?」とのツッコミが聞こえてきましたが、なにせ、覚えてないモンは覚えてないんだからしようがありません。ただ、私の家には当時(株)イエローページから発行されていたコンサドーレマガジンが、なぜかvol.8を除いて創刊時から揃っているので、サポと呼べるほどではないにしろコンサファンであったことは間違いなさそうです。
さて、96年のコンサドーレ札幌はJFLの舞台で戦っています。当時ブランメル仙台にはドイツから93年に奥寺氏に連れて来られ、JEF市原で2シーズンプレーしたリティがいました。
--- 私は古河の鉱山があった町の古河系の病院で生まれたせいでしょうか、子供の頃からJSLとアイスホッケーは共に古河電工を応援していました。1960年頃は、この2チーム結構強かったんですよね。だから今もJEF千葉はどちらかといえば好きだし(コンサとは比べようもないがw)、アイスホッケーはバックスファン (コンサとは存続の危機つながり) です。
リティが厚別に来る。三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのある彼を目の前で見ることができる。それは私にとってとても魅力的でした。96年の七夕の日、 天の川 津軽海峡を挟んだ 織姫と彦星 仙台と札幌が厚別で対戦しました。試合は札幌3-0仙台で、数字上は札幌の完勝です。試合の詳細は例のごとく記憶にありませんが、そのとき私が感じたのは『なかなかやるじゃないの、コンサ』と、『リティ、やっぱすげーよ!』でした。私が見たリティは、この試合で彼が魅せた足技は、紛れもなくブンデスリーガで活躍していた、三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのあるそれでした。
おまけ:コンサドーレマガジンを見ると、当時の仙台は試合の序盤リティをCBに入れて守りをかため、勝負をかけるタイミングでは本来の中盤に上がりゲームを支配する、というシステムをとっていたようです。また、リティは94年の市原で現役生活を一度終え、96年に復帰しています。そういえば、ごっさんも一度やめて復帰したんだよね。。。
プロフィール
他界寸前の元サポ、今はただのファンかもね。納得いかないときは推さない傾向、そんなわけで今年はテレビ応援&家族の送迎係。俺にとってのセルジオ越後氏はアイスホッケーの人。千葉ロッテマリーンズ今年の目標はやっぱり“下克上”。ほれ、簡単にしてみたよw
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